Rans―Ⅰ 我が名は、炎
挿入イラスト:tiwa
彼女は逢いに来た。
こちらへ距離を詰める足取り、そのなんと重いことか。かつて互いを隔てた別離の溝を埋めるように。
地面に両足で喰らいつきながら失った時間を巻き戻す。
間はやがて些細なこととなる。縮まる境界に殆ど抵抗を感じなくなった彼女は足を蹴り出した。鳥の羽根より軽やかに。
踏み締めてきた地を両脚で食い千切るような跳躍。金襴の天衣を背後に遺し飛び立った彼女の身体は、墜ち続け最後には地面に激突するその狭間、全霊を懸け手を伸ばした。
「掴んだぞ――今度こそだ!」
鬨の声を己の喉奥で哭かせた女の一手、男はこれを巨岩のような自身の身を転身させ回避。
確実に見切ったが、勝利を確信した女の腕が追ってくる。
どれだけ逃げようと、執念に燃える女は加速を止めなかった。
彼女の通る跡として残るは、地面を削り取った手形、それに熱。手形の中は燻り、種火の青いプラズマが揺らめいていた。
夜明けの近い埠頭、潮の香る暁に視える彼の女の艶姿。これは夢か幻か。
「敢えて問おう――なにがあった?」
唯の興味で訊いた大男に、憤激する女の様を象りし炎は応えに代わり、足を繰り出した。
男の前にある酸素を急速に撹拌させる炎舞から半月形の刃が投射される。
この世を灰にする業火には遠く及ばないつむじ風でも、周囲の塵を巻き込んだ竜巻は構えた男の腕を削る威力を誇った。
劣勢に立つ彼を初めて見て、それでも女は加減を緩めなかった。
なにも満悦に浸る局面ではない。地獄の炎程度、奴に言わしめれば丘を過ぎる涼しさの方が苦痛に感じるのだ。
「なんだ。心得ているではないか、死の前に立つという傲慢を」
空気は裂け、燃え尽きている。生物が生存できない世界にこうして二人で立っているというのに、死の化身は眼前に絶対の理を謳う。
「……勝てない、というなら」
確立された死に相対する女は油月の長髪をふり乱した。
溜まりに溜まった怒りが鍾乳石を融かしたような外装に火花を散らせる。鎖骨から掛け開いた胸、頸の裏から舞う細かな閃光の花弁の正体は、言うまでもない。
自らが燃える火に怒りがくべられる――激痛など生ぬるい熱に血肉を焼かれる感覚。そこから解き放たれてしまった彼女は牙を剥いた。
「なぜ逃げる!? たたかえ!!」
怒髪天を突くとは、こういった状況を語っているのだろう。人の形をした憤怒に『吸血鬼殺し』は感嘆を吹くように思いを馳せた。
想定では、再会を果たした自分達に言葉は不要だった。
彼女は人ならざる外に棲む怪物で、死を殺す在り方が名である男とは決して相容れない。
「ぼくの仇は、仇なのに……貴様がこんな臆病者だったとはな!?」
まるで道理を読み違えた子どもの癇癪を聴いているようで、大男は飽々と自分の気が沈むのが判った。
こうなることは予定されていたとはいえ、実際、現実と向き合うと戸惑いを隠せなかった。
「頭に来るぜ。失望したぜ」
好きに言っては渇いた笑みを向けられ内心不快だが、なにも彼女の権利まで『吸血鬼殺し』に奪う気はないし、そんな権限ありもしなかった。
かつて食い殺したモノは、彼女には親も同然で、紛うことのない『王』だったのだから。
「お前……まさか、とは思うが」
喉を唸らせ頭を抱えた怪物に、男は俯いていた。
「よもや。こんなことが、本当にあり得ていいのか?」
〈始祖〉の祝福を身一つで顕現させるその反則技。どんな手を使い手を貸した誰の運命を呪った果てに獲得したかを差し置いて『吸血鬼殺し』は考え抜きたかった。
ただなんの前触れもなく巻き込まれた悲劇の出来の悪さと合わせる顔とは、どんなものか。
「ぼくの復讐、を、みろ。新『第十七の始祖』の晴れ舞台、だ。目を逸らすな……どんな目に遭って、この日を……待ちわびたか。知らないからおまえはそんな!」
名乗る名を持つ憤怒の化身は迷わず、死に身を投じた。
走る吸血鬼の先には覆らない死が待ち構えている。だが躊躇いに足を止める必要などなかった。
その身はすでに燃えている。夜明けを待たず燃え尽きるのが運命だった。
怪物さえ生き残れない質量に等しい闇に臆すことなく、マエルは拳を送り出した。残映のように儚く融けようと、一撃一撃は無力で無数とは到底及ばずとも。
一秒と一秒の境に打、打、打打打……と己にしか遺すことのできない響きを奏でた。
死んでもいい。そう願える最期の瞬間まで。
そんなマエルがとっておきに控えた渾身の技は、開帳の寸前で掴み返され、あまりにも呆気なく封殺された拳を砕かれた悲痛な叫びを立てる間も与えられず、喉を絞められ夜明け前の空に吊るし上げられた。
「よくぞ、それだけの業を極め我の前に立った。死に怯まず。全く美しい叛逆を調べたもの。穢されるのは、あまりにも惜しかった」
両足で重力を掴もうともがくマエルに、為せるものはなかった。深海に沈められたような声で泡を噴いて窒息で腫れる眼が血の雑じった涙を搾り出す。
火が消えたことで、空に浮く顔はよく窺えた。
「その顔だ、吸血鬼。死とは、受け入れる定めなどでは断じてないのだ。貴様の衝動は確かに美しく、他の者には分け与えられない孤独な強さだろう」
マエルにはまだ理解できていなかった。無駄な抵抗をして、頸を掴む腕を殴るのを止めない。
「貴様の復讐の炎は、あまりにも洗練され過ぎていた――それはニンゲンの持つべきもの。吸血鬼よ、炎を纏う貴様が拳を開いであったなら、勝機はあったかもしれない」
再生能力を応用し、周囲の酸素を急速に奪った。栄養を一帯にあった気中の分子も丸ごと吸い上げた肉体から発する微かな振動が、質量を持つあらゆる概念を不安定にさせた。
復讐の鬼と化し、本質的な怪物の在り方を忘れていたマエルは、これほどの『死』を相手に挑み、結果敗れた。
「……ぼくは、死ぬ覚悟で、お前……の、前に……立ったん、だ、ぞ……」
切り札をまさに“吹き消された”マエル。自戒のように嘯いてきた敗因に『吸血鬼殺し』は、立ち会った者の義務として解を開示した。
それこそまさに、燃え尽きた果てに待つ死を受け入れていたマエルの、最も望んでいなかった世界の真理だった。
「そうだ。もっとだ……もっと死に抗え。不条理を舐め苦痛に顔を歪ませる。それこそ貴様を殺す死のカタチ……我は、貴様から見て、どのように映っている?」
絶望の溜まった眼でマエルが見てきた。
深淵を覗く時、深淵もまた汝を覗く。
しかし『吸血鬼殺し』自身は、打たれるような感傷を持ち合わせてはいなかった。
〈第十七の始祖〉――マエルの指導者で王で、親のような生き物を食い殺した瞬間、すべては調和されるように成り立ったのである。
全てを捧げ、全てを擲うった復讐が始まるのも、失敗に終わるのも予定されていただけのこと。
遅すぎた、とさえ今日この時を迎えられた『吸血鬼殺し』は思ったが――マエルはどうだろう。
涙を流すばかりで、質問したところで口で答えてくれそうではなかった。
眼以外からも、マエルの全身から得体の知れない液体が噴いていた。膜が張っているようで、まるで雨に這い出た蛞蝓のようだ。
だが、手に覚える感覚は水よりも、ずっと重い。それはマエルの身体を内側から突き破る、突起から滴っていた。
「もう一度だけ、訊く――……貴様、なにがあった?」
「後でゆっくり聴かせてやる。お前は、ぼくと今夜ここで一緒に死んでくれるんだから!!」
カチン――笑いを張ったマエルの口に火花が散った。擦り合う八重歯から火花が零れ落ちるのが見えた『吸血鬼殺し』の手はマエルを放し、爆風が彼の判断とは関係なく二人の間を裂いた。
蕾を破った花弁が咲き誇るように、閃光と異色の混在する炎熱に『吸血鬼殺し』の身は腕から飛ばされ、地面を数度爆ぜ回った挙げ句、無様に顔面から倒れた。
無論この程度では滅せられない。外れた関節を戻しながら立つ。
地面に伸びている間、発火現象による爆風で拘束を解いたマエルと思しき重量が、海に落ちる音を聞いた。戦線を離脱し、逃げた方角は。
「東……太陽の光に身を隠す。奴らしい手だ」
復讐はまだ続ける腹づもりなのは伝わった。頸を絞めたあの時に死んでいた。これも、マエルが普通の吸血鬼でない幸運に恵まれた故である。
「自分に〈始祖〉の力があるように我に思わせたかったお前は、種を見抜かれて、次はどう出る――いや、なにはともあれ、まずは修復が先だ」
夜明けに昇る陽に映えないようひた隠す。
爆発で飛ばされた大男の腕からは、本体である柔い子どものような腕が露出していた。
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