第三話 墨俣一夜城
川は、静かに流れていた。
美濃へと続くその水面は、夜になると黒く沈む。
対岸には敵地。
昼間でさえ近づくことをためらう場所だ。
そこに――
「城を築く」
命が下った。
「……一夜で、ですか」
誰かが、思わず声を漏らした。
ざわめきが広がる。
無理だ。
できるはずがない。
木を切り、運び、組み上げる。
それだけでも日数はかかる。
まして、敵の目の前で。
「聞き違いではないな」
低く、確認する声。
「一夜だ」
命は変わらない。
その場にいたのは、
織田信長。
そして、その命を受ける者――
日吉。
「やれるか」
信長の問いは、短い。
日吉は、少しだけ川を見た。
流れ。
深さ。
岸の形。
頭の中で、何かが組み上がっていく。
(間に合う)
理由はない。
だが、そう思った。
「やってみせます」
迷いはなかった。
夜。
闇の中で、木が動く。
音を立てぬように。
だが、止まらぬように。
人が走る。
材が運ばれる。
火は使えない。
灯りは最小限。
それでも――
作業は、進んでいく。
「早い……」
誰かが呟いた。
手際が良すぎる。
指示が的確すぎる。
無駄がない。
「次、そこだ!」
日吉の声が飛ぶ。
位置も、順も、迷わない。
まるで――
最初から完成形を見ているかのように。
夜が、深まる。
川の向こうに、敵の気配がある。
だが、不思議なことに。
気づかれない。
音はある。
動きもある。
それなのに――
「……静かすぎる」
作業をしていた一人が、顔を上げた。
誰も答えない。
ただ、手は止まらない。
やがて――
夜が明ける。
薄明かりの中に、それはあった。
城。
確かに、そこに。
「……出来ている」
呆然とする声。
誰かが笑う。
誰かがその場に座り込む。
現実感が、追いつかない。
対岸の敵が、ざわめく。
昨日まではなかったものが、そこにある。
それだけで、十分だった。
信長は、何も言わなかった。
ただ、その光景を見ている。
やがて、視線が日吉へ向く。
「……一夜か」
短い言葉。
日吉は、頭を下げた。
「はい」
それ以上は言わない。
だが。
本当に、一夜だったのか。
誰も、確かめることはできない。
作られた城を見上げながら、誰かが呟いた。
「夢でも見ているようだ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
後に――
この出来事は、「一夜城」と呼ばれる。
だが。
その“夜”が、どれほどの長さだったのか。
知る者はいない。




