Rans―Ⅴ 逆さ十字
モアは歯を見せ唸った。
敵影を眼前に捉え口元から溢れた人外の象徴は典型と比べると幼い。
最も新しく怪物となった経験の浅さ、ただ一つの例外を除き、命に濡れてこなかった――砥がれる事のなかった凶器は脅しにも使えないほどに先は丸く鈍だ。
強烈なコンプレックスを洗い漱ぐかのように背中を丸め、毛も髪以外は薄い身をモアは猫にでもなったつもりで逆立てた。
背後では少年が震えている。突拍子もない現実に呑まれ恐怖を感じようとも、モアを楯にしてしまっている罪悪感もまた抑えの利かない衝動なのだ。とはいえ巻き添えを受けただけの少年に非は全くない。
怪物同士の諍いに巻き込んでおきながら、守り切れる自信のないモアがなにもかも全部悪かった。生きる糧である家畜も同然の生命を身を呈して犠牲になろうとする。
その誇り高い善行こそが、道理を外れた致命的な欠陥である。
「強者の余裕っ……てやつか?」
シニカルに浮かべた笑みを、『吸血鬼殺し』の忠実なる肉人形の仏頂面に跳ね返されてしまったとくれば、虚勢に虚勢を張りなんとか耐え忍んでいたモアの精神状態も涸れ底が早くも見えてくる。
一体どこまでの振る舞いが、彼の下僕の受けた命令なのか。
「全く、慇懃無礼な女だよ。まともに話したこと、ボク達の間であったかい? お互い、怒鳴り付ける保護者が揃って不在なんて滅多にないかもしれない。顔を突き合わせて親睦を深める絶好のチャンスだと、好意的に捉えてほしいんだけど」
前回手痛くしてやられた原因を自分なりに考えたモアは、最低限度のモラルを注意しなかったと結論を出した。
土壇場に。今この場という絶望的な状況下において。
「――。気を反らす。一般人を逃がす隙を窺う。成功する確率を計算中。計算中……」
「計算中止しろバカ! それはちょっと、だいぶ機械に徹し過ぎなんじゃないのか!?」
慇懃無礼となじったのを。いやまさか根に持つ、なんて性格をアレが人形に持ち合わさせるとはさすがに自分の想像が豊か過ぎた。
「そんな態度じゃあ、色々と勘繰られるぞ。この世の中、誤解はあっという間に広まるって常識を身に着けないと、主人もいい迷惑だ」
「慇懃無礼な性格であるのは、主人もご存じですので」
「やっぱり根に持って! ――……根に持ってるのか?」
腕を組み、なにやら考えに耽り出す。
『吸血鬼殺し』の与えた戦闘様式の一機構か。それは注意を反らしたかったモアのまさに理想的な光景だが、当の本人ときたらそれは目新しい光景ですっかり心を奪われていた。
「君――案外感情があったりする?」
「感情なんてありません――卑猥な発言に対する撤回を即時請求します」
知ったような物言いをほざいたにしても、そこまでの罵詈雑言を浴びせられる覚えのないモアは当然要求は聞き入れなかった。
「そんな恥ずかしがるようなことじゃあないと。あいつはボクらよりタチバナの側に近い生命なわけだし、君のその姿だってもう完全な吸血鬼ってわけにはいかないんだから、話相手くらいにはなってやれるだろう? あんなんじゃ友達も禄にできないんだし」
「気遣いは要りません。そして『第二十の始祖』を勝手に通すわけにはいきません。対象の監視範囲は半径五メートル。当施設の敷地面積はおよそにして、十メートルです」
自棄に口数が多くなったそれが、暴打となりモアの脳裏を揺るがせ、重要な見落としをようやく想起させた。
「そうだった……。お前のその姿、包帯」
人外に制御可能な人形に当て嵌める包帯。これに、吸血鬼最後の生き残りだったモアはしてやられ敗北を喫し、単なる人形に並々ならぬ警戒心を持ってしまう決定的な出来事になった。
「だ……騙されるところだ! 包帯は脱げばそれで済むだけの話だし、身体に咬み傷は」
なんの得が。目撃者を封じるのは手がいくらでもあろうものを。血を吸ってしまえば『十字架』の方が粛清の対象になってしまいかねないというのに。
「発言の撤回を。あくまで『第二十の始祖』の監視。彼らに危害を加える命は受けていません。再度警告します。監視を外れるための強硬手段は即時、非常措置に則り無力化させていただきます」
「ま、待って……ボクが疑うのを止めたら。君達だってこんな馬鹿なことしてる場合じゃ」
第三者の存在を唆すモアの方に、冷静を残させるような理性が少しでも残っていれば。愚考を反芻したところで後悔にもならない。
モア自身、迎撃態勢に入った『十字架』を前に判っている。
そんなこと。だが明確な事実と、それを理解できるのは違うのだ。
だとすれば、次は?
――『次』なんて都合のいい希望が。現実にはこんなにも、殺意に溢れているではないか。
モアは決断を迫られていた。そうであったからこそ、彼女の口を以てして言い換えられた。
戦いが始まれば凡てを破壊されるモアには僥倖でも、戦いが終われば、総てを果たし切るはずった『十字架』は、前だけを最後まで見据えたまま、頽れるその瞬間まで敵を諦めなかった。
膨れ上がって殺意が体内で暴発するように倒れたのと入れ替わって、背後に立った第三者は結果として救われた立場にいたモアも知らない不審な正体を匂わせた。
「手を出すならボクに、そこで倒れたのと……同じだ」
提言した世迷言を信じなかった身に味わわせてくれたことが、どれほど感謝に値するか示すのが筋なのだろうが。相手はそれを、まだ通してくれていないためモアは躊躇した。
吸血鬼の天敵を不意打ちに、背後から締め落とした。
そうするに至った背後関係を、後ろをふり向く間もなかった『十字架』と同様にモアは質した。あれはできないのだし、ほかに人手もなかった。
におってきた血は、鬼の鼻で感じるには相当の時間が経った故の古さだった。奇襲を受けての反撃の結果が身体に顕れたわけではない。
奮闘虚しく倒れてしまった『十字架』に事実を、わざわざ起こしてまで説明するのは嫌味としては意地が悪過ぎる。
止めて捨て置くことにしたモアだったが、こちらはそっとしておくには危険だった。
「あなた、だったんだね。奴をこの街に呼んでくれて……こんな形に出逢うこともあるとは知らなかった。お陰で少しでも救われるみたい。……ありがとう」
吸血鬼最後の生き残りであるモア曰く、見知らぬ人ということになる彼女は、モアが言うはずだった言葉を自身の締まっていた口を解すのに使ってきた。
「“奴”? ――『吸血鬼殺し』のこと? まさか君も奴に狙われているのか!?」
「……今、二人を起こす。用は済ませたから、これ以上、もう、待たせたりなんかしない」
モア達の求めた答えを用意できなかった彼女は、あやふやな悔いだけを言い残し通り過ぎて往った。
身体からした。においは灯油のものだった。
頸筋を撫でていた髪先がこの前に切れたのは間違いなかったにしろ、元は長かった彼女の今のスタイルにそこはかとなく感じた不自然さの要因。
彼女を焼いた炎の燃材は、今だその身体の中に満ちている。なにかの拍子でいつ噴き出しても可笑しくなかった。
「母ちゃん!」
「なんで、え、ていうか」
「なにがあったんだ……? 確か」
気絶から起こされた母親に息子は駆け寄った。記憶の一部が抜かれ状況を呑めず頭を押さえてはいたものの、店員も併せて外傷はない。
「こんなことになってしまって。本当にごめんなさい」
鼻でモアが断言できたなら、彼女とて取り乱すような事由はなくて然るはずだったが。
足の腱を切られでもしないとできない姿勢で、謝るのを絶対に止めようとしなかった。
混乱させるのはニンゲンだけと思いきや、モアにまで擦り寄ってくる。
なにを言っても聞き入れる空気ではなかった。そして誰もが黙ろうと、彼女は彼女にしか理解できない罪に贖っていた。
自分も謝罪を受け取ったモアは最初、暴力的なシーンを見せたことへの謝罪だと。盗みを働いてしまったのがそんなにも重いのか。
辻褄を合わせるためだけでは、そのどれもが弱い。あと、もう一つ。
「傷つけるつもりじゃなかった! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
そして、跪いた張本人は、誰とも目を合わせようとしなかった。では、ならば彼女は一体。
本当は誰と、向き合いたかったのか。
「ぼくじゃ、あなたみたいに……完璧になれない」




