Rans―Ⅲ 人ならざる基板
両腕に本を抱え上げ、順繰りに空いている席を窺う。差し迫った時間帯もあるのだろうが、隔てるような仕切りも特に設けられていないテーブル席でプライベートを全開に曝すような行為は、閉館間近で利用者がまばらになっても抵抗はやはり強いのだ。
「よいしょ、と」
歯が抜けたように互いの間隔を空けて各自の時間を思い思いに過ごす。そんな空気感に呑まれていった橘のため息を聴く者はいようが、興味までは持たれなかった。
これで心置きなく、と集中したいのは山々だが、忘れると機嫌を損ねてしまう相手を待たせている。今日のところはざっと目を通すだけに留め、後日改めると前もって決めて来た。
さて、その目を通すというのはまずどれからにしたものか。
書棚から見繕ってきた蔵書、その選定の基準は、とにかく手当たり次第だった。こうして机の上で混ざってしまうと橘の目にはどれもが重要、不適切のように見えてくる。
「と、とりあえず。まずはこれから」
灰色の表紙に金の題名が目立つ一冊の厚い本を取ってみる。海外で有名なホラー小説を一冊に取り纏めた短編集だった。
こちらの国の言葉に翻訳された目次をまず見開き、そこから、血を吸う怪物を題材にしたページまで一気に飛んだ。
「ふぅ。……次は」
喉元過ぎれば熱さを忘れるとは言わないかもしれないが、目移りしていた眼が一度文字に慣れた橘はほかにも手を出した。
国内向けに限定した怪談。民間伝承。果ては古い医学書まで。
粗雑なセンスを糧に選び、橘が最重要とするテーマの手掛かりを得るにはそれが必要だった。
吸血鬼をニンゲンに戻す方法がどこにあるか、まずは手段、その手段を見つけ出すための手段を発見しなければ。
「――見つかったか」
「骨が折れる、ってどころの話じゃないな。有力そうな情報を見極める眼が僕には。そうとわかったのだけ儲け話にはなりそうだけど。ひとりごとでも言ってないと、やってられないな」
堪り兼ね苦笑する橘に“そうか”と幻聴が返してきた。
雲を掴むような深いストレスを瞬間的に覚え分離してしまったにしては、心の声は、外からまるで別人のように話し掛ける。
「それで、約束は反故か。我との刻限――無駄に浪費するとそう抜かすか」
「……。……ギャアア!?」
事務作業に受付でパソコンを叩いていた司書の女性に深々と睨まれ、後頭部から転がり落ちた橘は悲鳴の残りを飲み込み、椅子を立て直すと図書館中を見渡した。
「すいません、お騒がせしました――て、いうかよりによって、なんでこんなところにあなたがいるんですか……!?」
禿頭を撫でる大男に声を絞り出す。腰を落ち着かせても抑えられない威圧感。肩が天井に届いてしまいそうでハラハラする。
「静かな場所で調べておきたいことがあってな」
「どうしたんです、その……手」
赤子をあやすかのような手つきで本を捲っていく男。爪には艶があり、肌も瑞々しい。
「もう治っている。お前の気にするようなことではない」
あくまで負傷したと言い張ってくるが、それより橘には、まるでというか、新しい腕が生えてきたと言われた方がより納得できた。
この男が易々怪我を負わせるなど考えられない。なによりだ、負傷した身体を造り返す能力があるのを知っている。
「気になりますって! だってあなたは――」
「忘れていないようだな。ホッとしたぞ。そうだ我は、お前となかよくしているバケモノを殺す、いずれな。時が来るまでせいぜい無駄に足掻いてみせるがいい」
威力偵察。敵の動向に揺さぶりを掛ける作戦は『吸血鬼殺し』のよく使う手か。
いずれにしろ、と。
「残念でしたよ。モアは、連れて来てません」
「見張りを付けてある」
それは恐らく『十字架』とか言った『吸血鬼殺し』の部下の、包帯に金髪の女のことだ。吸血鬼の主戦力足る男が自分の目の前にいるのが、モアに危害が及ばない証明になるとは橘にとってなんたる皮肉か。
「モアに殺されるかもしれませんよ」
「……そんな間抜けを、我が連れ歩いていると?」
死の象徴である鬼の天敵であることを忘れ油断し、絶望に、愚者が手足をもがれ内臓を啜られるとはどういうことか。
睨まれた片目に自分の行く末を視せられた橘は獲られそうになった心臓を掴む。
「言葉に気をつけろ。忠告は一度だけだからな」
「…………離れることも、信用に、信頼になり得るんですか」
躊躇いがちになにを堪えているかと『吸血鬼殺し』に思われた痩せ男は、物の言えない本に語り出す。
痛ましい様が見ておれず視線を絞ったのだろう。同情されずとも、橘自身自分の情けなさは骨身に堪えて言葉も続かない。
橘一誠は正しい。正しいことをした。怪物を殺す男に如何なる用向きがあったかなどは重要ではない。
大男が自分達の暮らす街に留まる意義は、彼が『吸血鬼殺し』を名乗って以降、覆ることのない事実として今もモアの存在を脅かしている。現にモアは、一度殺されていた。
隣を見てもモアがいない。吸血鬼をひとりぼっちにさせた男の脳に、事実は毒のように甘く溶け込んだ。
寂しくさせたのは、吸血鬼がニンゲンに戻る方法が本如きに書かれているはずがないと、彼女を落胆させる自分の姿が目に見えたからだ。
負う傷は大切に想う者だけのもので十分。
痛いと弱音を吐けない自分がどう思われているか、橘は不安を、自分達を絶望の底で苦しみ果てさせると宣告した、怪物殺しの怪物相手にか細くしか漏らせない。
本当に進歩しない。優しさで孤独となり、家族を不幸に叩き落とした男の懐古だった。
「我の信頼は誰にも値しない」
『吸血鬼殺し』の心根は簡潔だった。酷く、それ以外になにも語らない。
「誰もな。あの〈始祖〉を人に還す手掛かりは、誓ったお前が、お前自身で見つけ出してこそ、奴の価値となる」
こんな回り道してばかりの体たらくで、モアの信頼を勝ち取れるのか。
「だけど。それができる、僕もそのうちの一人なんだって、今日判りました」
「――ほう。なんだ?」
不死身の怪物。生き血を糧として存続させる行為に対する嫌悪感。
死を象徴する神のような側面を持ち、世界にあらゆる形で伝播された概念には疫病に近い効果があり、時代によって、挙げられる特徴は病そのものの根源だとも語られる。
本の内容はまるで規則性がなかった。
「時代。地域。文明の発展と破滅にも、きっと重要な意味があるんだと思います。吸血鬼って、ええっと……与えられた存在――ニンゲンの価値観に変化を強いられているんじゃ、ないんですか」
そこにはきっと、吸血鬼になってしまった人を元に戻す方法の『手掛かり』がある。
「僕は、この僕が得た手掛かりを、信じます。あの、まさか」
「三ヶ月だ。吸血鬼と、吸血鬼に呪われた魂などいつでも、どこにいても喰らえる。死んで逃げられると淡い期待を抱かぬことだ」
刻限を改めて提示した『吸血鬼殺し』橘の隣を立った。彼がこの街に来てから舐めた最も苦い記憶を呼び醒ました自覚がある橘も釣られ椅子を引いてしまう。
『吸血鬼殺し』が憤懣やるかたなく、モアに手を出されず橘が安心できるのも全ては、あの協議の場を取り持った『魔法使いの末裔』の詐術ゆえ。
彼の手の平では、怪物も人もなかよく傷を負わず踊らされる。
手掛かりを掴むヒントをくれた。
『吸血鬼殺し』がそんな真似を、モアから本当の意味で解放されない自分にすると期待したのが橘はいけなかった。なぜそんなことを。
酷く疲れたようにも見えた大男の輪郭。ここに来る前、なにかが彼を自分を惹かせる存在に変えたのか、橘は踏み込んでみたかったが。
「――あ! そういえばなんの調べものを?」
空気を変えようとした橘から。
『吸血鬼殺し』は、街の地図帳、そして菓子の料理本を隠す気配もなかった。
「趣味、なんです?」
橘に指で差すよう命じた『吸血鬼殺し』の調べもの。
小麦粉を大量に扱っている菓子、ならびにそれを作っている菓子店を知りたがっていた。
「これが、お前は――休みの日に菓子作りに興ずる男の顔に見えるのか」
腰を曲げてきた橘に大男は、思った以上に内面を気にする性格には見えた。




