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鳴らない鐘を、あなたと調律する  作者: 銀細工ナギ


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18/20

すべての鐘の証言

 夜明け前の街道は、音のない青に沈んでいた。


 王都を出てから三刻、馬車は北東へ向かっていた。車輪が凍った轍を踏むたび、リゼットには鈍い銀色の震えが伝わってくる。隣にはエドガルが座り、向かいにはヴァルターとセヴェルがいた。セヴェルは手枷をつけられていたが、その顔に昨夜までの皮肉な笑みはなかった。


 灰鐘修道院へ続く道は、地図に記されたものより荒れていた。橋は半ば崩れ、道標は倒されている。人が通らなくなったのではない。通った者の痕跡を消すために、誰かが壊したのだ。


「この先に検問があります」


 ヴァルターが前方を見て言った。


 霧の向こうに、黒い外套の男たちが立っていた。胸元には評議会の紋章。馬車を止めるよう、槍を横に掲げている。


 エドガルは窓の外を見た。


「裏道は?」


「ありません。谷へ下りる道ならありますが、馬車は通れません」


「なら、通る」


 エドガルは扉を開けた。


「領主エドガル・アルヴェインだ。通行の理由を述べよ」


 検問の男が一歩進み、封蝋のついた命令書を掲げた。


「王都評議会の命により、反逆者リゼット・ベルナールを拘束する。同行者も全員、取り調べのため連行する」


 その声は、乾いた黄色だった。嘘を命令の形に固めた音。


 リゼットは馬車を降りた。霧の中で、男たちの声が幾重にも重なって聞こえる。恐れ、苛立ち、そして誰かに見られている不安。彼ら自身も、この命令が正しいとは思っていない。


「私がリゼットです」


 彼女が言うと、男たちは一斉に槍を向けた。


「抵抗するな」


「抵抗はしません。ただ、あなたたちの命令が誰の名で出されたのかを聞きたいのです」


「評議会だ」


「議長の名は?」


 男は黙った。


「署名はありますか。記録番号は? 発行日時は? 災害警告に関わる調律師を拘束するなら、鐘楼監督局の立会いが必要なはずです」


 質問を重ねるたび、槍の先から色が抜けていった。


 エドガルが続ける。


「この場で私を拘束するなら、領主権を侵害した理由も記録しろ。私はその記録に署名する」


 銀色の声が霧を押し広げた。


 検問の男は命令書を見下ろし、やがて舌打ちした。


「通せ」


「隊長!」


「通せと言った」


 男は道を開けた。馬車がその横を通るとき、リゼットには、彼の胸の奥で小さな鐘が鳴ったのがわかった。壊れた鐘ではない。まだ誰かを信じたいと思う音だった。


 やがて道は森へ入り、昼を過ぎるころ、灰鐘修道院が見えた。


 それは山腹に食い込むように建っていた。尖塔は折れ、壁面は灰で覆われている。鐘楼には鐘がなかった。ただ、風が空洞を通り抜けるたび、低い唸りが谷へ落ちていた。


 地下門は、枯れた礼拝堂の床下にあった。


 セヴェルから受け取った鍵を差し込むと、錠が重く鳴った。鍵穴から漏れた音は、深い紫色だった。閉ざされた時間の色だ。


 階段を下りると、湿った空気の中に、かすかな金属音が続いていた。


 一歩進むたび、音は近くなる。


 扉の前で、リゼットは立ち止まった。


「中にいる」


 エドガルが頷き、扉を開けた。


 地下室の中央には、いくつもの銅管と水晶板が組み合わされた装置があった。壁には水路の図面が貼られ、床には細い水が流れている。その傍らに、杖をついた老人が座っていた。


 片脚は膝から下がなく、片耳には厚い布が巻かれている。白くなった髪が肩に落ち、手には小さな調律槌が握られていた。


 老人は顔を上げた。


「誰だ」


 声は掠れていたが、そこには澄んだ青があった。


「リゼット・ベルナールです。あなたの名を、聞いてきました」


 老人の目が細くなる。


「私の名を使う者は多い。だが、私の音を聞きに来た者はいない」


「アデル・ノアール」


 その名を口にした瞬間、室内の水晶板が一斉に震えた。


 老人の手から調律槌が落ちる。


「……その名を、どこで知った」


「偽造された記録の中で。あなたが見つけたことを、評議会は隠しました。水路の流量と、警告を遅らせた記録を」


 アデルは長い沈黙のあと、壁に貼られた地図を指した。


「隠しただけではない。今も隠し続けている。王都の地下には、すべての鐘をつなぐ主水路がある。評議会はそこに遮断弁を仕掛け、必要な地域だけに音を送っている」


「音まで、選別していたのですか」


「災害を知らせる鐘は、誰のものか。彼らはそれを決めたかった。富める区画には早く、貧しい村には遅く。被害が広がってから鐘を鳴らせば、救助の予算を要求できる」


 リゼットの中で、無数の色が渦を巻いた。怒りの赤、悲しみの青、そして長いあいだ誰にも届かなかった声の灰色。


 エドガルが地図へ近づく。


「この主水路を止めれば、評議会の操作を明らかにできるのか」


「止めるだけでは駄目だ。正しい音律を、すべての鐘へ流さなければならない」


 アデルはリゼットを見た。


「私にはもう、全域を調律する力がない。だが、お前ならできるかもしれない」


「私に?」


「お前の名は、私の記録の中に残っている。五年前、第三鐘楼で私の提案した音律を、誰より正確に再現した少女がいた。身分を理由に、成果を奪われたとも書いてある」


 リゼットは息を呑んだ。


「あなたが、私を知っていたのですか」


「知っていた。だから、あの記録が偽造されたとき、いつか誰かが自分の音を取り戻すと信じた」


 そのとき、地上から轟音が響いた。


 土埃が天井から落ちる。続いて、階段の方で複数の足音が重なった。


 ヴァルターが剣を抜く。


「追手です」


 セヴェルが青ざめた。


「早すぎる。検問の連中が知らせたんだ」


 アデルは水晶板の一つへ手を伸ばした。


「地下水路は三本ある。東の管を開けば、古い鐘楼へつながる。そこから王都へ音を送れる」


「でも、ここを守る人が必要です」


「守るのではない。鳴らすのだ」


 リゼットは調律槌を拾った。冷たい金属が掌の中で、淡い金色に光った。


 階段の向こうで、扉を破る音がする。


 エドガルが彼女の横に立つ。


「君は水路へ。私はここで時間を稼ぐ」


「一人で?」


「一人ではない。ヴァルターと、セヴェルもいる」


 セヴェルは震える手で、焼け残った帳簿を取り出した。


「私の名も、使ってください。今度は、隠すためではなく、証言するために」


 リゼットは三人を見た。傷ついた者、迷いながらも立つ者、そして自分の罪を抱えて前へ進もうとする者。


 彼らの音が重なり、ひとつの旋律になった。


「では、鳴らします」


 リゼットは水路へ続く扉を開けた。


 遠く、王都の地下から、まだ誰も聞いたことのない鐘が応えた。

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