鳴らない鐘の依頼
王都の鐘は、朝より先に色を持つ。
リゼットがそう知ったのは、まだ文字も読めなかった頃だ。東の空が白みはじめるころ、王城の鐘楼から響く第一鐘は、淡い蜜色をしていた。市場の開門を告げる鐘は青緑、雨を知らせる鐘は、濡れた鉄のような鈍い灰色。音は耳で聞くものではなく、彼女の目の奥に広がる光だった。
けれど、その色が見えることを、リゼットは誰にも話さなかった。
話せば、気味悪がられる。そう教えたのは、幼い彼女を拾った鐘楼守だった。王都では、魔法を使える者には資格証が必要で、資格証を持つには相応の家柄か、相応の後ろ盾が要る。身寄りのない娘の不思議な目など、証明にもならなければ、価値にもならない。
「第三鐘の倍音が濁っています」
その朝、リゼットは梯子の上から告げた。鐘楼の石壁には夜露が残り、薄暗い空気のなかで、巨大な鐘が黒々と吊られている。
「濁っている? 記録には異常なしと書け」
下から返ってきたのは、調律局主任バルナードの声だった。彼は革張りの帳面を抱え、いつも磨かれた靴を履いている。鐘の近くに立つことはない。煤と油が服につくからだ。
「ですが、北西の水路から返ってくる反響が――」
「聞こえたのか?」
リゼットは口を閉じた。
見えた、と言いかけて、飲み込む。第三鐘の音は、普段なら透明な藍色をしている。今朝は中心に黒い筋が走り、遠くで赤い斑点が瞬いていた。音の中に、聞き取れないほど細い震えが混じっている。その震えは、災害の前触れだった。
「耳で聞こえないものを報告書に書くな。貴族方がお読みになるのだ」
バルナードは帳面を閉じた。
「それに、昨日の調律の功績は私の名で提出しておいた。おまえは補助員だ。余計なことを考えず、次の鐘へ行け」
梯子の下で、彼の声だけが乾いて響いた。
リゼットは返事をせず、鐘の縁に手を置いた。冷たい金属の奥から、かすかな赤が滲んでくる。北西。水路。そこに何かが詰まり、魔力の流れを歪めている。
しかし、鐘楼の窓から見える北西の空は穏やかだった。雲ひとつない。王都の人々は、今日も何も知らずに通りへ出ていく。パン屋の煙突から白い煙が上がり、荷車が石畳を軋ませ、子どもたちが水路の縁を走っていた。
災害は、いつも静かな顔で近づいてくる。
昼前、調律局の門前に見慣れない馬車が止まった。
王都の紋章ではない。灰色の車体に、黒い山羊の角を描いた小さな旗が結ばれている。辺境領の紋章だった。
先に降りた従者が周囲を見回し、そのあとで、一人の青年が馬車から姿を現した。長身で、旅装の上に簡素な濃紺の外套を羽織っている。貴族らしい装飾はほとんどないが、姿勢には隠しきれない育ちのよさがあった。
青年は門番に何かを告げ、やがて局内へ入ってきた。
「エドガル・ヴァレンツです」
執務室で、彼は静かに名乗った。
「先月、灰鐘領の新領主となりました。調律局に依頼があります」
バルナードは椅子から立ち上がると、急に笑顔を作った。
「これはこれは、遠方よりようこそ。灰鐘領といえば、古い鐘楼が残る由緒ある土地ですな。さて、どのようなご用件で?」
「領内の災害鐘が鳴らなくなりました」
エドガルは一枚の紙を差し出した。そこには、灰鐘領の地図と、山間にある鐘楼の位置が記されていた。
「三年前から、雨季になると鐘が止まる。前領主の記録では、鐘そのものの老朽化とあります。しかし先月、私が赴任した直後に、隣村で土砂崩れが起きました。鐘は鳴らなかった」
バルナードは紙を眺め、すぐに頷いた。
「調査員を派遣しましょう。もちろん、費用と期間は――」
「調律師本人に来ていただきたい」
青年の視線が、部屋の隅へ向いた。
リゼットは書類を抱えたまま、息を止めた。
「私どもには優秀な者が揃っております」
バルナードが遮るように言う。
「特に、この者は記録整理を担当しておりますので、現場には不向きです」
「では、誰が鐘を直したのですか?」
エドガルの問いに、バルナードの笑顔がわずかに固まった。
リゼットは手の中の書類を見つめた。今朝、彼女が書いた第三鐘の異常報告。その名前の欄には、すでにバルナードの署名がある。
青年は紙ではなく、彼女を見ていた。
「あなたが、鐘の音を聞いたのですか」
危うい問いだった。
リゼットの目の奥で、朝の第三鐘が黒く揺れた。赤い斑点は消えていない。むしろ、昼の明るさの中で濃くなっている。
「……聞きました」
嘘ではない。けれど、本当のことでもない。
エドガルはしばらく彼女を見つめ、それ以上は追及しなかった。
「灰鐘領の鐘は、二週間後に雨季を迎えます。それまでに原因を知りたい。報酬は、王都の規定額の三倍を用意します」
「身分証のない補助員を、領主様の現場へ出すことはできません」
バルナードが言った。
リゼットは顔を上げた。資格がない。家柄がない。だから、功績もない。
エドガルは淡々と答えた。
「ならば、資格のある方を派遣してください。鐘が鳴らない理由を説明できる方を」
部屋に沈黙が落ちた。
窓の外で、正午の鐘が鳴る。いつもなら澄んだ金色の音が王都を満たすはずだった。
だがその瞬間、音の中に赤い亀裂が走った。
リゼットには見えた。
鐘の色が、ゆっくりと崩れていく。
「灰鐘領へ行きます」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
バルナードが何か言いかけたが、エドガルの視線がそれを止めた。
「助かります」
彼はそう言って、依頼書を机の上に置いた。
紙の隅には、黒い山羊の角の印が押されている。
リゼットはその印を見下ろしながら思った。
鳴らない鐘の向こうには、きっと誰かが隠している音がある。彼女が見ないふりをしてきた、赤く濁った音が。
そして二週間後、灰鐘領への道が閉ざされるほどの雨が、王都の北西から降りはじめた。




