色で聴く音律
雨は、出発の朝になっても止まなかった。
王都の北門から灰鐘領へ向かう街道は、すでに泥の川になっていた。車輪が轍にはまるたび、馬車は大きく揺れ、荷台に積まれた工具箱の金具が不安定な音を立てる。
リゼットは窓の外を見ていた。
雨粒は灰色の幕となって景色を覆い、遠くの森も、街道脇の標識も、みな滲んでいる。けれど彼女には、雨の音が無数の細い線となって見えた。屋根を叩く音は淡い銀色。泥を跳ねる車輪の音は茶色。馬の鼻息は、薄い橙色の煙のように揺れている。
その中に、時おり黒い筋が混じった。
北西から響く、遠い震えだった。
「気分が悪いのですか」
向かいに座るエドガルが尋ねた。
「いいえ。雨の音を見ていただけです」
言ってから、リゼットはしまったと思った。
エドガルは眉を上げたが、笑わなかった。
「雨の音に色があるのですか」
「……比喩です」
「そうですか」
彼はそれ以上、何も聞かなかった。膝の上には灰鐘領の地図が広げられている。紙の端はすでに湿り、山間部の輪郭が少しぼやけていた。
馬車の前方では、エドガルの従者が御者と話している。名をユリウスという、背の高い男だった。出発してから何度も、リゼットの持ち込んだ工具を眺めていた。王都の調律師なら立派な助手を連れていくところだが、今回同行しているのは彼女一人だった。
正確には、エドガルとユリウス、それにリゼットの三人だけである。
「本当に、局から他の調律師は来ないのですね」
リゼットが聞くと、エドガルは地図から目を離さずに答えた。
「主任は、経験豊富な者を派遣すると言っていました」
「それは私ではない、と?」
「派遣の馬車に乗る予定だった人物は、昨夜になって急病になったそうです」
リゼットは唇を噛んだ。
偶然にしては、出来すぎている。バルナードは出発直前まで、彼女に依頼書を渡そうとしなかった。ようやく受け取った書類には、調査補助員という肩書きさえ記されていなかった。
ただ、エドガルの署名と、三倍の報酬だけがあった。
「局は、私を行かせたくないのでしょう」
「そうでしょうね」
あまりにもあっさり認められ、リゼットは顔を上げた。
「では、なぜ連れてきたのですか」
「あなたが鐘の異常を見つけたからです」
「見つけたのは、私だけではありません。主任も――」
「主任は、鐘が正常だと記録した」
エドガルの声は静かだったが、雨音よりもはっきりしていた。
「私は、記録より現地を信じたいのです」
リゼットは返事をしなかった。
領主なら、記録に従えばいい。前任者の報告書を読み、役所の判断を採用し、問題が起きれば担当者を替えればいい。そういうものだと思っていた。
けれどエドガルは、何かを自分の目で確かめようとしている。
そのことが、なぜか不安だった。
夕暮れ前、馬車は街道脇の宿場町で足を止めた。山道に入るには雨が強すぎるという。宿は古く、軒下から水が滝のように落ちていた。
食堂で簡素な夕食を取っていると、窓の外から鐘の音が聞こえた。
短く、低い音だった。
リゼットの目の奥に、濃い紫が広がる。音は一度で消えたが、余韻の底に緑色の輪が残った。
「今のは?」
エドガルが箸を止めた。
「宿場の警戒鐘です。夜間の増水を知らせるものかと」
「鳴ったということは、灰鐘領でも同じ仕組みが動いているのですね」
「おそらく。ただし、鐘は水路と連動しています。魔力水路の流量が一定値を超えると、自動で打鐘機が動く仕組みです」
「あなたは、仕組みに詳しい」
「補助員として、記録を写してきましたから」
実際には、写すだけではなかった。誰も見向きもしない古い設計図を夜遅くまで読み、鐘の内部構造を覚え、壊れた打鐘機を何度も直してきた。だが、それを功績として報告したことはない。
報告すれば、バルナードが自分の仕事として提出するからだ。
「灰鐘領の鐘も、水路とつながっているのですか」
「古い型なら、そうです。雨量を測る装置から水路へ魔力が流れ、その圧力が鐘を鳴らす。うまく動けば、人の判断を待たずに災害を知らせられます」
「ならば、止まった原因は鐘ではなく、水路かもしれない」
エドガルの言葉に、リゼットは頷いた。
「私もそう考えています」
その瞬間、宿の外で何かが崩れた。
人々の叫び声が上がる。リゼットは椅子を蹴るように立ち上がり、扉へ駆けた。向かいの斜面から泥水が流れ込み、宿場の脇を通る細い水路を塞いでいる。石垣の一部が崩れたのだ。
警戒鐘が、もう一度鳴った。
紫色の音が、今度は途中で途切れた。
「水路が詰まっています!」
リゼットは叫んだ。
「このままでは流れが逆流します。下の家が危ない!」
宿の主人が青ざめる。ユリウスがすぐに人を集め、エドガルは現場へ走った。
リゼットも工具箱を抱えて後を追う。
水路の石蓋を外すと、泥の中に黒ずんだ金属板が見えた。自然に流れ込んだ枝や石ではない。板は水路の幅に合わせて加工され、わざと差し込まれていた。
その表面に、細かな刻印がある。
王都調律局の古い管理印だった。
リゼットの指先から、血の気が引いた。
エドガルが隣にしゃがみ込む。
「これは、誰かが置いたものですか」
「……はい」
「外せますか」
「外します」
彼女は答え、泥に手を入れた。冷たい水が袖口から入り込む。金属板を固定していた楔を緩めると、溜まっていた魔力が一気に噴き出した。
音が生まれる。
濁った赤。煤けた紫。そこに、細い金色の線が走った。
金色は、助けを求める声の色だった。
リゼットは歯を食いしばり、板を引き抜いた。水が轟音を立てて流れ、塞がれていた水路が息を吹き返す。遠くで、宿場の警戒鐘が今度こそ長く鳴った。
雨の夜に、その音は青白い光となって広がっていった。
人々が歓声を上げるなか、エドガルは泥に濡れた金属板を拾い上げた。
「王都の印がある」
「はい」
「あなたは、これが何を意味するのか知っていますか」
リゼットは板を見つめた。
灰鐘領へ向かう前から、誰かはすでに彼女たちの進む道を塞いでいた。
「わかりません」
そう答えながら、彼女には見えていた。
金属板に残った魔力の色は、鐘楼で見た赤い亀裂と同じだった。




