Rans―Ⅱ アイスの当たり棒
こう見えて、自分は意外にも博学の才があるのだ。
生垣に腰掛け椀型にした手で顎を支える童女の言葉には誰も耳を貸さなかった。
当然だ。
目の前を通り過ぎていく気配を引こうというほど、寂しさに駆られてなどいないのだから。ふてぶてしい本心は心に押し殺す。
聴かせてやりたい肝心の相手も、今はいないわけだし。
不貞腐れたモアの気持ちは、夕空を眺めているだけでは一向に解消されない――夜こそ自分の存在を猶予された時間なのだから、浮かれたりいっそ小躍り、飛び跳ねたりして騒いだとしても怒られない。
「フンだ。タチバナなんて知るもんか」
子どもらしい振る舞いを封じられたのも含め、今が楽しくないのは全てあの男のせいだとモアは踵で生垣を蹴った。
利発な大人らしい振る舞いが自分にもできる。なんて慢っても、では実際にどういう態度が大人らしいのか。態度で示せるものかモアはピンとこない。
お目付け役から随伴を断られた先刻について、覚えた不快感は紛れもないものとしてある。今も手を当てた胸に燻っている。
しかし事実として、本を読みたいと最初に言い出したのも橘一誠で、外に取り残されたモアの方だった。
相手の意見も無視し、食い下がって地べたで駄々をこねてもよかったはずだ。自分たちを気に留める者はいないと忘れたモアではない。
「ボク、本を読みたいって、思ったことないよ」
突拍子もなかった橘の提案を機に、モアは図らずも自分の内面を見つめ直していた。
外に出たい。
そう言い出した橘を一人で送り出してもよかった。モアは橘の妹でも娘でもない。保護者で言うならこの街に暗躍する『魔法使いの末裔』の方が正しい。
血が飲めればそれでいい。吸血鬼の飢えを凌がせるのが、あの男の存在価値なのだから。
『吸血鬼殺し』との会談以降、自分の芯でなにかが変化した。これだけは決定的だった。
人喰いの怪物は本を読んだことがない。読んだことがあっても、忘れている。どれだけ意識を集中させ感覚を研ぎ澄ませても、橘の後を追いたいという欲求が掴めなかった。
鏡があっても吸血鬼は姿を映せないのに、なにを成長の止まってしまった姿を気にする必要がある。
太陽は熱を残して沈み、長かった夏の日中に下りたモアの足から伸びるのは影。
足場を伝って図書館まで来たが、ようやく夜が訪れ支えとなる足場は拡がってゆく。
吸血鬼といえど、モアに闇を操る能力はない。足から伸びた影の及ぶ範囲でしか曖昧なモノはその存在を許されなかった。
背後にあった図書館の明かりはより目立つようになった。あれは太陽のせいで眩しいのではないから、行こうと思えばモアにも行ける。
橘が側にいないと、自分の魂が剥き出しに身体から曝されたような不調に襲われ、渇いてもない喉に汗が流れる。
「今日の分は吸ったばかりじゃないか」
自分の時間を見つけた橘の邪魔はしたくなかったモアも、自分だけの時間を探してみることに決めた。
異色になった景色だと、娯楽を見出す程度は容易かった。
明かりに誘われるように、モアは建物一階のコンビニに入った。図書館の下階には他にも雑貨屋や呉服を扱った店が看板を出していたが、持て余した退屈の解消にはここが最適である。
人も怪物も、そこだけは変わらない。
「唐揚げ、揚げたてでーす。いかがですかー?」
店員の掛け声はどこのコンビニもため息をつくようだが、調理油から揚がった肉の香ばしさは食欲をそそられるようで。
雑誌を立ち読みしていたサラリーマンの風体をした男は腹を鳴らしてレジの方向へと、駆けるように革靴を鳴らしては、早々にレジを済ませ店を出た。
肉に関心を持つ身体ではないモアにしてみれば、調理用に調合された植物油の焦げるにおいなど鼻を掻くほどに堪らなかった。とはいえ味に良し悪しをつける理解は持っている。
「ソーダ味」
定番だが、果肉の入ったカップや食べやすさにこだわりを貫いたボール形に包囲されようと、それらに埋もれない存在感を魅力として放っている。
昼にかなりの数が売れ、補充されず、カゴにあるのが最後の一本。これを掴むか迷うモアではなかった。
冷蔵ケースに乗り出した身を下ろした。
そんなモアの目の前で、最後の一本だった氷菓子を掠め取る手が現れた。
「やりぃ! 最後の一本――あ、なんだよお前?」
答えようとしないモアに、キャップを逆さに被った男の子はさらに睨みを利かしてきた。
「……あ、そ……それ」
「なんだよ!?」
示した指を咬み千切ろうとする剣幕で、男の子は我が物顔でモアからアイスを囲った。
「だから――ソレ、ですね……? ボクが先に」
なにを憚ることがある。一時は一本だけになってしまったけれど、伸ばし掛けていた手は掴み取るためだったではないのか。
「なんだ、コイツ」
二本、三本とアイスを差す指の数を増やし、絞るような音を上げながら寄り迫ろうとするモア。
顔が痛い、血が噴きそうだ。だが相手は子ども。返還交渉には冷静沈着、不安を煽ろうとしない対話が望まれる。
対話に重要なのは、笑顔。スマイル。
笑え、獲り返したくば。顔が潰れる前に。
「……きもちわる!」
「なんだクソガキ……ぃッ! ガタガタ口まわす暇あったらおねえさんにアイス返せぇ? もっとガタガタ言わせましょか、ァア!?」
腕ごと持っていたアイスを横取りされそうになった男の子の悲鳴。閉口もままならなかった顎から舌を垂れ落とすほど限界がきていたモアは、それすら舐め取り喉を潤す甘露としようとした。
「ホラホラご覧? ボクのアイスが、ボクの口に入っていきますよ。あら、泥棒坊やの手があるわ? ……このままじゃあ巻き込み事故発生ね」
棒つきアイスを餌、腕を竿に見立てるように喰いつこうとモアが上下に跳ねた。
手を上げるのにも疲れ瞼に浮かんでくるこれが、アイスか、あるいは腕を食べられたくない涙なのか、男の子は判りたくもなかった。
「泥棒はそっちじゃないか! 先に取ったオレがなんで、こんな目に遭わなきゃ!?」
自らの正当性を残っているのに懸けた情に訴える。包みの上を、蛞蝓のよう舌が這い上がってきた。
「うおお無駄だ、完全に正気じゃねえぞコイツ!!」
得体の知れない生命体が分泌した唾液が付着し、最早食べる気も失せ始めていた。
背後から気力に引っ張られるように辿り着いた満身創痍の男の子に、レジカウンターで待ちくたびれていた店員は労いに代わって疑問を口にする。
「どちらが、買われます?」
「ボクが。このボクが。ボク以外、アイスを手にする権利なんてない。そう思いませんか?」
男の子から剥がれ落ちてキリっとモアは目元を鋭くさせた。
「八十円になりまーす」
金を持っている側に売る。商売の基本的な答えである。
「はい、百円」
「二十円のお返しになります」
会計を済ませ、包みを開く。外だと融けるのが早いから冷房の利いた店の中で。
「いつまでも、そうやってなにしてんだよ」
アイスを頬張った男の子に尋ねられたモアは、懐から握り出した埃の塊を床に叩きつけた。
手持ちの全財産だったのに、なんと勿体ない。
「金、持ってなかったのか」
男の子に憐れまれながら全てを失ったモアの身は崩れ落ちた。なにもできなかった身で、せめてもの願いを相応しい者に託す。
「味わって……食べてくれ!」
モアが譲った気になっていたアイスを、男の子はバクバク一瞬、噎せ返る勢いで完食。
「これはなんの仕打ちですか! ボク今日なんか悪いコトした!?」
悔し涙で濁り切ったモアとは正反対に、木の棒を大事そうに握る男の子の目は希望で溢れていた。
「やっぱり。当たりだ!」
齧った部分から文字の先が見えた時点で、もしやと思った。
「優しいんだな。あれだけのことされて」
可笑しな口振りになるバイトに顔を上げて見ると、膝を突いていたモアに男の子がアイスの当たり棒を差し出していた。
「これ、あげるから。オレに協力させてくれ」
「キョーリョク? ボク、いまは文無しでございますが……?」
アイス一本を逃がすほど。
涙の乾いた顔で宣言されると、面と向かった方の心が傷つくというものだったが、今のモアはそこまで気が回らない。
「じゃなくて。オレが手伝ってやる。この店のは売り切れみたいだし。探すんだったら、人手は、多い方がいいだろ?」
まさか、だが。この男の子は恩を感じているのか。
「……しょーがないな! 君の想い、このボクが高く買った。共に力を合わせ、まだ見ぬ宝を見つけようではないか。まあ? ボクにかかれば、ちょちょいっとすぐだろうけどな。この棒の下に集まれ!」
『当たり!』と焼き彫られた棒を掲げるモアの宣誓、それは勝利へのだった。
この無一文の身の上で、必ず至高の一本を手に入れる。
「アイス一本に、簡単に釣られやがって」
あまりにも簡単に乗せることができた男の子は、この行く末に待ち構えているだろう不安を濁すように呟いた。
「あの、行き先あるなら早くしてくれませんか? うるさいと店の迷惑になるんで」




