第十一話
春の匂いが、エルターナの街を包んでいた。
十日ぶりに戻ってきた四人を迎えたエルターナは、雪解け水祭も終わり、いつもの喧騒を取り戻していた。
魔熊討伐を終えた四人は、その足で傭兵会所へ向かった。
中は相変わらず荒くれ者たちの声が響く。
受付で通常個体二頭と魔熊一頭の討伐報告を済ませる。
だが、オルヴァスは報告書を閉じようとする受付嬢の前へ、魔核をぐいと差し出した。
魔熊から取り出されたそれは、淡く光を宿した黒紫色の結晶だった。
「ふざけんな。この魔熊が金貨八枚だと?」
周囲の視線が集まる。
受付嬢は困ったように口を開きかけるが、オルヴァスはそれを遮るように声を荒げた。
「こいつらはまだガキだぞ」
オルヴァスは魔核を指で弾き、受付嬢へ突きつける。
「魔獣化したら難度を上げる。それがお前らの決まりだったよな?」
オルヴァスはさらに語気を強めた。
「だったら、討伐したこいつは本来もっと上位の傭兵が受けるべき依頼だったはずだ」
畳みかけるように続ける。
「それを、新米のこいつらが倒したんだ。それがたった金貨八枚で済むのか?」
受付嬢は言葉を失い、視線を泳がせる。
「……わ、分かりました。死骸回収班に大きさを確認させますので、追加でいくらかお支払いできると思います」
ようやく絞り出した声だった。
オルヴァスはその返答に満足したのか、ちらりとルーシェを見た。
ほんの一瞬だけ。
そしてニヤリと笑う。
ルーシェは小さくため息をついた。
——こういうところなんだよな
満足げなオルヴァスを先頭に、四人は出口へ向かう。
そのとき、扉が開いた。
磨かれた鎧を身に着けた騎士が、従者を数名連れて入ってきた。
胸元には、見慣れない紋章が刻まれていた。
オルヴァスは気にも留めず、すれ違って歩き続ける。
だが騎士は、オルヴァスの背を見た瞬間、わずかに眉を動かした。
二歩、進む。
止まる。
振り返る。
今度はルーシェに視線を向ける。
騎士は従者へ小さく耳打ちする。
そして騎士は何事もなかったように奥へ消えていった。
外へ出た四人の背後で、扉が静かに閉まる。
「さて、宿に帰るか」
オルヴァスが歩き出す。
ルーシェたちも、その背を追った。
夜の宿屋は、昼間の喧騒がすっかり落ち着き、灯りだけが静かに揺れていた。
食事を終えた四人は卓を囲み、琥珀色の陽葉茶を手にしている。
香ばしさの中に、ほんのり柑橘の香りが混じる。
ルーシェにとっても、すっかり馴染んだ味だった。
ロウリゴが魔熊討伐の話を興奮気味に語り、ザガシトは自分の吹き飛ばされた場面をなぜか誇らしげに話す。
ルーシェは苦笑しながら補足を入れ、三人の会話はあちこちに飛びながらも楽しげだった。
フィーナは頬杖をつき、その様子を静かに聞いていた。
ほっとしたように目を細めている。
言葉にはしない。
けれど、その表情を見れば、何を思っているのかはルーシェにもわかった。
フィーナはいつもそうだ。
何かを求めるわけでもなく、心配を口にして縛るわけでもない。
ただ、帰ってきたルーシェを見て、静かに笑っている。
その距離感が、ルーシェには心地よかった。
「今日は結局防具屋に行けなかったし、明日行こうかな」
ぽつりと言うと、フィーナの肩がぴくりと跳ねた。
「行く。私も行きたい」
声は強くない。
けれど迷いのない言い方だった。
ルーシェは困ったように眉を寄せる。
フィーナは宿屋の仕事が忙しいはずだし、街を歩くなら自分一人で十分だ。
「フィーナ、仕事は――」
言いかけたところで、おかみさんが帳簿をめくりながら口を挟んだ。
「行っといで、フィーナ。いつもよく働いてくれてるんだから、たまには息抜きしなさい」
フィーナは少し照れたように笑った。
「街、ちょっと見たいんだ。新しい服とか……いろいろ」
その表情は、いつもの宿仕事のときとは違っていた。
年頃の少女らしい笑顔に、ルーシェは思わず苦笑する。
「……しょうがないなぁ」
その言葉を聞いた瞬間、フィーナは嬉しそうに笑った。
兄妹らしい、柔らかな笑顔だった。
陽葉茶の香りがふわりと立ち上り、宿屋の灯りはゆっくりと揺れる。
激戦の記憶さえ、少しずつ遠ざかっていくようだった。
翌朝のエルターナは、春風が街路をすべり抜ける気持ちのいい天気だった。
宿を出たルーシェとフィーナは、並んで石畳を歩く。
フィーナはいつもより少しだけ歩幅が軽い。
街に出られるのが嬉しいのだろう、とルーシェは思った。
防具屋での買い物はあっさり終わった。
店主が昨日の魔熊討伐の噂を聞いていたらしく、やたらとサービスしてくれたせいだ。
「よかったね」
フィーナがそう言って笑う。
そこからは完全にフィーナのペースになった。
服屋。
装飾品屋。
布地の店。
フィーナは目を輝かせながら、あれこれと見て回る。
ルーシェは少し疲れた顔をしていたが、内心ではフィーナが楽しそうならそれでいいと思っていた。
通りの向こうから、甘い香りがふわりと流れてきた。
春風に乗って、街中に広がるような香りだ。
フィーナは足を止めた。
「……月蜜まるの匂いだ」
店先では、丸い焼き菓子が次々と焼き上がっていく。
紙袋を抱えた子どもたちが笑いながら駆けていき、行列は通りの端まで伸びている。
「宿で食べればいいじゃないか。元祖なんだろ、あそこ」
ルーシェは、ステラ家直伝だからね、と偉そうにのけぞるおかみさんを思い出した。
フィーナは即座に首を振った。
「違うの。街で食べる月蜜まるは特別なの」
「腹に入れば同じだろ」
「そういうこと言う!」
フィーナは紙袋を受け取ると、そっと月蜜まるを割った。
白い湯気がふわりと立ち上り、黄金色の月蜜が糸を引く。
「ほら、焼きたて!」
甘い香りが鼻をくすぐり、春風に溶けていく。
そのとき、行列の端で困ったように立つ少女が目に入った。
髪を後ろで束ね、弓を背負っている。
服は質素だが、どこか凛とした雰囲気がある。
フィーナが声をかけた。
「並ぶの、初めて?」
少女は少し驚いたように振り返った。
「……ああ、都会のしきたり、よくわからないべ。後ろ、ここでいいか?」
「うん、ここでいいよ。残りの数もまだ大丈夫そうだね」
少女はほっとしたように息をついた。
「助かるべ……こういう行列、慣れてなくて」
フィーナが笑った。
「雪解け水祭を見に来たんだ?」
「見たかったんだべ。都会の祭りって、どんなもんかと思ってな」
少女――リネアは月蜜まるをそっとかじり、目を細めた。
「……うまいな、これ。弟妹にも食わせたいべ」
フィーナが嬉しそうに頷いた。
「おいしいでしょ?」
リネアは紙袋を見つめながら、ぽつりと言った。
「弟妹に送る金、少しでも増やしたいしな」
フィーナが首を傾げた。
「お仕事で来たの?」
「そうだべ。傭兵をしてるんだ。まだ駆け出しだけどな」
リネアは少し照れたように笑う。
「今回も運よく仕事を拾えたんだべ」
ルーシェは眉を上げた。
「仕事?」
「護衛の依頼だべ。帝国使節団の護衛隊で、弓が使える傭兵を募集してたんだ」
フィーナが目を丸くした。
「帝国の使節団?」
「そうだべ。十日間の護衛任務で、何人かで組むらしいさ。私はその一人だべ」
リネアはふと思い出したように、声を落とした。
「そういや、傭兵会所で噂になってたべ。魔熊を倒した新人傭兵がいるって」
フィーナはルーシェを見た。
「それって……ルーシェのことじゃない?」
リネアは一瞬固まり、ルーシェを見つめた。
「……あんた、なのか?」
ルーシェは少しだけ息を吸った。
「みんなで倒しただけだよ」
リネアは驚いたまま、ゆっくりと頷いた。
「……すげぇ、魔獣化した熊だべ?
弓だけじゃ、あんなでかぶつには太刀打ちできねぇ。
私一人じゃ無理だべ……」
リネアは視線を落とし、少し照れたように続けた。
「……もし会所で依頼を受けるなら、あんたと組めたら心強いべ」
ルーシェは静かに答えた。
「……考えておくよ」
リネアはほっとしたように笑った。
「ありがとな。考えてくれると嬉しいべ」
春風が吹き抜ける。
月蜜まるの甘い香りがまだ残る街で、三人の影がゆっくりと並んだ。




