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匹夫の勇  作者: れんじょう
【イェルハルド篇】
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第八歩

 そうして運命の日が訪れる。


 恙なく終了した卒業式の後、間を置いて始まった卒業パーティにイェルハルドは約束通りエディエット=マーヤをエスコートして参加した。

 待ち合わせ場所に現れた彼女にイェルハルドは息を止めた。

 可憐だった制服姿とは違い、彼女の素晴らしさを余すところなく引き出たせた姿に心を打たれたのだ。

細いうなじを引き立たせるように緩く編み上げた髪。首に纏う大粒の真珠はその細さを一層引き立たせている。ほんのりとした甘さを備えた薄紫色のドレスは彼女の血管が透けて見えそうな透明感のある白い肌によく映えている。

 なにより期待感で上気した頬と潤んだ瞳が、イェルハルドの心を鷲掴みにした。


「綺麗だ……」


 思わず漏れた言葉に、彼女はいっそう頬を染める。

 イェルハルドは早速手にしていたコサージュを彼女の前に差し出して、卒業パーティの慣習としてコサージュを彼女の胸元に付けることの許しを乞うた。

 もちろん許しはあっさりとおりる。

 前もってドレスの色を聞いていてよかったと、彼女の胸に薄紫の薔薇を主体とした生花のコサージュを付けた。

 彼女からはドレスの共布で作られたポケットチーフを胸のポケットに差し込まれた。

 こちらも卒業パーティでの慣習だ。

 いまだかつて誰かの胸元にハンカチーフを差し込んだことはないのだろう震える指が、イェルハルドをどうしようもなく高揚させた。

 気持ちが昂るまま肘を出すと、彼女は蕩けるような笑顔で手を添えてくる。


 ああ、なんて幸福な……!


 イェルハルドはこれから長く重い人生の中の唯一の光を手に入れたつもりになっていた。







 一歩パーティ会場に足を踏み入れると、わん、と会場内の興奮がイェルハルドに押し寄せた。

 紳士淑女を気取っている彼らも今日を最後に別れとなり、明日から未知の世界へと巣立っていく彼らは気持ちの高ぶりを押さえられずにいるようだ。

 イェルハルドとエディエット=マーヤももちろん彼らと気持ちを同じくする。

 未来に共通の接点など持ちようがない二人には、パーティが終われば二度と会うこともないだろう。

 だからこそ余計にこのパーティで彼女という素晴らしい存在を脳裏に刻んでおかなければならない。

 卒業と同時に決められた道を歩むしかないイェルハルドの足元を照らしてくれる存在はエディしかいないのだから。



 イェルハルドは卒業パーティの会場の出入り口付近にできている人垣に妙な胸騒ぎを覚えた。

 会場のあちらこちらではそれこそ規模の大小があるとはいえ最後の別れを惜しむ集まりが出来上がっているというのに、なぜあの集団がこうも気になるのかと目を向けると、なるほど、集まっている学生たちの面々と彼らの視線が必要以上に下がっていることの異質さにあることに気がついた。

 卒業パーティは立食が基本だ。

 彼らの下げられた視線の先には壁沿いに置かれた椅子があるだろう。

 パーティ終盤ならいざ知らず、始まったばかりで椅子に座るとは非常識にもほどがある。

 ここは注意すべきかと一旦足を向けたが、もう自分は卒業した身であることと、このパーティはイェルハルドの後任で現学生会会長が指揮をとっていることを思い出し、今日を限りにランドル校を去る人間が出しゃばる必要もないと思い直した。


 なにより今日は楽しまなければ。


 望み通り傍らにはイェルハルドのために精一杯のお洒落をしたエディエット=マーヤがいる。

 彼女とは今日を限りにもう二度と会うこともないだろうが、ランドル校で過ごした春を思い起こすたびに彼女という存在は鮮やかな色を放ち続けてくれることに違いない。

 一か月前に起こった事件の憂いを見せず、晴れやかに笑いながらイェルハルドの腕を取る彼女を見下ろして、イェルハルドは満足げに頷いた。


 それも耳障りな名を聞くまでの話だ。


 エーヴァ・ヴァクトマイステル。

 今日という日に聴きたくもない名前。

 横にいるエディエット=マーヤにあれほどの仕打ちをしておいて、それがどれほど醜く恥ずかしい行為かと理解したうえで休学までしたくせに、卒業パーティに出席するとはなんという厚顔な。


 舌打しそうな口元を無理やり引き締めたが、こわばりは避けられなかった。

 イェルハルドの腕をとるエディエット=マーヤに気付かれないわけがなく、つい今しがたまではにこやかにほほ笑んでいたというのに今は不安そうにイェルハルドを見上げている。


 ―――――そうだ。彼女が現れて不愉快なのは私ではなく、当事者であるエディだ。私は彼女の不安を取り除くことをよしとしたというのに、逆に彼女を不安がらせてどうする。


 イェルハルドはエディエット=マーヤを安心させようと柔らかく微笑み、肘に置かれている手を軽く叩いた。

 それでも不安なのか少し潤んだ瞳をイェルハルドに向けるエディエット=マーヤはとてつもなく愛らしい。

 それが原動力となり、イェルハルドは不愉快な存在を排除すべく歩き出した。



 全ての間違いが正されようとしていることも知らずに。





「エーヴァ・ヴァストマイステル。よくも今日この場に姿を現すことができるものだな」


 平常心はあるつもりだったがあまり上手く抑えることができなかったようだ。

 イェルハルドとエディエット=マーヤがある方向にゆっくりと歩き始めると、それまで談笑していた人たちが二人に気付き、無意識に場を開けていく。

 導かれるように輪の中央にいるエーヴァの前に進み出た。

 沢山の信者を従える教皇にでもなったつもりか、当然のように壁沿いの椅子に座る彼女に苛立ちを覚える。

 風紀委員長という役職についたこともあるというのに場を乱す行為を自ら行っているとは、彼女の矜持も地に落ちたというものだ。


「イェルハルド様。お久しぶりにございます」

「ふん。挨拶するにも座ったままとはさすが厚顔なだけはある」


 イェルハルドは吐き捨てた。

 強い口調が功を奏したのかやっと自分の不遜な行いに気が付いたようで、よろめきながら席を立つと控えているエディエット=マーヤにぎこちない礼をとった。


「エディエット=マーヤ様。お久しぶりにございます。貴女とお話しできる機会を得られましたこと、嬉しく思います」


 いかにもとってつけたような礼に顔が強張るがエディエット=マーヤにとってはそれすら恐怖を感じたようで肘に置く手が小刻みに震えている。

 彼女を庇うように一歩前にでるのは当然の行為だ。

 けれど高潔な彼女は恐れながらもエーヴァと向かい合おうとする。


「……わたくしに何の用がおありですか?」

「ええ、もちろんですわ。私は貴女に対してお詫びをしなければなりません」


 詫びをいれるということはすなわち自分の非を認めるということだ。

 イェルハルドは信じられない思いでエーヴァを凝視した。

 いや、正確には違う。

 自分自身が信じられなかった。

 件の日の取り乱れたエディエット=マーヤを知っているのだ、理性では彼女の言葉を理解し、その後のエーヴァの対応によって確定した事実だが、あろうことか狂う以前の彼女を知るイェルハルドが心の奥底で否定していたのだ。


 明確な事実を突きつけられてもなお、なぜエーヴァを信ずる自分がいる?


 イェルハルドは自分自身を軽蔑するとともに、己の不甲斐なさを露呈させたエーヴァを憎んだ。

努めて冷静であろうとしたが、一瞬にして膨れ上がった憎悪が理性を吹き飛ばしても何が悪いというのだろう。


「……やはり、そうなのか。

エディから聞かされた時はいくらなんでもそれはないだろうと思っていたが、やはりお前は性根が腐っているとみえる。私と親しくしているというだけでエディに対して嫉妬し、数々の嫌がらせをしていると報告を受けていたが、まさかエディを階段から突き落とすまでに至るとは。エディにこれといった怪我が見受けられないから直ぐには公にしなかったものの、さすがに突き落とした揚句わざとらしい謝罪など笑止千万。恥を知れ」

 

 ざわ、遠巻きに見ていた人たちが色めき立つ。

 さざ波のようにざわめきが会場に広がるころには緩やかに流れていた音楽も止み、会場中の人々が固唾を呑んで三人の動向を注目することとなった。


 ほらみてみろ。

 命綱をいつでも断ち切れる風紀委員長であった貴様に誰もが批難しなかっただけで、内心では皆が思っていたことだからこそ私の言葉に同意するのだ。


 エーヴァを罵倒しながらも冷静な自分が周りの状況を判断する。

 広い会場はしんと静まり返り、息をすることすら躊躇われるほどだ。

 それほどの緊張を強いているというのに、当の本人はというと何を考えているのかわからないほどの透明な視線をイェルハルドに向け、軽く首を振った。

 そしてあろうことか近頃お目に罹ったことがないほどの晴れやかな笑顔で辺りを見回し、自分に非など全くないとばかりの堂々たる態度で別れの言葉を口にしたのだ。


「皆様、ご歓談中に大変不作法をいたしました。無粋なわたくしどもはこの場を去らせていただきますのでどうぞわたくしどものことは捨て置いて、この素晴らしいパーティを楽しんでくださいませ」


 凛とした声が会場を通り響くと、一瞬、時間が止まったかのように誰もが身動きを止めた。

 だがそれも会場のどこからか、ぱんっとキレのよい手を叩く音が響くと解かれ、それが呼び水となったのか遠慮しながらもパチパチと拍手が鳴り始めた。

 

「勝手なことをいう!」


 エーヴァが糾弾の場にいきなり立たされることで理性を無くし無様な様子を見せるだろうと予測していた イェルハルドは予測が見事に外れ、誰一人として己が行動を支援することなく傍観し、それどころか罪人であるエーヴァの言葉に重きを置いていることにしばし茫然とした。

 そして我を取り戻したころにはすでに会場は割れるばかりの拍手で埋め尽くされ、怒りに任せて叫んだ言葉はかき消されていた。


 有り得ない、有り得ない、有り得ないっ!!


 会場を見回しても誰もイェルハルドを見てはいない。

 友人だと思っていた何人かと目が合ったというのに彼らは一様に視線から逃れようとそっと体を逸らす。

 有り得ない事態にぎりぎりと奥歯を噛み鳴らした。


「では、参りましょうか」


 会場を揺るがすような拍手の中、エーヴァは静かに笑った。

 初めて見た彼女の聖母のような慈愛溢れる微笑みの中に、なぜだかガベルの音を聴いたような気がした。


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