第八話
冬の影がまだ街の隅に残るなか、日差しはやわらぎ、風は甘い香りを運んでいた。
その風を感じながら、ルーシェは今日はいい朝だと思った。
フィオナ暦512年 第三の月。
光の民を救い、エルシア王国を興した女神フィオナ。その偉業を起点とした暦も512年を数えていた。
エルターナの街は『雪解け水祭』の準備でいつも以上に賑わいを見せている。
エルディン山脈の雪解けを祝うらしいが、ルーシェにはすっかり春の行事として定着していた。
「あ、ルーシェいた。今日から傭兵会所に行くんだよね?」
フィーナは籠いっぱいの洗濯物を抱え、宿屋の裏口から出てきた。
春めいた風が吹き、フィーナの髪がふわりと揺れる。
七年前はおぼつかない手つきで傷の手当てをしてくれたり、りんごのタルトを嬉しそうに運んできたりしていたフィーナも、今では宿屋を手伝う立派な看板娘になっていた。
「ああ、今日からだよ。お昼あたりにロウリゴとザガシトと一緒に行ってくる」
そのとき、通りを歩いていた若い男が二人、足を止めた。
「あの子、ルナール宿屋の……」
若者たちの声は小さく、ルーシェには届かなかった。
祭の関係者だろうか?
「ちょっと、仕事の邪魔だよ!」
おかみさんが箒を手に飛び出すと、若者たちは慌てて頭を下げた。
「すみません!」
若者たちはすたこらと逃げていく。
おかみさんは呆れたようにため息をつき、フィーナを見て苦笑した。
「最近あんなのばっかりさ。まったく」
フィーナは困ったように笑う。
「フィーナも綺麗になったからねぇ。
もう立派なお嬢さんじゃないか。
ルーシェもそう思うだろ?」
「え、そうかな?」
ルーシェは首をかしげる。
「まぁ、フィーナはフィーナだからなぁ」
おかみさんが呆れ、フィーナがクスクスと笑う。
「ほらフィーナ、洗濯物はいいから。
今日は教会の日だろう?」
「うん、これ干したら行くから。
おかみさん戻ってていいよ」
「そうかい?
じゃあ、あの呑んだくれを起こしてくるかね」
まったく、とぶつぶつ言いながら宿に戻っていった。
「オルヴァスはお祭り関係なくお酒飲んでるからね……」
フィーナも、まったく、と言わんばかりにため息を吐いた。
家々の窓には水を連想させる青い花が飾られ、橋の欄干には蔦が絡んでいる。水の都らしい装いが、その栄華を物語っていた。
祭準備の声が空へ舞い上がるなか、二人はその賑わいを、どこか懐かしむように楽しげに眺めていた。
午後。
扉を開けた瞬間、酒と鉄の匂いが鼻を突いた。
地図を囲む男たち。
剣を磨く老人。
巨大な斧を背負った女。
誰もルーシェたちなど気にも留めない。
「……ここが傭兵会所だ」
オルヴァスがどこかイラついた様子でカウンターに向かう。
おかみさんに何か言われたんだろうか……。
ルーシェは軽くため息を吐き、オルヴァスに続く。
「今回はお前らの初陣だからな、おれは何もしねぇぞ、付き添いのみだ」
傭兵会所で受けられる依頼については、事前に聞いていた。
「やっぱり薬草採取なんて依頼はないだろうね」
「戦える奴が集まる場所だからな」
ロウリゴの問いにオルヴァスが早々と訂正する。
「これなんかいいんじゃない?」
ロウリゴが所狭しと貼ってある依頼書を指差した。
「国境警備の応援……?」
ルーシェが首を傾げると、ロウリゴが相槌を打つ。
「そう、戦が起きなければ、それだけで依頼成功になるからね」
合理的というか、相変わらず計算高いな……
ルーシェはそう思いながら依頼書を探す。
「あ、あった!あれあれ、雪熊討伐!」
――初級依頼、雪熊一頭につき銀貨七枚
の記載が見える。
「まぁ、いいんじゃねぇか?
魔獣化もしてねぇだろうし、報酬も悪くねぇ」
面倒くさそうにオルヴァスが頭を掻く。
「毎年この時期に決まって出る依頼だ。
詳しい理屈は知らねぇが、雪熊は暑くなる前に気が立ちやがる。腹も減ってるし、人里まで平気で下りてきやがる」
オルヴァスは三人を見ながら言った。
「おれの飲み代のために、まぁ頑張れや」
ニカッと笑い、女性が二人立っているカウンターを指した。
「その依頼書をもって、受付してこい。
それを姉ちゃんに見せれば分かるからよ」
そう言うと近くのテーブルにいた老人と語り出した。
背の高いザガシトが依頼書を剥がしてルーシェに渡す。
「さあ、行こうか」
のしのしと歩き出す後ろをルーシェとロウリゴが続いた。
「あなたたち、オルヴァスさんとお知り合い?」
カウンターに着くなり気の強そうな受付嬢が話しかけてきた。
「ああ、はい、知り合いといえば知り合いだけど」
「戦時援軍の依頼を受けてくれないのよ。
国家クラスの重要依頼で、オルヴァスさんにお願いしたいんですけど、いつも断られちゃって。報酬もたくさん出るのに……」
そう捲し立てられたルーシェは気まずそうに返す。
「じゃあ、あとで言っておきますが、あまり期待しないでください」
実績とは、このことなんだな。
傭兵稼業は、実績を積むほど受けられる依頼の幅が広がっていく。
仮にここでルーシェが、
「おれが代わりに戦時援軍に」と手を挙げても、
早々に断られるだろう。
実力と実績が求められる。命懸けだ。
……だが、望むところ。
ルーシェは依頼書を静かに差し出した。
「おれたち三人で。この依頼を受けます」
受付嬢は依頼書とルーシェたちの顔を交互に見て少し考える。
「初登録ですよね、まずはお名前を」
ルーシェは渡された登録用紙に記入して返す。
ロウリゴ、ザガシトも続く。
「討伐した数に応じて報酬が上乗せされますので、討伐の証明になるものをお持ち帰りください」
体の部位のことだな。
ルーシェは説明を聞きながら想像する。
「毎年ある依頼ですので特段懸念はございませんが、雪熊の凶暴性を十分ご理解の上、討伐に向かってください」
なお、と女性は続ける。
「もし魔獣化の兆候が見られた場合は、すぐに討伐を中止してください。依頼難度を再検討します。身の安全を最優先に、帰還後は必ずご報告を」
くれぐれも、と補足しルーシェを見て表情を固くする。
命を懸ける仕事だと改めて思い知らされた。
訓練じゃないんだ。
「分かりました。気をつけて行ってきます」
ルーシェの返答に安心したのか、表情が少し緩んだ。
「依頼達成をお待ちしております。
どうかお気をつけて」
力強く笑顔でルーシェたちを送り出した。
街を出て北の街道へ向かうルーシェの心は踊っていた。
目指すはエルディン山脈。
強くなる。実績をあげる。
そして今度こそ、守るんだ。
午後の風は春の匂いを含み、そっと頬をなでてゆく。
日はまだ高く、影は軽やかに伸び、歩みは自然と弾んだ。
――冒険日和だ。
ルーシェは胸の奥で静かに灯をともした。




