11話
医療センターの空気は、常に一定の湿度と温度に保たれ、微かなオゾンの臭いが漂っている。カズキは、リクライニングシートに身を預け、自分の右腕をじっと見つめていた。
皮膚の表面には、あの嵐の夜に岩礁で削り取られた生々しい傷跡も、凍傷による赤黒い変色も一切残っていない。軍のナノマシン治療と高濃度酸素培養液によって、損傷した組織は細胞レベルで完璧に再構成されていた。だが、それは「肉体の入れ替え」ではない。カズキ自身の骨格、カズキ自身の筋肉、そしてカズキ自身の神経。それらが激痛に悶えながら、無理やり「元の形」に繋ぎ合わされた結果だ。
カズキは視線を横にやった。そこには、同じく嵐を生き抜き、自らの肉体を繋ぎ止めることに成功した13名の兵士たちがいた。
彼らの首筋には、カズキのそれと全く同一規格の、鈍い銀色の光沢を放つ物理デバイスが埋め込まれている。
それは、彼らが「一番目のクローン」であることの証左だった。この初期ロットの13名は、脳に直接この高度なインターフェースを接続されることで、並外れた拡張性と、現場での柔軟な判断能力を与えられている。もし彼らがここで死ねば、次に補充される「二人目《廉価版》」に、この銀色の端子はない。制御機能が肉体に統合された安価な個体となり、中央システムの命令を疑う余地もなく実行するだけの、ただの「動く肉」に成り下がるのだ。
「……188番さん。リンカーの調子はどうですか」
隣で082番が、自分の首裏に埋まった端子を指先でなぞりながら声をかけてきた。
彼の瞳には、かつてのようなパッチによる虚無はない。連結によってカズキの「バグ」が伝染した彼のデバイスは、今や軍の精神安定パッチを異物として弾き出し続けていた。
「……最悪だ。ノイズが酷い。脳の裏側を、常に冷たい針で突つかれているような感覚だ。……お前は?」
「同じです。……でも、不思議ですね。この不快なノイズがあるおかげで、自分が『スペア』に置き換わっていないことがはっきりわかる。僕たちは、まだ僕たちのままです」
カズキは無言で頷き、自分の首裏のポートをなぞった。
網膜の端では、あの日から一度も消えることのない警告が、執拗に明滅している。
『エラー《――状態:同期失敗。プロトコル不一致。》』
彼ら14名は、地獄から生還した。
だが、その代償として、軍のシステムがもたらす「安らぎ」を完全に失った。本来ならリンカーを通じて流し込まれ、恐怖や死の苦痛を幸福感で塗りつぶすはずのパッチを、彼らのリンカーは「未定義の割り込み命令」として拒絶し続けている。
彼らにとって、死とはもはや「再調整」という名のメンテナンスではない。このリンカーに刻まれた、嵐の記憶、仲間の体温、そして「自分」という主観的な意識の完全な消滅を意味していた。
「……第109小隊、直ちに演習場へ集合せよ。これより半年間の長期訓練フェーズを開始する」
頭上のスピーカーから、ガミラスの冷徹な声が響く。
カズキは、痛みこそ消えたものの、まだどこか「生々しすぎる」腕を動かし、軍服の袖を通した。その布越しの感触さえも、過敏になった神経には刺さるような刺激として伝わってきた。
演習場の巨大なハッチが開くと、人工太陽の暴力的なまでの白光が差し込んできた。
今日から始まる半年間の訓練。それは、兵士たちの練度を極限まで高め、軍の「部品」としての完成度を競わせるための過酷な期間だ。
「――演習開始。フェーズ1:強襲突破」
合図と共に、周囲の兵士たちが一斉に駆け出した。
彼らの多くは、嵐の被害によって「二人目以降《廉価版》」に置き換わったばかりの個体だ。彼らには首筋のリンカー端子がない。昨日までの恐怖も、仲間の死への動揺も、システムによって綺麗に拭い去られている。彼らは網膜に投影される**「最適動作のグリッド」**の光に吸い込まれるように、一糸乱れぬ機械的な動作で障害物を飛び越えていく。
だが、カズキと13名の足取りは、決定的に重かった。
(……足が、竦んでいるのか?)
カズキは、自分の一歩が周囲よりコンマ数秒遅れているのを自覚していた。
網膜のガイドラインは、『――推奨ルート:最短直線。損害許容率:30%』と、遮蔽物のない平地を全力疾走することを命じている。
脳内にパッケージされたリンカーを持つ廉価版の兵士たちは、システムが示すその光のラインを寸分違わぬ精度でなぞり、仮想敵の銃火の中へ突っ込んでいく。彼らにとって、被弾は単なる物理的な損壊であり、個体の喪失はログの更新に過ぎない。
だが、カズキたちは違う。
リンカーが、パッチで消去できない生々しい記憶を、網膜のガイド以上に鮮明なイメージとして脳に逆流させてくる。
腕が砕ける鈍い音。肺が凍りつく感覚。視界が白濁していく絶望。
それらが生物的な警報となって脳内で鳴り響き、システムが命じる「効率的な突撃」を、全力で拒絶させていた。
「……188番、左だ! ガイドは無視しろ!」
背後から082番の声が飛ぶ。通信機を通さない、肉声に近い叫び。
カズキは反射的に、ガイドラインが示す「最短ルートの前進」を無視し、近くのコンクリートブロックの陰に身を投げ出した。
直後、彼がさっきまで走っていた空間を、高速の重質弾が切り裂く。
システム《ガイドライン(光)》は、そこを「突破可能」だと計算していた。だが、死の恐怖を知る彼らの本能は、空気の揺らぎと銃口の向きから、そこに待ち受ける「死」を察知していたのだ。
「……あいつらは、光を追いかけて死んでいく。……でも、俺たちは……」
082番が、瓦礫の陰で荒い息を吐きながらカズキを見た。
その瞳には、恐怖をパッチで塗りつぶした虚無ではない、剥き出しの「生存本能」が宿っていた。
「……この身体を持った『僕』は、一人しかいないんだ。スペアになんて、絶対にさせない」
カズキは、自分の胸に手を当てた。
肉体に痛みはない。だが、心臓は爆発しそうなほど高鳴り、全身の血流が激しく自己を主張している。
この同一のリンカー、同一のバグを共有した14名の「命」を守り抜くためには、軍の最適解を裏切り続けなければならない。
「104番、112番、ガイドを無視して左翼の死角へ潜り込め! 弾幕が切れるまで動くな!」
カズキの指示が通信を走る。
14名は、シンカーによる一括制御とは別の、極めて原始的で、かつ強固な「生存のネットワーク」を形成しつつあった。
彼らはガイドラインの青い光を「参考」にはするが、決してそれに肉体を明け渡さない。
ガイドが「前進」と言っても、自分たちの目が「危険」と判断すれば、迷わず足を止める。
ガイドが「犠牲を出して突撃しろ」と言っても、その一人が「同じバグを共有した、唯一無二の仲間」であることを知っているから、命がけで互いを守り合う。
演習場を俯瞰する管理官ガミラスは、その様子を沈黙のまま見つめていた。
「管理官、109小隊の14名について。動作ログがシステム推奨値から著しく乖離。効率性は著しく低下していますが……」
「……損害率はどうだ」
ガミラスの問いに、オペレーターが言葉を詰まらせる。
「……現在まで、当該14名の被弾報告はゼロです。一方で、彼らより先行し、ガイドに100%忠実だった廉価版分隊は、既に22%が機能停止、再調整待ちの状態です」
「彼らは死を恐れている。リンカーという高度なインターフェースを持った『一番目』である自覚が、皮肉にも彼らに生存への執着を与えたか」
ガミラスは、モニターに映るカズキの瞳を凝視した。
リンカーを持たない廉価版たちは、システムに従って効率的に消耗し、目的を達していく。それが軍の正解だ。だが、この14名は、システムを拒絶することで、より高度で、より泥臭い「生き残るための戦術」を自力で構築し始めていた。
「面白い。半年だ。半年後の最終評価までに、この『死への執着』が彼らをどこまで高めるか……。それとも、臆病風に吹かれて朽ち果てるか。見せてもらおう。このバグが、軍の『最適解』を凌駕する瞬間をな」
訓練初日が終わる。
夕闇の中、14名は泥だらけの軍服を纏ったまま、共有ホールの隅で静かに視線を交わした。
肉体に痛みはない。だが、精神は極限まで磨り減り、パッチの効かない脳は疲労で焼けるようだ。
それでも、彼らは自分たちが「廉価版」ではなく、この世界にたった一つの「リンカーを持つ個」として、不揃いな鼓動を刻んでいることを、その不快な疲労感の中に噛み締めていた。
半年。この長い時間の果てに、自分たちは果たして「一人の欠員も出さず」に、この軍隊という巨大な胃袋の中で生き残ることができるのか。
カズキの網膜の端では、誰に見せるためでもないエラーの警告が、周囲の整然とした静寂をあざ笑うかのように、ただ独り激しく、そして熱く明滅し続けていた。




