524話 決別
心臓が早鐘を打ち、全身の筋肉が悲鳴を上げている。
『加速のポーション』と風魔法、そして勇者を追う執念で、遥斗は限界を超えて空を飛んでいた。
ビキッ、と体内で何かが弾ける音がした。
過剰な負荷に耐えきれず、毛細血管が破裂したのだ。
視界が赤く染まり、喉から鉄の味がせり上がってくる。
(……知ったことか!)
遥斗は血を飲み込んだ。
今、涼介に追いつけなければ世界が終わる。
違う。
そうじゃない。
母さんが死ぬ。
嫌だ!それだけは!
極限状態の中、遥斗の脳裏に走馬灯のように過去がフラッシュバックする。
『遥斗がいい子にしてたらすぐに帰って来るからね』
幼き日に別れた、母の最後の言葉。
優しかった母。
温かかった手。
けれど、母は帰ってこなかった。
(僕が……悪い子だったからだ)
ずっと、そう思っていた。
母がいなくなった家で、父は新しい母を連れてきた。
継母、父、異母弟、そして家政婦。
誰も遥斗を見ようとしなかった。
食事を与えられず、罵声を浴びせられ、時には暴力に晒された。
辛かった。
寂しかった。
でも、自分が悪い子だから捨てられたんだと、虐待されるのは当然なんだと、そう思い込むことで精神を保ってきた。
でも、違った。
母は捨てたわけじゃなかった。
異世界に転移していただけだった。
(母さん……)
こちらの世界で、母はエルフの夫を作り、ハルカという娘を作り、人生を謳歌していた。
自分を置いて。
新しい幸せを築いていた。
やはり、自分は必要なかったのだろうか?
僕のことは忘れてしまったのだろうか?
この自問自答は、ずっと繰り返してきた。
けれど、母はこの世界を救うために自らを犠牲にし、『ユグドラシル』となった。
その愛は本物だ。
世界を守ろうとする意志は尊い。
(……話をしたい)
それが、遥斗の偽らざる本音だった。
世界とか、正義とか、そんなことよりも。
ただ一言でいい。
母と話がしたかった。
「会いたかった」と、伝えたかった。
「……ぐ、はぅッ!」
口から大量の血を吐く。
それでも、ポーションを飲む手間すら惜しい。
涼介との差は縮まらない。
勇者の飛翔速度は速すぎる。
視界の前方に、巨大な影が迫る。
ユグドラシルが、あんなに大きく見える。
その周囲に浮かぶ無数の「ラグナロク」もはっきりと視認できた。
紫色の光が、まるで心臓の鼓動のように不気味に脈動している。
「間に合えぇぇぇぇぇぇッ!!」
遥斗が手を伸ばす。
だが、涼介の剣は神々しい光に包まれていた。
いつ破滅の引き金が引かれてもおかしくない。
(……もう、駄目か)
絶望が脳裏をよぎった、その時。
横合いから凄まじい閃光が走り、涼介の進路を遮った。
涼介が急停止する。
「……!」
追いついた!
遥斗は僅かに安堵し、閃光の放たれた方向を見た。
そこには、神秘的な輝きを纏ったモンスターがいる。
成体へと進化した神獣、ルナフォックス。
るなだ。
その背には、大輔とさくらが乗っている。
涼介が不愉快そうに眉をひそめる。
「何のつもりだ、大輔」
冷徹な問いかけ。
さくらはその眼光に射抜かれ、身体が硬直した。
涼介の持つ剣の威力は知っている。
あの一撃をこちらに向けられれば、るなごと光の中に消えるのは必定だ。
さくらの背につかまっている大輔すら、恐怖で震えているのが分かる。
それでも、気丈に大輔は叫んだ。
「なぁ、やめろって涼介!仲間同士が争ってもしかたねーだろ!」
竜騎士の力を一部失い、能力を落とした大輔では、今の涼介を止める術はない。
しかし、それでも見過ごすわけにはいかなかった。
一瞬の隙ができた。
今の間に、遥斗はポーションをあおり、崩壊しかけた肉体を修復する。
それを横目で見る涼介だが、気にも留めない。
「……争い、か。確かに、争う必要はないな」
涼介が剣を下ろす。
一瞬、大輔の表情が緩んだ。
通じたのか、と。
しかし。
「お前たちが、黙って俺に従えばいいだけだ」
「え……?」
「勇者であるこの俺に!そうすれば争いなど起きない!俺こそが正義だ!!」
涼介は狂信的な瞳で言い放った。
「お前の正義って……一体何なんだよ!涼介!」
大輔が食い下がる。
「決まっている。……守ることだ!俺達の世界を!秩序を!友を!」
涼介は迷いなく答えた。
「それが、高橋涼介にとっての一番の正義だ」
「……おかしいんじゃねーか? お前、間違ってるよ!友達の母ちゃん殺して……それで守れるわけないだろ!そんなの、ただの独りよがりだ!」
「……そうか。お前には理解出来ないか」
涼介は無感情に呟くと、視線をさくらに移した。
「さくら、お前はどうなんだ?」
「っ……」
その言葉の圧に、さくらは声が出ない。
代わりに、るなが「グルルルルッ!」と敵意をむき出しにして唸った。
拒絶。
明確な。
「……そうか、残念だ」
涼介はため息をついた。
「お前たちは、勇者パーティには相応しくなかったようだ」
その言葉が紡がれた瞬間。
「え、嘘……力が……?」
「な、なんだ……体が重い……」
大輔とさくら、二人の身体から急速に力が抜けていった。
『勇者の加護』。
パーティメンバーに付与されていたステータス補正が、涼介の認識から外れたことで消失したのだ。
圧倒的な力を失い、ただの「人」へと戻っていく二人。
涼介はもう、二人を見なかった。
彼にとって、理解者でない者は、もはやモブでしかない。
涼介はゆっくりとユグドラシルの方へ——いや、追いついてきた遥斗の方へ振り向いた。
「……待たせたな」
そこにいたのは、いつもの優しい遥斗ではなかった。
心を捨て、機械のようになった遥斗でもない。
憎悪。
遥斗の心の奥の奥に、泥のようにへばりついていた純粋な憎悪が、表情に溢れ出ていた。
人が誰しも持つ、昏い感情。
本当はずっと、遥斗が抱えていた感情。
「……俺が、憎いか?」
涼介が嬉しそうに聞く。
「ああ」
遥斗が答える。声は地を這うように低い。
「自分が、憎いか?」
「ああ」
「理不尽な世界が、憎いか?」
「……憎い」
その答えを聞いて、涼介は満面の笑みを浮かべた。
「そうだ!それだ遥斗!お前は俺だ!」
涼介は両手を広げ、歓喜した。
「強くなれ遥斗!全てを失って、絶望を知って……そうして初めて、お前は俺と対等になれる!お前だけが、俺になれるんだ!」
訳のわからない理屈。
狂っている。
だが、遥斗にとって、もはやそんなことはどうでもよかった。
説得も、和解も、理解もいらない。
涼介は、ここで殺す。
ただそれだけ。




