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第十三話

ネレイア湖は、朝になっても霧を手放さなかった。

白い膜が湖面を覆い、岸の線を曖昧にし、世界の輪郭そのものを溶かしていく。

風はなく、霧だけが湖面をゆっくりと撫でていた。

まるで湖が、何かを隠すために呼吸しているようだった。


北岸には古代文明の遺跡が残っているという。

帝国の学者たちは、『神々の時代の建造物』と説明していたが、霧の中に立つ石柱は、ただの残骸ではなく、この場所だけ時間が止まっている、と告げるような静けさをまとっていた。


ルーシェは苔むした石柱を見つめた。

人の手で積まれた形は確かにあるのに、どんな目的で、どんな時代に、誰が造ったのか。

想像しようとすると、霧がその輪郭を奪っていく。


「……静かだな」


ルーシェの声は霧に吸われ、すぐに消えた。

静けさそのものが、この湖の主のように感じられる。


ザガシトが荷を下ろしながら言った。


「学者ってのは根気があるよな。石の前で一日中うろうろできるんだ」


「おれたちとは違う強さだよ」


ルーシェは苦笑いし、準備に取り掛かった使節団を見た。


今回の任務は、学者たちの護衛。

湖周辺では獣の出没が増えているらしく、調査中に襲われる可能性がある。


「学者たちは戦えない。だから、きみたちに頼みたい」


昨日、レオニスはそう言った。

その言葉は、任務の重さよりも、帝国の考え方を感じさせた。


リネアが弓を肩にかけたまま、湖面をじっと見ていた。


「……変だべ」


「変って?」


ルーシェが聞くと、リネアは霧の奥を見たまま言った。


「音がしねえ。鳥もいねえし、魚も跳ねねえ。葦も揺れてねえ。生き物が、息をひそめてる感じだべ」


その声にいつもの素朴さはなく、獣の気配を読む者の確信を帯びていた。


ルーシェは耳を澄ませた。


確かに、周辺は静かだ。

水鳥の羽ばたき、魚が跳ねる音、風に揺れる葦のざわめき――

それらが一つもない。


静寂が自然の欠落として迫ってくる。


レオニスの動きには迷いがなかった。

霧と湖を一度見ただけで、必要な指示を次々と出していく。


ルーシェがその指示を聞こうと踵を返した、その瞬間。


霧の奥で、水が弾ける音がした。

小さな破裂音が連続し、こちらへ向かってくる。


「何か来るぞ」


ザガシトが前に出る。


霧の中から影がいくつか、ばらばらに飛び出してきた。


沼鹿だった。


普段は臆病で、群れで行動する草食獣だ。

だが今は、互いにぶつかりながら、何かから逃げるように形が崩れていた。

目は見開かれ、息は荒い。

生き延びるためだけに走っている、という動きだった。


ザガシトが斧を構える。


ルーシェも短剣を抜いた。

学者たちのいる後方へ突っ込まれれば、調査どころではない。


「止めよう」


前へ踏み出した瞬間――


「待て」


レオニスの声が霧を裂いた。


リネアが低く言う。


「……あれ、襲ってきてるんじゃねえ。逃げてるんだべ」


沼鹿が霧の奥へ消えていく。使節団は無事だ。


その直後。


湖の奥で、何かが低く鳴った。

水を震わせるような、地の底から響くような音。


リネアが息を呑む。


「……聞こえたべ。あれ、獣の声じゃねえ」


霧の向こうで、湖面が一瞬だけ盛り上がった。

巨大な影が、ゆっくりと沈むように消えていく。


正体は分からない。

だが、そこにいる、という事実だけが残った。


ルーシェに緊張が走る。


ザガシトが斧を肩に掛け、霧の奥を見たまま短く言った。


「奥を見てくる」


ルーシェはロウリゴと目を合わせ、頷いた。


ザガシトの後を追おうとしたその時、


「行くな」


レオニスが静かに指示を出した。


ルーシェは振り返った。


「我々の任務は使節団を守ることだ。

湖の主を倒すことではない」


その声は、剣よりも重かった。


「それに、未知の生物を分からないまま殺す必要はない」


ザガシトが息を呑む。

ロウリゴも、静かに頷いた。


「……なるほど。たしかに」


レオニスは穏やかな表情を浮かべた。


「知を守るための剣だ。無闇に振るうものじゃない」


レオニスはすぐに判断した。


「撤退する。学者たちを安全な場所へ移動させる」


学者の一人が、石柱の根元から古い石板を持ち上げて言った。


「記録が……ありました!

この湖には、古代から湖底の主の記述があるようです!」


レオニスは短く頷き、石板を一度見てから学者たちへ視線を向けた。


「……命より古代の石が重いことはない」


霧の奥へ目を向ける。


「今日はここまでだ。撤収する」


学者が驚いた顔をする。


「しかし、まだ調査は――」


「明日の予定も変更する。湖には予想以上の危険がある」


レオニスは即座に言い切った。


「調査は安全を確保してから再開する」


ルーシェは胸の奥が熱くなるのを感じた。


この人は強いだけじゃない。何を優先すべきか、何を守るべきかを知っている。


ルーシェがこれまで見てきた大人とは、違う種類の強さだった。


帝国というものを、まだ何も知らない。

それでも――少しだけ、知りたいと思った。




焚き火が湿った草を赤く照らし、使節団の荷車が静かに影を落としていた。

湖から離れた野営地は安全だが、昼間の霧の気配が胸の奥にまだ残っている。


使節団の学者たちは帳簿を閉じて早めに休んでいた。

どうやら、ネレイア湖の調査は今回はここで打ち切りに決まったらしい。


見張りの任を終え、交代したばかりのルーシェ、ロウリゴ、ザガシトが火を囲み、少し離れた場所にリネアが弓を抱えて座っている。

彼女は焚き火ではなく、闇の向こうを見ていた。


レオニスは火のそばに腰を下ろし、周囲を見渡した。


「……今日は、重い初日だったな」


火のはぜる音だけが返ってきた。


ルーシェは火を見つめたまま、浅く息をした。

霧の静けさが、まだ胸の奥に張り付いている。


使節団がまとめた巻物が、焚き火の赤い光の中で静かに積まれていた。


レオニスは火に手をかざした。


「使節団は、土地を巡る。道を見て、人を見て、空気を感じる。そういう役目だ」


ロウリゴは膝の上で指を組み、荷車の方へ目をやった。


「……こういう仕事も、いいですね」


リネアが肩をすくめる。


「私は、もっと気楽な仕事の方がいいべ」


ロウリゴは少し笑った。


「知らない土地を見て、いろんなものを知れる。僕はそういうの好きだな」


レオニスは火を見つめたまま言った。


「広い大陸だ。目が届かない場所は必ず出る。だから、こうして巡る必要がある」


ザガシトが静かに言った。


「……その使節団を守るのが、あんたの役目ってわけか」


レオニスは淡々と答えた。


「任される者が動き、動けない者は任されない。私は、そういう家に生まれただけだ」


ロウリゴの指がわずかに強く組まれた。


リネアは闇の方を見たまま言った。


「学者らも、明日になったらまたどっかで巻物広げるべ」


ロウリゴは小さく笑った。


「そうだね」


ルーシェは二人の声を聞きながら、火の熱を頬に感じた。

ロウリゴの声には、いつもとは少し違う響きがあった。


レオニスは荷車の方へ視線を向けた。


「今日は休め。明日は予定を前倒ししてアクレナへ向かう。湖のことは帝都へ報告して判断を仰ぐ」


焚き火の火が高く揺れ、夜の草原に赤い光が広がった。


帝国という巨大な影は、この旅の先に確かに待っていることを、ルーシェは静かに感じていた。


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