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鳴らない鐘を、あなたと調律する  作者: 銀細工ナギ


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2/20

色で聴く音律

 雨は、出発の朝になっても止まなかった。


 王都の北門から灰鐘領へ向かう街道は、すでに泥の川になっていた。車輪が轍にはまるたび、馬車は大きく揺れ、荷台に積まれた工具箱の金具が不安定な音を立てる。


 リゼットは窓の外を見ていた。


 雨粒は灰色の幕となって景色を覆い、遠くの森も、街道脇の標識も、みな滲んでいる。けれど彼女には、雨の音が無数の細い線となって見えた。屋根を叩く音は淡い銀色。泥を跳ねる車輪の音は茶色。馬の鼻息は、薄い橙色の煙のように揺れている。


 その中に、時おり黒い筋が混じった。


 北西から響く、遠い震えだった。


「気分が悪いのですか」


 向かいに座るエドガルが尋ねた。


「いいえ。雨の音を見ていただけです」


 言ってから、リゼットはしまったと思った。


 エドガルは眉を上げたが、笑わなかった。


「雨の音に色があるのですか」


「……比喩です」


「そうですか」


 彼はそれ以上、何も聞かなかった。膝の上には灰鐘領の地図が広げられている。紙の端はすでに湿り、山間部の輪郭が少しぼやけていた。


 馬車の前方では、エドガルの従者が御者と話している。名をユリウスという、背の高い男だった。出発してから何度も、リゼットの持ち込んだ工具を眺めていた。王都の調律師なら立派な助手を連れていくところだが、今回同行しているのは彼女一人だった。


 正確には、エドガルとユリウス、それにリゼットの三人だけである。


「本当に、局から他の調律師は来ないのですね」


 リゼットが聞くと、エドガルは地図から目を離さずに答えた。


「主任は、経験豊富な者を派遣すると言っていました」


「それは私ではない、と?」


「派遣の馬車に乗る予定だった人物は、昨夜になって急病になったそうです」


 リゼットは唇を噛んだ。


 偶然にしては、出来すぎている。バルナードは出発直前まで、彼女に依頼書を渡そうとしなかった。ようやく受け取った書類には、調査補助員という肩書きさえ記されていなかった。


 ただ、エドガルの署名と、三倍の報酬だけがあった。


「局は、私を行かせたくないのでしょう」


「そうでしょうね」


 あまりにもあっさり認められ、リゼットは顔を上げた。


「では、なぜ連れてきたのですか」


「あなたが鐘の異常を見つけたからです」


「見つけたのは、私だけではありません。主任も――」


「主任は、鐘が正常だと記録した」


 エドガルの声は静かだったが、雨音よりもはっきりしていた。


「私は、記録より現地を信じたいのです」


 リゼットは返事をしなかった。


 領主なら、記録に従えばいい。前任者の報告書を読み、役所の判断を採用し、問題が起きれば担当者を替えればいい。そういうものだと思っていた。


 けれどエドガルは、何かを自分の目で確かめようとしている。


 そのことが、なぜか不安だった。


 夕暮れ前、馬車は街道脇の宿場町で足を止めた。山道に入るには雨が強すぎるという。宿は古く、軒下から水が滝のように落ちていた。


 食堂で簡素な夕食を取っていると、窓の外から鐘の音が聞こえた。


 短く、低い音だった。


 リゼットの目の奥に、濃い紫が広がる。音は一度で消えたが、余韻の底に緑色の輪が残った。


「今のは?」


 エドガルが箸を止めた。


「宿場の警戒鐘です。夜間の増水を知らせるものかと」


「鳴ったということは、灰鐘領でも同じ仕組みが動いているのですね」


「おそらく。ただし、鐘は水路と連動しています。魔力水路の流量が一定値を超えると、自動で打鐘機が動く仕組みです」


「あなたは、仕組みに詳しい」


「補助員として、記録を写してきましたから」


 実際には、写すだけではなかった。誰も見向きもしない古い設計図を夜遅くまで読み、鐘の内部構造を覚え、壊れた打鐘機を何度も直してきた。だが、それを功績として報告したことはない。


 報告すれば、バルナードが自分の仕事として提出するからだ。


「灰鐘領の鐘も、水路とつながっているのですか」


「古い型なら、そうです。雨量を測る装置から水路へ魔力が流れ、その圧力が鐘を鳴らす。うまく動けば、人の判断を待たずに災害を知らせられます」


「ならば、止まった原因は鐘ではなく、水路かもしれない」


 エドガルの言葉に、リゼットは頷いた。


「私もそう考えています」


 その瞬間、宿の外で何かが崩れた。


 人々の叫び声が上がる。リゼットは椅子を蹴るように立ち上がり、扉へ駆けた。向かいの斜面から泥水が流れ込み、宿場の脇を通る細い水路を塞いでいる。石垣の一部が崩れたのだ。


 警戒鐘が、もう一度鳴った。


 紫色の音が、今度は途中で途切れた。


「水路が詰まっています!」


 リゼットは叫んだ。


「このままでは流れが逆流します。下の家が危ない!」


 宿の主人が青ざめる。ユリウスがすぐに人を集め、エドガルは現場へ走った。


 リゼットも工具箱を抱えて後を追う。


 水路の石蓋を外すと、泥の中に黒ずんだ金属板が見えた。自然に流れ込んだ枝や石ではない。板は水路の幅に合わせて加工され、わざと差し込まれていた。


 その表面に、細かな刻印がある。


 王都調律局の古い管理印だった。


 リゼットの指先から、血の気が引いた。


 エドガルが隣にしゃがみ込む。


「これは、誰かが置いたものですか」


「……はい」


「外せますか」


「外します」


 彼女は答え、泥に手を入れた。冷たい水が袖口から入り込む。金属板を固定していた楔を緩めると、溜まっていた魔力が一気に噴き出した。


 音が生まれる。


 濁った赤。煤けた紫。そこに、細い金色の線が走った。


 金色は、助けを求める声の色だった。


 リゼットは歯を食いしばり、板を引き抜いた。水が轟音を立てて流れ、塞がれていた水路が息を吹き返す。遠くで、宿場の警戒鐘が今度こそ長く鳴った。


 雨の夜に、その音は青白い光となって広がっていった。


 人々が歓声を上げるなか、エドガルは泥に濡れた金属板を拾い上げた。


「王都の印がある」


「はい」


「あなたは、これが何を意味するのか知っていますか」


 リゼットは板を見つめた。


 灰鐘領へ向かう前から、誰かはすでに彼女たちの進む道を塞いでいた。


「わかりません」


 そう答えながら、彼女には見えていた。


 金属板に残った魔力の色は、鐘楼で見た赤い亀裂と同じだった。

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