最初の鐘が鳴る日
エドガルは、差し出された書状を受け取らなかった。
「王都からの指示なら、まず領主である私に内容を説明しろ」
「封を開ければお分かりになります」
「ならば、ここで開ける」
役人の指が、わずかに動いた。書状を握る手に力が入ったのを、リゼットは見逃さなかった。赤い封蝋の黒線が、曇った光の中で脈打っている。
音がした。
紙の内側から、細い金属音が響いた。誰にも聞こえないほど小さな音だったが、リゼットには黒い針のように見えた。封蝋から伸びた音が、役人の袖口へ入り込んでいる。
「その書状、どこで受け取りましたか」
リゼットが尋ねた。
役人は眉をひそめる。
「あなたに答える必要はありません」
「答えてください」
今度はエドガルが言った。
「王都からの指示を持ってきた者が、いつ、どこで受け取ったか。領主として確認します」
「昨夜、領都の駅で」
「駅に昨夜到着した馬車はありません」
ユリウスが口を挟んだ。彼は領都の出入りを記録する帳簿を管理しているらしい。
「山道は夜半から霧が濃く、巡回兵が通行を止めていました。王都の馬車なら、通行記録が残っているはずです」
役人の顔から血の気が引いた。
リゼットは書状を見つめた。黒い線は、封蝋の中でゆっくり広がっている。誰かが魔力を込めた偽造印だ。しかも、ただの偽造ではない。開封した者の手を通じて、命令を強制する種類の術式だった。
「その手紙を開けば、エドガル様の魔力を縛るつもりです」
役人が後ずさった。
「出鱈目を」
「では、私が開けます」
リゼットが手を伸ばすと、役人は書状を胸元へ隠した。
それだけで十分だった。
エドガルが兵士に目を向ける。二人の兵が役人の両腕を押さえた。抵抗しようとした瞬間、袖口から黒い煙が噴き出す。煙は地面へ落ちる前に細い線となり、城門の奥へ走っていった。
塔の鐘が、わずかに揺れた。
音は鳴らない。
けれど、リゼットの視界には黒い輪が広がった。塔から地下へ、地下から城壁の外へ。魔力水路を通じて、何かが領都全体を包もうとしている。
「地下へ行かなければ」
リゼットは言った。
「鐘の音を閉じ込めている場所があります。たぶん、この城の下です」
「地下道の入口は、城の中庭にあります」
ユリウスが答えた。
「しかし、そこは封鎖されています。先代領主の時代から、立入禁止です」
「立入禁止にした理由は?」
「古い貯水槽が崩れたため、と聞いています」
エドガルは役人を兵に預け、城門をくぐった。
「案内してください」
「エドガル様、王都の指示に逆らえば――」
「偽造された指示なら、逆らうも何もない」
中庭は雨に濡れていた。中央に枯れた噴水があり、その縁には灰色の石板が並べられている。リゼットは石板の上を歩き、音の色を探った。
ひとつだけ、青い。
しゃがみ込み、表面の泥を払うと、細かな文字が現れた。
――鐘を守る者は、領民の声を聞くべし。
古い誓約文だった。
その下に、見慣れない新しい傷がある。誰かが文字を削り、別の印を刻もうとしていた。
「ここです」
リゼットは石板の中心へ聴魔針を当てた。
地下から返ってきた音は、昨夜よりも近かった。
低い音。赤い亀裂。押し殺された叫び。
そして、鐘の向こうから誰かが叩く音。
一度。
二度。
三度。
リゼットは息を止めた。
「中に、人がいるかもしれません」
エドガルが周囲を見回す。
「開けられますか」
「術式を壊せば開きます。でも、閉じ込められている音が一気に流れ出す可能性があります」
「それで、何が起きる」
「領都中の鐘が鳴るかもしれません」
「それは危険ですか」
リゼットは塔を見上げた。沈黙する鐘の向こうに、黒い魔力が積み重なっている。長い間、誰かが音を奪い、災害の知らせを止めてきた。その音が一度に戻れば、建物が揺れ、魔力水路が暴れるかもしれない。
だが、ここで見過ごせば、圧力はさらに高まる。
「危険です」
彼女は答えた。
「でも、何もしない方が危険です」
エドガルは迷わなかった。
「ならば、開けてください。私は領主として、起きることを引き受けます」
リゼットは石板に両手を置いた。
音が指先から流れ込んでくる。冷たい青の流れ、その奥に絡みつく黒い線。黒線は彼女の魔力を探り、資格のない者を拒むように尖った。
いつもなら、ここで手を引いていた。
資格がない。身分が低い。触れてはいけない。
けれど、音は誰かの許可を待っていなかった。
リゼットは黒線の隙間へ、自分の音を流した。小さな銀色の音だった。弱くても、消えない音。
「私はリゼット。王都の鐘楼で、災害の音律を調べてきました」
石板が震えた。
「私は正式な資格を持っていません。でも、ここで聞こえている音を、聞かなかったことにはしません」
黒線が一本、切れた。
地下から、激しい衝撃が返ってくる。石板の隙間に光が走り、噴水の底がゆっくりと開いた。
その瞬間、領都のどこかで鐘が鳴った。
塔ではない。
地下深くから響く、最初の鐘の音だった。
黒い音が崩れ、赤い亀裂が広がる。
そして、暗い階段の底から、誰かの声がした。
「遅かったな。鐘はもう、ひとつではない」
エドガルが剣に手をかける。
リゼットは聴魔針を握り直した。
地下から、二つ目の鐘が鳴り始めていた。




