↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鳴らない鐘を、あなたと調律する  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/20

辺境領主との契約

 翌朝、雨は細い霧に変わっていた。


 宿場町の水路は夜のうちに応急修理されたが、流れはまだ濁っている。石蓋を戻す前に、リゼットは水路の底を何度も調べた。王都調律局の管理印が刻まれた金属板は、エドガルの手元にある。泥を拭っても、表面には黒い染みが残っていた。


「その板を、王都へ送るのですか」


 リゼットが尋ねると、エドガルは板を布で包みながら答えた。


「領都へ持っていきます。王都へ送れば、途中で別の記録に差し替えられるかもしれない」


「そこまで疑っているのですか」


「昨夜、あなたが泥の中から見つけるまで、私は誰かが水路を塞いだとは考えていませんでした」


 エドガルは一度、灰鐘領へ続く山道を見た。


「領主として、見落としていたことが多すぎます」


 その言葉には怒りよりも、悔しさがあった。


 出発前、宿場町の住民たちが二人を見送りに集まった。夜の増水で家を失いかけた者もいたが、死者は出なかった。主人が何度も頭を下げ、リゼットの手を強く握る。


「鐘を直してくださるなら、領都の鐘もお願いします」


 リゼットは返事に詰まった。


 灰鐘領の鐘が本当に沈黙しているなら、同じように誰かが異常を隠しているのかもしれない。けれど自分に、それを調べる資格があるのか。王都では、資格のない者が鐘に触れることさえ禁じられている。


「彼女は調べます」


 エドガルが横から言った。


「私が依頼した調律師です」


 リゼットは彼を見た。


 依頼書には、調律師とも補助員とも書かれていなかった。ただ、報酬と滞在期間、それに「沈黙した鐘の復旧」とだけ記されている。


「私は正式な調律師ではありません」


「では、正式ではない者に依頼した私の責任です」


「それでは、あなたが困るのでは?」


「もう困っています。だから、困ったまま進むしかない」


 エドガルは真顔でそう言った。


 馬車が宿場を出ると、道は急に細くなった。山肌に沿う崖道を、車輪が慎重に進んでいく。谷底からは、雪解け水のような轟きが聞こえた。だがリゼットには、その音の奥に別のものが見えた。


 青い糸が、山の中へ伸びている。


 魔力水路の流れだ。


 正常な水路なら、青い光は一定の太さで流れる。けれど今見える糸は何度も途切れ、ところどころに赤黒い結び目ができていた。


「止めてください」


 リゼットは突然叫んだ。


 御者が手綱を引き、馬が嘶く。ユリウスが驚いて振り返った。


「何がありました」


「水路が、この下を通っています」


「水路の位置は地図にありません」


 エドガルが地図を広げる。


「古い水路です。地図から消されたか、記録されていないのでしょう」


 リゼットは崖の壁面に近づいた。苔に覆われた石の一つだけが、周囲より新しい。指を当てると、薄い振動が返ってくる。水が石の向こうで、苦しげに脈打っていた。


 工具箱から聴魔針を取り出し、石の隙間へ差し込む。


 針先が震えた。


 灰色。青。濃い赤。


「中で圧力が溜まっています。このままなら、どこかで水路が破裂します」


「どこか、とは?」


「領都の近くです」


 ユリウスが顔を強張らせた。


「それでは、領都に着く前に――」


「急ぎましょう」


 エドガルは地図を畳んだ。


「ここを開けられますか」


「完全に開けば、流れが崩れるかもしれません。でも、少しだけ調べることはできます」


 リゼットは石の周囲を探った。自然に崩れたものではなく、石を固定する金具が後から取り付けられている。金具には、昨夜の板と同じ黒い魔力が染み込んでいた。


 誰かが水路の流れを意図的に狭めている。


 ただ鐘を鳴らなくしたのではない。異常を隠しながら、魔力を一か所へ集めている。


 リゼットは金具を外す代わりに、聴魔針を深く押し込んだ。


 その瞬間、遠くから音が返ってきた。


 低く、重い鐘の音。


 けれど実際に鳴った鐘は、どこにも見えない。


 音は地中を走り、山道を伝い、リゼットの胸の内側まで届いた。黒い色の中に、鮮やかな赤い亀裂が広がっていく。


 そして、かすかな声が混じった。


 ――契約を守れ。


 リゼットは針を抜き、よろめいた。


「今の音は?」


 エドガルが支える。


「鐘です。領都の鐘……たぶん、地下で鳴っています」


「地下で?」


「誰かが、鐘の音を閉じ込めている」


 エドガルの表情から、迷いが消えた。


「領都へ向かいます。途中で止まる理由はありません」


 馬車が再び動き出す。


 霧の向こうに、灰鐘領の城壁が見え始めていた。高い塔の上には、巨大な鐘が吊られている。だがその鐘は、朝の時刻を過ぎても一度も鳴らない。


 リゼットには、その沈黙が見えた。


 灰色の静けさではない。


 誰かの手で押し殺された、黒い音だった。


 城門の前で、ひとりの役人が待っていた。濃紺の外套に王都の徽章をつけ、馬車が止まるなり深く頭を下げる。


「エドガル様、お帰りなさいませ。調査の件ですが、王都から正式な指示が届いております」


「どんな指示だ」


「鐘には触れないこと。水路の調査も中止すること。これは領主権限を越える行為だそうです」


 役人はそう言って、封蝋のついた書状を差し出した。


 リゼットは封蝋を見た。


 赤い蝋の中に、細い黒線が一本入っている。


 昨夜の金属板に残っていたものと、同じ色だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。