第33話:階段と段階
ーー久世フェーズ
当たり前のようにご飯を食べる。
好きな人と食卓を囲む。
人と話し、街を歩く。
なんでもないようなことが幸せだったと思う。
このフレーズは、今の俺に染み渡る。
痛い。
眠い。
寒い。
腹が減った。
「……帰りたいなあ」
俺の言葉が終わる頃には、顔面に蹴りを入れられ、部屋の窓際まで吹き飛ばされた。
(来た! ようやくチャンスが!)
ここが何階かは分からない。
しかし、脱出するならこの窓しかない。
弱りきった俺の体力ではドアまでもたないし、そもそも辿り着けない。
俺の両手は椅子に座らされたまま、後ろで拘束されている。
俺と一緒に倒れた椅子も邪魔だが、右手に被さった左手はもっと邪魔だ。
恐らく魔法を発動させた瞬間、左手にも相応のダメージが入る。
だが、言ってる場合じゃない。
男たちは俺を元の位置へ戻すため、近寄ってきている。
(腹を括れ、久世恒一。前世では片目と片腕を失ったが、せいぜい左手だけだろ!)
男たちが俺を捕える寸前、長方形を射出した。
左手の感覚はない。
しかし、男たちはドア付近まで吹っ飛ばせた。
「クソったれが! 一、二階であってくれよ!」
願いながら魔法を射出し、窓のバリケードごと破壊する。
綺麗な晴天が広がる。
しかし、近くに建物は見えない。
視界に入ったのは、あべのハルカスとタワマン。
拘束具を魔法で破壊する。
続けて長方形を床へ叩きつけ、その勢いで窓の外へ身体を投げ出した。
「あー、一階どころか、四階くらいありそう……高所恐怖症なのに」
呑気にも宙を舞っている自分の普段の行いを呪う。
風。
下。
地面。
遠い。
「無理無理無理無理無理!」
しかし、逃げるしかない。
俺は右手を出した。
「足場になってくれ!」
一枚。
いつも図面のように薄かった長方形に、厚みが加わる。
いつもの平面とは違う、直方体。
「なんだかわからないが、これを使うしかない!」
気にする暇もない。
俺は落下している。
一つ目を足場にしながら、魔法を解除する。
普通ならそこで消える。
でも。
直方体は解除しても、一瞬だけ形が残った。
操作はできない。
触れれば崩れ始める。
それでも。
一秒にも満たない時間があれば十分だ。
消えかけた足場を蹴り、さらに下へ次の直方体を出す。
また蹴る。
出す。
消す。
出す。
一段ずつ。
階段だ。
一枚しか扱えないなら、消え切る直前に次を出せばいい。
即席非常階段。
「うおぉぉぉぉぉぉぉ!」
空中の階段を必死で駆け下りる。
「怖い怖い怖い怖い!」
三階。
二階。
まだ高い。
「高所恐怖症には辛いんだよおおおお!」
最後の直方体を蹴る。
地面。
「うわぁぁぁぁぁ!」
着地。
その勢いのまま走り抜け、壁に激突した。
咄嗟の閃き。
魔法の連続使用。
全力疾走。
拷問で受けたダメージ。
全部が体力を奪っていく。
「あのビルから出られただけで、さほど距離は離れていない……早く逃げなくては」
左手からは止まらない出血。
剥がされた爪の痛み。
着地直後に痛めた左足を引きずる。
後ろから銃声。
何かが飛んできた。
長方形を盾にする。
弾ける。
「ピンチすぎる。しかしピンチはチャンスだったか。なんの攻略本に載ってたっけ……
思考が回らない。
俺も撃つ。
正確には、長方形を飛ばす。
全然当たらない。
疲れている。
手も震えている。
狙えるわけがない。
「ああああああ!」
一枚飛ばす。
壁。
もう一枚。
窓。
また一枚。
看板。
全部外れる。
でも、相手は引っ込む。
今はそれでいい。
当たらなくても近寄らせなければいい。
人目の多いところまで逃げる。
あべのハルカスがかなり近くに見えている。
天王寺周辺か。
(こんなボロッカスの身体で、もつのかな……)
「いやいや。もたせろ。まためぐみや冴子さんに会いたいんだろ」
自問自答しながら、少しずつ歩を進める。
長方形を乱発し、牽制しながら路地の奥へ。
自分でも何をしているのか分からない。
ゴミ袋。
室外機。
その隙間へ身体を滑り込ませる。
隠れつつ、少しずつ移動する。
後ろから声。
「どこ行った!」
「探せ!」
近い。
緊張と疲労でどうにかなりそうだった。
頭が回らない。
視界が狭い。
(めぐみ……)
早く伝えなければ。
合流しなければ。
上野のことを伝えるまで、止まれない。
足音が近づく。
「……くそ」
長方形を出す。
消える。
もう一度。
出ない。
「……あ」
魔法じゃない。
俺が限界のようだ。
壁にもたれ、座り込む。
息が苦しい。
「スマホがないと、何にもできないとは……」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
視界が揺れる。
どこからともなく足音が聞こえた。
ゆっくり。
追ってきた連中とは違う。
一人。
「うわ。ほんまにおるやん」
関西弁。
知っている声のような気がした。
でも、顔を上げられない。
「うわ……きったな。相当やられてるし」
身体を起こそうとする。
無理。
「触るな……」
声にならない。
背中に腕が回る。
持ち上げられる。
誰かの背中。
聞いたことがある。
綺麗な声から出る、柄の悪い関西弁。
安心した。
それと同時に。
なぜか。
少しだけ気持ち悪かった。
俺の意識が落ちた。
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ーーひとみフェーズ
「……ほんまにおったな」
背中に乗せた久世は反応しない。
軽い。
七歳の身体だから当たり前なのかもしれない。
それにしても。
酷い。
血。
泥。
破れた服。
腫れた顔。
左手なんか、まともに見られたもんじゃない。
「きったな……」
思わず声が出る。
でも。
その汚さは。
ここまで逃げてきた証拠でもあった。
前世。
デポルを狩り尽くした男。
今回は七歳。
中身が三十五歳だろうが、身体の耐久値まで三十五歳になるわけじゃない。
拷問され。
殴られ。
爪まで剥がされ。
それでも自力で逃げてきた。
「お前、なんでここまでできるんや」
返事はない。
「何に突き動かされとる?」
少し歩く。
「めぐみだけか?」
久世の腕が、力なく垂れている。
「冴子か?」
もう一度。
返事はない。
「ただ単にデポルを殺したいだけか。私は……」
そこで言葉が止まった。
「私は、お前を信じてええんか?」
聞いたところで。
意識のない久世が答えるわけもない。
それでも。
聞いておきたかった。
なぜか。
そう思った。
「まあ……」
久世を背負い直す。
「だとしても、私は間に合わんかもな」
自分で言って。
胸の奥が少しざわついた。
何に。
間に合わない?
分からない。
それより、もっと気になることがある。
どうして。
私はここへ来た?
久世が脱出できたことなんて知らなかった。
この路地も知らない。
なのに、少し前。
突然、頭の中に流れ込んできた。
『ここにいるよ』
そんな言葉。
いや。
言葉だったのかすら分からない。
ただ。
ここへ来なければならない。
そう思った。
そして。
本当に久世がいた。
(……流れ的に、女神メル、やろなぁ)
浮かんだ名前に。
自分で少し笑ってしまう。
でも。
最近の自分は。
自分でも信用できない。
「さて、みんなの元に、なんて言うて連れ帰ったらええんやろか」
久世を背負ったまま。
私は路地の奥へ歩いていく。
足音だけが。
人気のない道に残った。




