Rans―Ⅳ 溶けるアイス
夜が滲んだような夕刻の空の下で、生ぬるい風が過ぎていけばさざ波にも似た音が立った。
風を受けながら、トボトボと。二つの影を憚りがちに避けてふり返った周囲からすれば、それらの足並みは揃いつつも、決して軽いものとは言えない。
二者のうち、特に片割れは外傷をその身に受け尽くされた創痍の邪気を撒き散らしていた。あれに当たればひとたまりのないと、目撃者は本能から目さえ合そうともしなかった。
「なあ、なあって。店出たんだからいい加減やめてくれよ、それ。今どうなってるか、顔を上げて見てみろよ!」
隣に連れ添う少年の批難は確かに耳に届いて、下を向いていても今がどんな状況か見当がつく。憔悴したモアにとっては、それらに応える気力があるかどうか。
「見たくない……現実を見なければ、ないのと同じ……」
「断言する時点で理解し切ってるじゃないか。そりゃあ、ここまで来て多少は落胆したいお前の気持ちはわかる――」
聞き捨てならない戯けを恥ずかし気もなく嘯こうとした口があった。なのでモアはここまで握り締めてきたアイスの当たり棒をそこに突っ込んでやった。
「負った傷を舐めるような真似はせんでくれ!? 君にまで慰められたらこの先、こんな絶望しかない世界に叩き落とされたボクはどうやって生きていったらいいんだ! いいか少年よ、神は……神は! ボク達二人を、本気で殺る気だ!」
まさに地獄の底へ叩きつけるように体重を掛けてきた少女に、少年は神よりも先に命を獲られそうになる。
当然ながら、こんなことで死ぬ理由は毛頭ないが目の前にいる相手は普通の精神状態ではない。
言葉も、力。今用いることができる全てを曝け出し彼は立ち向かった。
「交換するアイスが売り切れになったぐらいで! 人を! ころすな!」
「“そんなこと”……だって……? オヨヨ……外は今だ暑いのに、ボクの心は今や……アイスよりも冷たい、凍っている。凍っているぞ……!」
肩を落とし泣き顔を隠すが、落ちる涙は言うように凍っては、一滴たりともなかった。
気を落として氷になれるほど、日中散々と熱せられた外の暑さは陽が引いたくらいでは引かない。そのせいで街中の店から当たり棒と交換できるアイスの影も形も消え、連日の猛暑で品薄はいつまで続くか、客を、それも子どもを前にした店の者でも答え切れなかった。
「そんな大袈裟なこと言って。たかが、アイスだろ」
「世界でたった一人だった味方も、奪うつもりなのですか――……どうだ!?」
「うお、ビックリした……」
喰らう勢いで夜を見上げたその気迫。身を退かせた少年だけに留まらず、自分を見た全員の視線を吸い尽くすまでの大立ち回りだった。
「ボクは甘美な絶望を踊れるあなたの道化です! ようやく己の立場を理解しました――次はなにを踊ればよろしいでしょう!? おいだまってないでなんとか言ったらどうだ!」
「……空と、喋ってる」
身体から正気は完全に喪われた。
全てを出し切ったモアは、最後に溜めに溜まっていた息を吐く。足元が少し軽くなったようだった。
「ハァア~……。――つかれた」
「で、しょうね」
萎み切った身を、アテもなく引きずっていった。
当たり棒がただ一つの手掛かりではあるものの、少年の目には、とても出逢ったばかりの彼女と同一人物とは思えてこない。どこかで入れ替わってしまったか。目的の途中で立ち寄った店のどこかが怪しい。
九十七かその辺り。だが状況証拠もないし、なんだかんだ言いつつも付いてきてしまった少年もここまで冷静ではなかった。
彼女を見て正気を取り戻したからといって、冷静さを欠いていた判断に頼り、はぐれてしまった本物と合流するのは確率と同様に高いリスクだった。
正気を喪い、互いに極限状態だったからこそ、物事の本質を見抜けたとポジティブに発想する頃合いなのかもしれない。
絶望に導こうとするその采配。計算を基に人心を操ろうとする残酷な数学者のような一面。
踊らされる側には享楽的にも感じ、浸る絶望の深さはどうしても計り知れなくなってしまう。
それは最終的に、結局は、受け取り手次第である、というメッセージが込められているのかもしれない。
「なあ、もうちょっと……探してみるってのも、アリなんじゃない?」
「アリでも、ナシでも……ここまで来て見つかりませんでしたじゃ、明日から生きてけないよ」
「アイス一本のために、よくもまあそう感情をすり減らせるよなぁ。オレにも、その気持ちがわかってやれたら……――ああいや、なんでもない。だったらあそこ、あそこなら置いてるかもしれない」
大通りを跨いだ向かいには、一軒のガソリンスタンドがあった。
「スーパーにもコンビニにもなかったものが、あんなところにあるのか?」
「ジュースも紙コップで出してくれるし。それにほら」
給油所に止まった一台の車を根拠に、少年は自信を持ってモアの手を取った。
「今なら空いてるっぽいしさ」
「う~ん……――意外な、盲点だったかもね」
己の背後に零れ落ちてきた苦笑を、この場で半ば乱暴になり相手には悟られる危険性を孕んでいるのを承知の上で他に選択肢がなかった状態で聞き逃してしまうほど、馬鹿であればと、自身の性格さを呪った。
案の定、共犯に選んだ彼女は自分よりずっと賢く、捻た性根の持ち主だった。地頭が根本から違う。
歳が近そうなのに狭い街で顔を知らないわけだ。市外の私立に通うエリート層は、その話し方までもに平民を忌避させる要素を持たされ産まれてくるのか。
ガソリンスタンドに着いた。モアはさっさと店内に入る迷いのなさだが、少年の方は停車していた車の中。運転席の窓枠に手を乗せた。
母親の姿がないとなると、最も考えられるのは店内。失踪直後に店員へ泣き付き、警察に電話を掛けた想像は、喧嘩別れした直後は痛快に腹を抱えただろう。
「ここにもなかったら、その時は、また探しに出ればいいさ。君が決めてくれ」
「――アイスはここに、絶対にある。だからもう、いいんだ。ここまで付き合わせた借りは返す」
外はもう暗い。女の子を連れ回したとあっては、次こそ関係が修復不可能になる。アイス一本で片がつく間に済ませておきたかった。
日が落ちてやっと謝る決心が少年の中で固まった。
「一本で切れてしまいそうな仲あれば、新たに結ばれる縁もある。やっぱり、アイスとは奥が深い」
締め括るように呟く少女の言とくれば支離滅裂。とはいえ、たかがアイス一本、これを買ってもらえなかった現実から逃避した少年の歯切れはここで悪くなる。
店内のソファ。アイスの冷蔵ケースの照明は透過したガラスでくぐもっていようと、後ろ姿でも母だとすぐに。
謝罪なら面と向かい心配を掛けた事実を釈明すべきだと、母親達の正面に回り込もうとした少年の腕をモアは掴んだ。
「ボクの側から、離れたら死ぬと思って」
恫喝と取られても致し方ない冷淡さで少年に口を噤んでもらうと、屈めた身体を影に潜航させるような挙動で近づき、背もたれに手を掛け、薄明かりの中、気を失った二人の容態をチェックした。
一方の女性は少年の母親と見てまず間違いない。身体から微かに漂う血のにおいがよく似ていた。
その隣の気配からはなんの接点も感じない。油のにおいが染み付いた男の方はこの店の店員だと思う。
頸筋を確認したが、咬んだような傷痕はない。服も店内にも争ったような形跡がないことから、気絶させ、ソファに寝かせた。
「なあ……母ちゃん、寝てんのか?」
声を顰めていた。少年も本能では状況の異様さを感じ取り怯えを隠せない。
吸血鬼のにおいが開け入った風に渦を巻く店の中から、子どもを安全な場所へとにかく逃がすことだけを考えていた。
来た時同様に床を這ったモア。
その行く手を、二本の足が遮った。
包帯を巻いて肌の隙間も見えない長い足。闇でも絶えない輝きを持つ一本の金の御髪が、抜けたのか目の前に落ちてきた。
モアは、顔を見上げるまでもなかった。夜に動ける吸血鬼は自分以外、絶滅している。例外はあるのだが確かめる必要もない。
今この街にいる自分以外の吸血鬼は一体。
不死身の天敵たる男の下僕のみなのだから。




