第九話 本能寺の報
朝は、いつもと変わらなかった。
空は曇り。
風は弱い。
和睦のあと、陣は落ち着いている。
兵たちは、動いていた。
片付け。
準備。
次への支度。
戦は終わった。
そのはずだった。
「……来たぞ」
低い声が、走る。
ひとりの男が、馬から降りる。
息が荒い。
顔は青い。
ただならぬ様子だった。
「何事だ」
問いが飛ぶ。
男は、答えない。
答えられない。
言葉が、出てこない。
やがて――
絞り出すように、言った。
「……討たれた」
その一言で、空気が止まる。
「誰が」
誰かが聞く。
聞かなければならなかった。
男は、顔を上げる。
震えている。
「……殿が」
沈黙。
誰も、動かない。
「本能寺にて――」
続きは、必要なかった。
織田信長。
その名が、空気の中に落ちる。
ありえない。
誰もが、そう思った。
あの男が。
あの、迷いのない存在が。
「……嘘だ」
誰かが呟く。
否定ではない。
拒絶だった。
だが。
空気は、変わらない。
現実は、動かない。
崩れる。
その予感が、広がる。
軍が。
秩序が。
すべてが。
その中で――
一人の男が、立っていた。
豊臣秀吉。
動かない。
表情も、変わらない。
報せを聞いている。
確かに。
だが――
揺れがない。
「……」
何も言わない。
ただ、考えている。
(来た)
心の奥で、何かが動く。
驚きではない。
確認に近い。
周囲が、ざわめく。
声が上がる。
動揺が広がる。
だが。
秀吉だけが、静かだった。
やがて、口を開く。
「……動く」
短い言葉。
誰かが、息を呑む。
「今、か」
当然の問い。
まだ、何も整っていない。
情報も、確定していない。
だが――
「今だ」
迷いがない。
その一言で、空気が変わる。
崩れかけたものが、止まる。
向きが、定まる。
誰も、理由を聞かない。
聞けない。
ただ、従う。
なぜなら――
その決断が、あまりにも早かったから。
考える隙を、与えない。
「準備を」
命が飛ぶ。
動きが、一斉に変わる。
さきほどまでの静けさは、消えた。
だが。
混乱ではない。
整っている。
そのことが、逆に異様だった。
(間に合う)
また、その感覚。
理由はない。
だが、外れない。
秀吉は、空を見た。
曇っている。
何も、見えない。
それでも――
進むべき道は、はっきりしている。
誰にも見えないはずのものが。
見えているかのように。
軍が、動き出す。
和睦の余韻は、もうない。
すべてが、反転した。
戦は、終わっていなかった。
むしろ――
ここから始まる。
誰もが、それを理解していた。
ただ一つ、分からないことがある。
なぜ、この男は。
迷わないのか。
豊臣秀吉。
その決断の速さが、どこから来るのか。
知る者はいない。




