辺境領主との契約
翌朝、雨は細い霧に変わっていた。
宿場町の水路は夜のうちに応急修理されたが、流れはまだ濁っている。石蓋を戻す前に、リゼットは水路の底を何度も調べた。王都調律局の管理印が刻まれた金属板は、エドガルの手元にある。泥を拭っても、表面には黒い染みが残っていた。
「その板を、王都へ送るのですか」
リゼットが尋ねると、エドガルは板を布で包みながら答えた。
「領都へ持っていきます。王都へ送れば、途中で別の記録に差し替えられるかもしれない」
「そこまで疑っているのですか」
「昨夜、あなたが泥の中から見つけるまで、私は誰かが水路を塞いだとは考えていませんでした」
エドガルは一度、灰鐘領へ続く山道を見た。
「領主として、見落としていたことが多すぎます」
その言葉には怒りよりも、悔しさがあった。
出発前、宿場町の住民たちが二人を見送りに集まった。夜の増水で家を失いかけた者もいたが、死者は出なかった。主人が何度も頭を下げ、リゼットの手を強く握る。
「鐘を直してくださるなら、領都の鐘もお願いします」
リゼットは返事に詰まった。
灰鐘領の鐘が本当に沈黙しているなら、同じように誰かが異常を隠しているのかもしれない。けれど自分に、それを調べる資格があるのか。王都では、資格のない者が鐘に触れることさえ禁じられている。
「彼女は調べます」
エドガルが横から言った。
「私が依頼した調律師です」
リゼットは彼を見た。
依頼書には、調律師とも補助員とも書かれていなかった。ただ、報酬と滞在期間、それに「沈黙した鐘の復旧」とだけ記されている。
「私は正式な調律師ではありません」
「では、正式ではない者に依頼した私の責任です」
「それでは、あなたが困るのでは?」
「もう困っています。だから、困ったまま進むしかない」
エドガルは真顔でそう言った。
馬車が宿場を出ると、道は急に細くなった。山肌に沿う崖道を、車輪が慎重に進んでいく。谷底からは、雪解け水のような轟きが聞こえた。だがリゼットには、その音の奥に別のものが見えた。
青い糸が、山の中へ伸びている。
魔力水路の流れだ。
正常な水路なら、青い光は一定の太さで流れる。けれど今見える糸は何度も途切れ、ところどころに赤黒い結び目ができていた。
「止めてください」
リゼットは突然叫んだ。
御者が手綱を引き、馬が嘶く。ユリウスが驚いて振り返った。
「何がありました」
「水路が、この下を通っています」
「水路の位置は地図にありません」
エドガルが地図を広げる。
「古い水路です。地図から消されたか、記録されていないのでしょう」
リゼットは崖の壁面に近づいた。苔に覆われた石の一つだけが、周囲より新しい。指を当てると、薄い振動が返ってくる。水が石の向こうで、苦しげに脈打っていた。
工具箱から聴魔針を取り出し、石の隙間へ差し込む。
針先が震えた。
灰色。青。濃い赤。
「中で圧力が溜まっています。このままなら、どこかで水路が破裂します」
「どこか、とは?」
「領都の近くです」
ユリウスが顔を強張らせた。
「それでは、領都に着く前に――」
「急ぎましょう」
エドガルは地図を畳んだ。
「ここを開けられますか」
「完全に開けば、流れが崩れるかもしれません。でも、少しだけ調べることはできます」
リゼットは石の周囲を探った。自然に崩れたものではなく、石を固定する金具が後から取り付けられている。金具には、昨夜の板と同じ黒い魔力が染み込んでいた。
誰かが水路の流れを意図的に狭めている。
ただ鐘を鳴らなくしたのではない。異常を隠しながら、魔力を一か所へ集めている。
リゼットは金具を外す代わりに、聴魔針を深く押し込んだ。
その瞬間、遠くから音が返ってきた。
低く、重い鐘の音。
けれど実際に鳴った鐘は、どこにも見えない。
音は地中を走り、山道を伝い、リゼットの胸の内側まで届いた。黒い色の中に、鮮やかな赤い亀裂が広がっていく。
そして、かすかな声が混じった。
――契約を守れ。
リゼットは針を抜き、よろめいた。
「今の音は?」
エドガルが支える。
「鐘です。領都の鐘……たぶん、地下で鳴っています」
「地下で?」
「誰かが、鐘の音を閉じ込めている」
エドガルの表情から、迷いが消えた。
「領都へ向かいます。途中で止まる理由はありません」
馬車が再び動き出す。
霧の向こうに、灰鐘領の城壁が見え始めていた。高い塔の上には、巨大な鐘が吊られている。だがその鐘は、朝の時刻を過ぎても一度も鳴らない。
リゼットには、その沈黙が見えた。
灰色の静けさではない。
誰かの手で押し殺された、黒い音だった。
城門の前で、ひとりの役人が待っていた。濃紺の外套に王都の徽章をつけ、馬車が止まるなり深く頭を下げる。
「エドガル様、お帰りなさいませ。調査の件ですが、王都から正式な指示が届いております」
「どんな指示だ」
「鐘には触れないこと。水路の調査も中止すること。これは領主権限を越える行為だそうです」
役人はそう言って、封蝋のついた書状を差し出した。
リゼットは封蝋を見た。
赤い蝋の中に、細い黒線が一本入っている。
昨夜の金属板に残っていたものと、同じ色だった。




