報酬は資格証
地下の階段は、降りるほど冷たくなった。
二つ目の鐘が鳴るたび、石壁の奥から青白い光が漏れる。音は空気を震わせるだけではない。リゼットの視界の中で、青い輪となって階段を下へ、下へと転がっていった。
「遅かったな。鐘はもう、ひとつではない」
声の主は、階段の底に立っていた。
灰色の外套を着た老人だった。片目に金属製の覆いをかけ、杖の先には折れた鐘舌が結びつけられている。顔には長い年月の皺が刻まれていたが、背筋はまっすぐだった。
「あなたは誰ですか」
エドガルが問いかける。
「名乗るほどの者ではない。昔は鐘守と呼ばれた。今は、忘れられた音の番人だ」
「ここで何をしている」
「止めているのだ。三つ目が鳴れば、この領都の魔力水路は逆流する。鐘は災害を知らせるためにあるが、使い方を誤れば災害そのものになる」
老人の声には、乾いた金色が混じっていた。リゼットには、その音が嘘ではないと分かった。ただし、すべてを話しているわけでもない。
「鐘を閉じ込めたのは、あなたですか」
「閉じ込めたのは私ではない。閉じ込めるよう命じた者がいた。私は命令に従っただけだ」
リゼットは階段の脇に目を向けた。壁には古い配管が走り、そのすべてに黒い線が絡みついている。黒線は二つ目の鐘から伸び、遠くの別の音へつながっていた。
「この術式は、鐘を止めているだけではありません。音を集めています」
「そうだ」
「誰かが、領都中の災害音を集めている」
老人は答えなかった。
エドガルが一歩進む。
「命じた者の名を」
「名を知ってどうする。王都の役人を一人捕らえただけで、仕組みが崩れると思うのか」
「思わない。だが、誰が命じたのかを知らなければ、仕組みを変えることもできない」
その言葉に、老人の金色の音がわずかに揺れた。
「若い領主だな。先代たちは、仕組みを守ることしか考えなかった」
「私は先代ではない」
「ならば、ここで証明しろ」
老人が杖を上げた。
地下の奥から、三つ目の鐘が鳴り始める。まだ完全な音ではない。低い振動が石床を這い、黒い線を太らせていく。リゼットの視界に、領都の地図が浮かんだ。城から伸びた水路が、街道、倉庫、居住区、そして王都へ向かう通信塔へつながっている。
いくつもの地点で、音が塞がれていた。
「鐘を壊せば止まりますか」
エドガルが尋ねる。
「壊せば水路が破裂する」
「では、どうする」
リゼットは聴魔針を握った。黒い術式の中心に、細い銀色の音が一つだけ残っている。誰かが、完全に音を消し去ることを拒んだのだ。
「集められた音を、元の場所へ返します」
「そんなことができるのか」
「一度に全部は無理です。でも、順番を戻せば」
老人が初めてリゼットを正面から見た。
「資格のない者に、鐘律の逆流が扱えると思うか」
「資格がないから扱えないのではありません。扱える者を、資格のない者にしているだけです」
言葉を発した瞬間、黒い線が彼女の手首へ跳ねた。鋭い痛みが走る。エドガルが腕を伸ばしかけたが、リゼットは首を振った。
「触らないでください。今、線を切ると鐘が暴れます」
「ならば、私に命じてください」
「何を」
「私が何をすればいい」
リゼットは地下水路の光を見つめた。
「階段の上へ戻って、城門を開けてください。領民が鐘の音を聞けるように。誰かが閉じ込めた音なら、聞く人が必要です」
エドガルは短くうなずいた。
「分かった」
老人が嘲るように笑った。
「領主が自ら城門を開けるか。騒ぎになるぞ」
「騒ぎを恐れて、危険を隠していたからこうなった」
エドガルは剣を抜き、杖の先を見据えた。
「あなたが邪魔をするなら、止める」
「止めてみろ。だが、私を倒せば三つ目は鳴る」
「倒す必要はありません」
リゼットは銀色の音を、黒線の中心へ押し込んだ。
「あなたにも、鳴らしてもらいます」
老人の片目が見開かれる。
「何を言っている」
「鐘守だったのでしょう。なら、鐘の声を知っているはずです。命令された音ではなく、領民へ届ける音を」
しばらく、地下には三つ目の鐘の振動だけが響いていた。
やがて老人は杖を下ろした。折れた鐘舌が、かすかに鳴る。
その音は、濁った灰色ではなかった。
遠い朝のような、淡い白だった。
「……一度だけだ」
老人が水路の弁へ杖を突き立てる。
リゼットは銀色の音を三つに分けた。ひとつは鐘へ、ひとつは水路へ、もうひとつは城門の外へ。
二つ目の鐘が高く鳴った。
領都の屋根を越え、霧を裂き、眠っていた小さな鐘までが応じる。閉じ込められていた音が、少しずつ持ち主の場所へ戻っていく。
その一方で、地下の奥から黒い警告音が走った。
「まだ残っています!」
リゼットが叫ぶ。
老人が顔を上げた。
「王都へつながる最後の水路だ。そこだけは、私にも閉じられない」
「なぜですか」
「資格証を持つ者の命令で封じられている」
エドガルが振り返る。
「資格証?」
老人は杖の柄から、古びた金属板を取り出した。表面には王都の印と、見覚えのない番号が刻まれている。
「この鐘の報酬は、金ではない。命令に従える者だけが与えられる資格証だ」
リゼットは金属板を見つめた。そこから聞こえる音は、冷たい黒だった。
そして遠く、王都の方角から、四つ目の鐘が鳴った。




