私の名で鳴らす
工房の中に、焼けた紙の匂いが満ちていた。
捕らえられた男は、名をセヴェルと名乗った。公文書工房の記録係であり、評議会から支払われる金を受け取って、書類の作成と差し替えを行っていたという。
「帳簿にあった調律師の名を知っているか」
エドガルが尋ねると、セヴェルは口の端を上げた。
「知っているとも。だが、私が話せば、私だけが罪を負うことになる」
「罪を負うべき者が、他にもいるのか」
「いるさ。お前たちが議場で追及している連中より、ずっと上にいる」
リゼットは男の声を見つめた。嘘の音は濁った灰色になる。けれど今の言葉には、暗い緑の響きが混じっていた。恐怖と、誰かに利用された者の怒り。
「五年前に消えた調律師の名は?」
「アデル・ノアール」
ヴァルターが低く呟いた。
「王都の第三鐘楼で働いていた。災害警告の新しい音律を提案したが、資格を持たないとして記録から外された。その後、地方の水路調査に向かい、消息を絶った」
「死んだと聞かされていました」
「死んだことにされたんだ」
セヴェルは燃え残った帳簿を顎で示した。
「アデルは、評議会が水路の流量を故意に隠していることを見つけた。鐘を鳴らせば、村々は危険を知る。だが、評議会は警告の時刻を遅らせて、被害を大きく見せないようにしていた。災害が少なく見えれば、予算も責任も減るからな」
工房の奥で、炭になった紙が崩れた。
リゼットの指先に、細い青い音が触れた。アデルの名を聞いたときから、紙の奥で鳴り続けている音だった。
「この帳簿は、あなたが作ったものではない」
セヴェルの顔から笑みが消えた。
「……なぜそう思う」
「あなたは数字を書き換えた。でも、調律師の名を記した音が違う。あなたはアデルの署名を知らない。誰かがここで書いたものを、あなたが清書しただけ」
男は黙り込んだ。
リゼットは工房の壁に並んだ棚を見渡した。紙束の隙間から、かすかな音が漏れている。低く、途切れ途切れの鐘の音。彼女は棚の前へ進み、背表紙に触れた。
一冊の記録簿が、暗い紫色に震えた。
「これを開けてください」
兵士が取り出した記録簿には、王都周辺の魔力水路の点検記録が綴じられていた。表紙をめくると、途中の数ページだけが新しい紙に差し替えられている。
その下から、古い地図が現れた。
地図には、王都から北東へ伸びる水路と、途中で消える細い線が描かれている。終点には、小さな文字で「灰鐘修道院」と記されていた。
「ここにアデルがいるのですか」
「いるかもしれない」
セヴェルが答えた。
「評議会は、あの修道院を閉鎖したことにしている。だが、毎月一度、記録係が食料を運んでいた。私は運ばされた。中に誰がいるかは知らない」
「嘘です」
リゼットが振り返る。
男の声に、赤い音が混ざった。
「あなたは知っている。見たことがある」
セヴェルは俯き、拳を握った。
「見た。アデルを見た。五年前と同じ顔ではなかった。水路の崩落で片脚を失い、耳もほとんど聞こえなくなっていた。だが、あの人はまだ鐘の音を作っていた」
「なぜ助けなかったのですか」
声が震えた。
「助ければ、私の家族が消される。評議会はそういう連中だ」
「だから、私の署名を偽造したのですね」
「命令された」
「命令されれば、誰かの名を奪ってもいいのですか」
工房に沈黙が落ちた。
エドガルがリゼットの隣に立った。
「セヴェル。お前の証言と帳簿は、公開審議に提出する。家族の保護も約束する。ただし、知っていることをすべて話せ」
「約束を信じろと?」
「私の領地では、約束を記録し、破れば責任を負う。王都の評議会と同じにするつもりはない」
エドガルの言葉には、強い銀色があった。以前なら、彼は誰かの権威を借りて話していた。今は自分の名で責任を引き受けようとしている。
セヴェルは長く黙ったあと、懐から小さな鍵を取り出した。
「灰鐘修道院の地下門を開ける鍵だ。だが、急げ。評議会は、アデルが生きていると知れば、今度こそ口を封じに行く」
その瞬間、工房の外で馬の蹄が鳴った。
続いて、短い笛の音。
ヴァルターが窓へ駆け寄る。
「評議会の紋章をつけた一団です。こちらへ向かっています」
エドガルは地図を巻き取った。
「リゼット、行くぞ」
「セヴェルは?」
「連れていく。証人として必要だ」
兵士が裏口を開ける。冷たい風が煙を押し流し、工房の中に残っていた音が一斉に揺れた。
リゼットは焼け残った帳簿から、自分の名が書かれた紙片を拾った。
そこには、偽造された署名がある。
けれど、もうそれを見ても、胸に恐怖だけが広がることはなかった。
「この署名を、議場で示します」
エドガルが彼女を見る。
「それで、君が傷つくかもしれない」
「傷ついたまま隠れるより、傷の形を見せます。私の名を使って嘘をついた人たちに、私自身の声を聞かせるために」
彼は静かに頷いた。
四人は裏口から路地へ出た。王都の空には、夕暮れの紫が広がっている。遠くで鐘が鳴った。
一打、二打、三打。
その響きの奥に、誰にも聞こえない細い音があった。
リゼットには、それが呼び声に聞こえた。
灰鐘修道院へ。
失われた調律師を、沈黙の底から連れ戻せ。
そして、偽られた名を、自分の音で取り戻せ。




