Rans―Ⅵ こころここのかんじ
この街の警察には、魔法使いの息が掛かっている。風来の余所者が悪巧みの頭でも迂闊に呟けば。
その前提が、そもそもの致命的な間違いと彼に対する風潮は嘯く。
言葉は惑わすために用いる武器だ。銃器を差し置き槍はおろか短剣より使い回しが利いて隠しやすい生得的な兵器など信用に値しない。
魔法が掛かった街に足で一歩でも踏めば最後、企みは『魔法使いの末裔』とそのお友達に知れ渡る仕組みだった。
電話を受けて図書館から足で駆けつけた――そんな橘も『魔法使いの末裔』こと友達の式折々から、だいたいの事情さえ説明もなく、到着後も要領を得るのはなかなかに骨が折れた。
というか、いつもなにかと、気がつけば暗躍している式の風潮も、たった今電話を切られる前に捨て台詞の代わりにされたことで知った。
「ほら、お母さんのところに戻ろう?」
少年に促した警察官とは別に制服組はあともう一人いた。私服で駐車場を走って行った数名の素性は市の所轄の刑事。警察手帳を提示してくれたが、橘にはそれが如何にも、で彼らとは目が合う回数も数えてみて多かった。
彼らが乗って車には身分を証明するものを持たない。とは言うが乗用車と違い取り外しの利かないランプで粋がっているパトカーから降りてきたからといって、おいそれと決めつけてしまえるピュアな心を、橘は知らない。
全部、世間から不都合な情報を隠蔽する魔法使いの仕込みの可能性だって。
「……行かない」
警察官が困惑気味に表情を濁す手前、手を引かれた少年は無関係な一般市民。式、橘に騙される善良な愚民である。わざわざ証明する必要もないほどに。
彼ともども、モアの正体は知らないで、怪物は軽率なことに少年を一人で街を連れ回したと当の本人から打ち明けられた際、橘は多少なりともショックを受けた。
少年の母とやらは気絶させられただけで、身体には目立つ痕跡のような失態は素人の橘から見ても見受けられず、モアの言い分はあれで正しくなった。
魔法使いの手筈で呼ばれた救急車で医学的な念押しをされていた母親に、息子は会おうと思えば会えた。
「タチバナ?」
「短く、だよ」
優しく説き伏せるまでもなかったが、念を押した。
懲りたとは彼を前に言う立場にいられなかったモアは苦々しい表情で向き直り、歩み寄ったモアの手は少年の弱々しさにあっさりと掴まってしまった。
「お前、と……一緒だったら」
「怖い……ボクにも怒ってくれる人がいる。だけどボクは君とは行けない」
「ここまで、連れて来ておいて……!」
モアには見込みがある。連れて行き、二人で会えば母親は息子を怒りづらくなる。
きっとそうなっていた。
「疫病神なもんでね。喧嘩したのも、母親があんな目に遭ったのも。なにもかもボクのせいに全てを押しつけた後は、綺麗さっぱり忘れた方がいい。熱い風呂に入って、よく眠って、日が昇ったら走り回れ。なにそうすれば、忘れたことも忘れているさ」
自分のような厄介と遭遇しないように。
今後は好物に目が眩んでいても注意せよ、と。
「君とボクとの間に、はじめからなんの関係もなかった。関係を持ってはならない。今後は迂闊な真似はしない。街で見かけても声を掛けたりしない――“この警告は絶対に忘れない”」
少年は身を竦ませていた。吸血鬼の能力の一端を解放した、とは違う。そんな力で魅了しなくてもいい。
向き合い、モアの眼をよく見れば、ニンゲンではないことくらいすぐに判ることだ。
手を握り返し、柔らかい手つきで離し、はぐれて行った。
「さすがに連続で当たることもないだろう!」
「あれは……モア、あの子の持ってるのアイスの、棒? あれどうしたの?」
「いやぁそれが、外れなくてね。運が悪いことに」
運のせいか。運が全て悪いのか。
「僕の前からいなくなったのは、巡り合わせの結果だって」
そういうことなのかどうか、モアに二回も失踪させた橘にその覆ようのない現実が尋ねてくる。
そういうこと。なんだろうか。
時の権力者たる魔法使い立ち会いの元、誓いを立てた。死を豪腕で潰し殺そうとする力に歯向かい、なんの因果か、救いたかった人はこうして死に永らえて。
「今度こそ! 金輪際! 誓って、勝手にいなくなったりしない!」
『吸血鬼殺し』との約束を経て、猶予が始まる幕間の折、モアは一度橘の前から姿を消したこともあった。目を離すのはいつだって一瞬の隙。
そして必ず戻ってくる。橘の存在する場所に。
真実は、現実はそう橘にとって甘くはない。モアと呼ばれる童女は、橘の世界の中にしか存在しない。
吸血鬼となった時、彼女はとっくのむかしに死んだ。血を断ち、世界との繋がりを絶とうとしていた怪物を繋ぎ止めている。
かわいそう。あんまりだ。美しいが中身のない同情心に負け、挙げ句の果て家族を失い世界からも見放された男が残骸と化したのは、神に背く行いをついに果たしてから。
橘の元に帰ってきたモアは笑っていた。
笑って誤魔化そうとする怪物を見ていると、身体が奥底から熱くなった。意識を溶かす酷い痛みだが裏腹に、ミントの塊を奥歯で噛み砕いたかのように頭は冴えてくる。
三ヶ月の猶予を悠長に過ごさずとも、モアは何度でもいなくなる。元より存在しないのだから。
橘しか、吸血鬼の手を取れない。
大湖であれば、不意と投げた小石でも波紋が広がり対岸に届く希望も持てる。だが自分達の前を流れる運命は流れが速く、小石程度での波紋は簡単に打ち消される。
足元に落ちた手掛かりを投げ入れていけば、積み上がった石も水面から顔を出す。いつ渡れてもいいよう、繋いでおくために、片手を空けておかないと。
「帰ろうモア、今日はもう疲れた」
手を取られたモアは、呆れを包み隠そうともしない。
「あれこれ悩んだ素振りだけ見せて結局、自分の感情に疎いだけ、とは。当たり棒、あげたのはボク的には失敗だね」
「言うじゃん。怒ったのは嘘じゃないよ、ただまだ少し、理解してからの方がいいと思ったんだ」
言語化できないほど、怒りという感情に疎い。
「ひとまず、遊園地に帰ろう。それが僕らがまずすべき、この街にこれ以上迷惑が掛からない唯一の術だ」
「実際被害を出したのは、あいつなのに」
後味にゴニョニョとばつの悪い顔をモアがしても、橘は対話を交え宥められる。
『吸血鬼殺し』の眷属はもういないのだ。『魔法使いの末裔』がなんの意図で、警察に連行させたかは理解の外でいい。
自分達以外、ガソリンスタンドには誰もいなくなった。とりあえずは、まっすぐ帰路に就いても五体満足でいられる保障がついたわけだ。
その隙に、と――橘はいきたいところだったが。
周囲からは視えない生垣の草陰から、手招きしていた。
「もうみんな行きました。僕達だけですよ」
「騒動を収めて、匿ってもくれるなんて。感激だぜ。無念だぜ――今夜のところは、どうかこれで勘弁してほしい」
身を潜めるのに畳んだ身体よりも小さくまとまろうとする彼女に、橘が押し殺した心で言った。
「そこまでしなくても! 大袈裟ですって!?」
「この国の謝意と礼節を兼ねた画期的な作法、じゃあないの?」
「一理あるのがまた反論に困るな!」
いや、だが夜中に地面で土下座は感謝からかけ離れていた。
女性を這いつくばらせる目の前に男が、こともあろうとに女児を連れているのも画的にまずい。
「どうするのが正解?」
「こういう時は万国共通で握手でいいだろ」
目のやり場に困る。肌の色に極めて近いライダースーツのような恰好に顕れた曲線の美。それを前に正直に白状もできない橘は立ち上がらせようとした。
「こ、これで、次は?」
「いやいや礼を言われる筋合いはないよ。ボクが危ない場面を君に助けてもらったんだ。この手を取る権利はタチバナ、君にはない」
橘を押し出したモアが、下から差し出されていた長い手を掴んだ。
考えを改めてくれるほどに、思った以上に『吸血鬼殺し』よりかは言葉が通じる。だから今回の両名の落ち度は、無警戒な相手に対する態度。
「タチバナ、ボクに囚われた君も、薄々程度には感じることができているんじゃあないか」
「……でも、モア以外には絶滅したって、吸血鬼は……」
「と、いうわけで。彼はボク達の事情を知ってまだ日が浅くてね。放っておいてくれると助かる」
二人は同時に相手の手を離した。
「わかった。『吸血鬼殺し』――奴への借りを返すまで邪魔をしないと約束してくれる限り、危害は加えないと誓う。今のままじゃそれでも不安だろうから、してもいいかな。自己紹介」
膝についた泥を軽く落とした。
それが、モアや橘にとって、彼女が名無しの他人だった最後の瞬間。
「モア――『第二十の始祖』。絶滅した吸血鬼の最後の一匹だ」
「よろしくモアさん。ぼくは、あなたと同じ吸血鬼。我が天敵への復讐を果たさんと地獄の業火より甦った、新『第十七の始祖』――吸血鬼サ=マエル」
※ご愛読ありがとうございました。後編投稿は2026年12月~の予定です。




