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鳴らない鐘を、あなたと調律する  作者: 銀細工ナギ


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19/20

新しい調律院

 地下水路は、山の底を流れる夜だった。


 壁面に埋め込まれた水晶板が、リゼットの歩みに合わせて淡い青を灯している。足元の水は膝下までしかないのに、流れは強く、細い管の奥へ彼女を引いていった。


 背後で扉が閉まる。


 エドガルたちの声は、もう聞こえなかった。


 リゼットは調律槌を握り直した。金色の光が指の間からこぼれ、水面に細い道を描く。音のないはずの地下で、無数の振動が彼女を取り囲んでいた。水路の継ぎ目、古い弁の軋み、遠くで震える鐘の残響。そのすべてが、色になって押し寄せてくる。


 赤い音があった。


 怒りではない。閉じ込められた警告の音だ。何年も鳴ることを許されず、管の中で熱を持っている。


「あなたを、外へ出す」


 リゼットは水晶板に手を触れた。


 板の内部に、複雑な記号が浮かび上がった。主水路へ通じる三つの弁。そのうち二つは黒く濁り、ひとつだけが細い銀色を保っている。


 銀の弁を開けば王都へつながる。だが、残る二つを閉じなければ、評議会が設けた遮断機構に音を奪われる。


 彼女は腰を屈め、水中へ手を入れた。


 冷たさの中に、誰かの記憶が混じっていた。


 豪雨の夜、鐘楼へ走る少年。崩れた橋の向こうで助けを待つ村人。警報を鳴らそうとした調律師を止める、上役の低い声。届かなかった音が、何度も同じ場所で砕けている。


 リゼットは歯を食いしばった。


「もう、誰の許可も待たない」


 調律槌を水晶板へ打ち込む。


 澄んだ音が水路を走った。青、白、そして深い緑。色の波が分岐を越え、黒く濁った弁へ向かっていく。


 ひとつ目の弁が震えた。


 その瞬間、上流から異様な音が降ってきた。黄色く濁った命令の音。誰かが地上から遮断弁を操作している。


 リゼットは水路の中を走った。流れが足を取ろうとする。水晶板の光が次々に消えていく。


 やがて、円形の広間に出た。


 中央には巨大な弁があり、その向こうに細い鉄橋が伸びている。鉄橋の上に、黒い外套の男が立っていた。評議会の印を胸につけ、片手で操作盤を回している。


「ここまで来るとはな」


 男は振り返らずに言った。


「あなたが遮断しているのですか」


「遮断ではない。秩序を守っている」


「誰の秩序です」


「王都の秩序だ。すべての鐘が勝手に鳴れば、民は恐慌に陥る。知らせる時期を決める者が必要なのだ」


「決める者が、被害を選んでいた」


「必要な犠牲だ」


 その声は、冷たい灰色だった。自分の言葉を信じるために、何度も他人の痛みを塗り潰した色。


 リゼットは弁の前に立った。


「あなたは、鐘を所有物だと思っている」


「鐘は権力だ。権力を持たぬ者が触れていいものではない」


「違います」


 彼女は調律槌を掲げた。


「鐘は、聞こえない人のために鳴るものです」


 男が操作盤を回した。弁が閉じ、地下全体が震える。水が逆流し、リゼットの身体を鉄橋へ押し流した。


 そのとき、遠くから別の音が響いた。


 低く、力強い銀色の音。


 エドガルの声だった。


「リゼット、右だ!」


 彼女は身をひねった。鉄橋の支柱に小さな連絡管が接続されている。管の中から、ヴァルターの剣が打ち鳴らす音、セヴェルが帳簿を読み上げる声、そしてアデルの調律槌が刻む拍子が伝わってきた。


 三人は、地下室から水路へ音を送っている。


 リゼットは支柱に手を伸ばし、連絡管へ調律槌を当てた。


 四つの音が重なる。


 金色の光が広間を満たし、閉じた弁の継ぎ目から細い亀裂が走った。男が叫び、操作盤にしがみつく。


「やめろ! 王都中が混乱する!」


「混乱するのは、今まで隠されていた真実が届くからです」


 リゼットはもう一度、槌を振り下ろした。


 弁が砕けた。


 水が一斉に流れ出し、主水路の奥へ駆けていく。地上で、最初の鐘が鳴った。


 ひとつ。


 続いて、ふたつ。


 王都の遠くで、別の鐘が応える。貧民街の小さな鐘、辺境へ続く街道の鐘、かつて記録から消された村の鐘。ばらばらだった音が、ひとつの旋律をつくっていく。


 男は膝をついた。


 リゼットは鉄橋の端に立ち、広がっていく色を見つめた。空へ伸びる音は、もう誰か一人のものではなかった。


 しかし、その旋律の最後に、ひどく高い音が混じった。


 王都の中心、評議会の塔からだ。


 警告ではない。封印を破った者へ向けられた、古い起動音。


 エドガルの声が連絡管から響く。


「リゼット、まだ終わっていない!」


 彼女は顔を上げた。


 王都の鐘楼群の向こうで、長いあいだ沈黙していた白い塔が、ゆっくりと光り始めていた。

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