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第九話

アルディア大陸北部、ノル地方。

エルディン山脈が淡い冬色をまとい、季節を巻き戻す冷気が漂う中、ルーシェたちは北へと街道を進んでいた。


吹き返す冬の気配を踏みしめながら歩き続け、五日目の朝を迎えた。


「はぁー、だいぶ冷えるね、さすがノル地方……」


ロウリゴが両手を口に当て、息を吹きかけた。


ルーシェはエルターナ出発前のフィーナの言葉を思い返し、防寒着を持ってこなかったことを後悔した。


「絶対寒いよ」と。

「これも持って行った方がいいよ」と。


……フィーナ、その通りだったよ……。


「ノル地方と言ったって、まだ入り口でしょ?

セイル地方となんでこうも違うんだよ!」


ルーシェは数日前の優しい春風はなんだったのかと、腕を組み、全身に力を込めて寒さに抵抗した。


「本で読んだけどね」


ロウリゴは指を空へ向けた。


「ノル地方は大陸北部だからね。

太陽の高さが低い。さらに北の氷海から寒気が吹き込む。だから一年中気温が低いんだ」


そして少し笑う。


「教会では『氷の神が眠る土地』なんて言われてるけどね」


ロウリゴに悪意はないが、熱心な信徒であるフィーナが聞いたら嫌な顔するだろうな。


ルーシェはそう思い、両手を擦って息をかけた。


雪熊の生息地である山岳部に入ると、縄張りである針葉樹林を探す。


「夏熊と雪熊は近縁種だけど、生活の季節が逆なんだ」


博識ロウリゴは嬉々として語る。


「そして雪熊は鼻がすごく利く」


風向きを見る。


「だから風下は危ない」


その時だった。


雪原の一部が突如として盛り上がった。

雪の下から、一頭の獣が姿を現す。


四人に緊張が走る。


それぞれ距離を取り、身構えた。


「ふん。まぁまぁのでかさだな」


オルヴァスはザガシトを見て軽く頷いた。


「おい、ザガシト。お前一人でやってみろ」


その言葉は、雪原の静けさに重く落ちた。

ザガシトは驚きに目を見開き、オルヴァスを見返す。

だが次の瞬間には、その瞳に確かな光が宿っていた。


ルーシェとロウリゴはさらに距離を取り、

周囲の気配を読みながら静かに構える。


「わかった」


短い返答。

ザガシトは背負っていた盾を外し、ゆっくりと、しかし揺るぎなく構えを整えた。


雪熊が二本脚で立ち上がる。

巨体がザガシトへ覆いかぶさる。


「来い」


爪が振り下ろされる。

ザガシトは逃げない。

ただ、盾を確実に前へ掲げた。


ガァン――

雪が舞い上がり、衝撃が地を震わせる。


それでもザガシトは、一歩も退かない。

揺るぎなく、ただそこに立つ。


雪熊が体勢を崩したその一瞬。


ザガシトは盾で鼻先を押し返す。

巨体が仰け反り、隙が生まれた。


その刹那、空いた前脚へ斧を横薙ぎに振るう。


ズバァッ――

毛皮が裂け、雪熊が咆哮しながら飛び退いた。


だがザガシトは追わない。

焦らず、斧を肩へ担ぎ直し、静かに、確実に間合いを詰める。


雪熊が再び飛び掛かる。


ザガシトは盾ごと吹き飛ばされ、腕に痺れが走った。


「……っ!」


腕の感覚を確かめる間もなく、追撃を盾で受け流す。


雪熊の腕が斜めに流れ、脇腹が完全に空いた。


「ここだ!」


踏み込み、腰を捻り、体重すべてを斧へ預ける。


ドゴォッ――

鈍い音が雪原に深く沈んだ。


そして、

巨大な雪熊はザガシトの目の前へ崩れ落ちた。


雪煙が晴れた。


ザガシトは、倒れた雪熊を見下ろしていた。


「ザガシト、やったな!」


ルーシェが駆け寄ると、ザガシトが軽く笑みを浮かべ、額の汗を拭った。


「上々だな、ザガシト。もっと時間かかると思ったぜ」


オルヴァスは倒れた雪熊の鼻を切り取り、布に包んでザガシトに渡す。


「次はルーシェとロウリゴだな。二人で一頭、やってみろ」


オルヴァスがそう告げてしばらくすると、雪の向こうから白い巨体が姿を現した。


どうやら雪熊も、こちらの気配を感じ取ったらしい。


ルーシェは短剣を構え、雪熊の動きを警戒する。


次の瞬間、雪熊が地を蹴った。


ルーシェは右へ流れる。また右へ。


常に斜めへ動く。正面には立たない。


その間にロウリゴが詠唱に入った。


「奔れ、一条の閃光よ。我が敵を撃ち抜け――

 第二階位魔法 《雷閃》」


足元を狙われた雪熊は動きを止め、ロウリゴを見る。


ルーシェが風のように死角へ滑り込み、雪熊を刻む。

脇腹、後脚、足首――

白い巨体が揺れるたび、赤が滲む。


斬撃を繰り出しては間合いを取り、また踏み込む。


すかさずロウリゴの声が、冷たく澄んだ魔力を呼び起こす。


「凍てつけ、大地よ。白銀の鎖となり、我が敵を縛れ――

 第二階位魔法 《氷縛》」


雪熊の足元から、氷が一気にせり上がった。


雪を押しのけるように伸びた氷が両脚へ絡みつき、そのまま地面へと繋ぎ止める。


雪熊が踏み込もうとするが脚は動かない。


巨体が力任せに脚を振り上げる。


バキィッ――

氷が砕ける。


それでも、完全には抜けない。


「ルーシェ!」


ロウリゴの声が飛ぶ。


ルーシェは一気に踏み込んだ。


動きを封じられた雪熊の脇をすり抜け、その死角へ潜り込む。


短剣が白い毛皮を切り裂くが、雪熊は苦し紛れに腕を振る。


ルーシェは地面を転がる。


その頭上を爪が薙ぐ。


ルーシェに冷や汗が滲んだ。


「ルーシェ、右」


ロウリゴの指示に反射的に右へ飛ぶ。


そしてロウリゴの魔力が空気を震わせる。


「集え、熱よ。敵を穿て――

 第二階位魔法 《炎弾》」


炎塊が雪熊を直撃し、白い毛皮を焼き焦がす。

焦げた匂いが漂い、巨体は崩れ落ちた。


雪熊が倒れ伏すとオルヴァスが口を開いた。


「こんなもんか」


そしてルーシェとロウリゴを見る。


「まぁ合格か」


ルーシェは息を整え、ロウリゴと顔を見合わせた。

ロウリゴの満足そうな顔に、頼もしさを感じた。


「これで二頭……っと」


そう言って雪熊の鼻を切り取ったオルヴァスが新たな気配を察知する。


ズシン……


雪山が震えた。


瞬時に表情が変わる。


「おいおい、まさか……」


雪を踏みしめるたび、大地そのものが呻くような低い響きが残る。

歩みは遅い。

だが、遅いからこそ逃げ場がないと悟らせる。


雪熊だったその姿は、もはや魔獣と呼ぶほかない。

赤い瞳が四人を射抜く。


ザガシトが斧を握り直した。


ルーシェの喉が鳴る。


ロウリゴは言葉を失う。


静寂の中で、ただ風だけが、戦いの余韻を抱えたまま、雪山をそっと撫でていた。


オルヴァスが笑った。


「……当たりだ」


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