10.洗われる俺
第29~31話
サンディーの表情には、悔しさと悲しさが混じっている。
俺は、慰めるために声をかけようとした。
「にゃあ」
人の言葉がしゃべれなくなっていた。
「やっぱり、夢だったのかなあ。
ねえ、どう思う?」
「にゃあ」
「でも、夢じゃないわ。
ねえ、どう思う?」
「にゃあ」
話せないので答えようがない。
筆談などの方法もあるが、やめておこう。
動物と人間は会話ができないのが、人間界の常識だ。
常識を覆したら、大事件になってしまう。
(あの妖精も厄介なことをしてくれたものだ。
魔法が使えるのなら、サンディーの記憶を操作するぐらいのことをしてくれてもよかったんじゃないか。
小さな子に余計に悩み事を与えてどうするんだ)
俺は、納得のいかない気持ちとメガマウスとの戦いに対する不安を抱えながら、プルサティッラ家の屋敷に帰り着いた。
サンディーは、今日の出来事を家の人には黙っていた。
夢だったのかもしれないと思い始めているようだ。
おとぎ話みたいなことを話して信じてもらえないのも、プライドが許さないのだろう。
昼食後のことだ。
カトリーナが、サンディーに言う。
「あなた、ずいぶん髪や服が汚れてるわね。
よっぽど元気に遊んできたのね。
お風呂に入ったほうがいいのではないかしら」
「平気よ」
サンディーは、そっぽを向く。
「駄目よ、綺麗にしていなくては」
「いいの」
その場を立ち去ろうとする。
サンディーは、風呂が嫌いなのだ。
五日に一度ぐらいしか入らない。
毎日入浴できる環境にあるのにだ。
「ネコも体を洗ったほうがいいかもしれませんわ」
ニーナが、俺の体が汚れていることに気づく。
「あら、ほんと。
そうだわ。
わたしとニーナで、サンディーとネコを一緒にお風呂に入れましょう」
「名案ですわ、お姉様。
ねえ、サンディー。
ネコと一緒なら、よろしいですわよね」
こくん。
サンディーは、渋々うなずく。
俺は、猫に転生してからというもの、一度も風呂に入っていない。
これから、久しぶりに湯につかることができる。
しかも、この家の風呂は、温泉なのだ。
じっくりと疲れを癒やせそうだ。
それなのに、である。
なぜか、全然風呂に入りたい気分にならないのだ!
ニーナが、俺を抱いて浴場へ向かう。
「さあ、お風呂であなたの体を洗ってあげますわ。
きっと気持ちがいいと思いますわ」
風呂場に近づくにつれ、だんだんと恐怖感が募っていく。
猫は、水が嫌いなのだ。
俺の中にある人間の心に反して、猫の心が入浴を拒絶するのだ。
俺は、この家に来て初めて風呂場に入った。
内部の構造は、日本の共同浴場に似ている。
扉を開けると広めの脱衣所があり、もう一つの扉の向こうが浴室だ。
脱衣所に服を入れる籠を置く棚があるのも、日本と同じだ。
「さあ、脱いで」
カトリーナが、サンディーの服を脱がす。
サンディーは、諦めたような表情だ。
黙って両手を左右に広げている。
ニーナは、すでに裸になっていた。
床にいた俺を持ち上げ、浴室に運ぼうとする。
俺は、本能的にニーナの手から逃げてしまった。
濡れることへの抵抗感が、俺を突き動かしたのだ。
たたたたたっ。
「あっ、待ちなさい」
俺は、脱衣所の隅に追い詰められた。
(逃げたってどうにもならないのに、何をやってるんだ、俺は)
「くふふ」
ふてくされていたサンディーが、俺を見て笑った。
「ネコも、あなたと同じみたいよ、サンディー」
「よく一緒に遊んでいるせいで、似てしまったのでしょうか」
カトリーナとニーナも、クスクスと笑う。
服を脱ぐ途中だったサンディーは、自分で残りを全部脱いだ。
俺の情けない姿を目の当たりにしたせいだろう。
自分はそんなに怖がりではないと、姉たちに示したいのだ。
(サンディーも健気だな。
俺だって負けてはいられない。
腹をくくろう)
俺は、自ら浴室のほうへ歩く。
「ネコも、入る気になったみたいですわ」
ニーナが、浴室の厚い木の扉を開ける。
もわっ。
白い湯気の塊が飛び出してくる。
まさに温泉といった感じだ。
浴室内は、明かり取りの窓があるが、やや薄暗い。
五人が同時に楽に入れるほどの広さの浴槽がある。
水道とシャワーは、見当たらない。
カトリーナがサンディーを、ニーナが俺を洗う。
俺は、猫なのに濡れ鼠だ。
じゃぶじゃぶ。
じゃぶじゃぶ。
桶の中の俺は、石鹸で体中が泡まみれになっていた。
体が綺麗になれば気持ちがいいはずだが、猫としては、不快感も強い。
暴れ出してニーナをひっかかないように、理性を強く保つ。
「そんなに震えないで。
石鹸が目に入ってしまいますわ」
余談だが、この世界にも石鹸は存在する。
聞くところによると、三姉妹の父が治めるプルサティッラ辺境伯領には、オリーブによく似た植物を栽培している地域があるとのことだ。
その植物の油が、石鹸などの原料になる。
石鹸は、プルサティッラ辺境伯領の重要な特産の一つなのだ。
泡立ちの良さで定評がある。
もちろん、現代の地球の石鹸ほど上質ではない。
それでも、じゅうぶん衛生に貢献している。
「ネコって、濡れるとずいぶん雰囲気が変わるわね」
カトリーナが、サンディーを洗いながら、俺に目をやる。
「まあ、本当ですわ。
よく見ると、意外と体が細いのですわね」
「今まで、毛のせいで気がつかなかったわ。
道理で、狭いところにも入り込めるわけね」
「ですが、この姿、何というか、ちょっと……くすくす」
「惨めというか、何というか……ふふふ」
また二人に笑われてしまった。
よっぽど情けない姿になっているらしい。
ᓚᘏᗢ
ばしゃっ。
ニーナが、俺に桶でお湯をかける。
全身の石鹸が洗い流される。
「これでさっぱりしましたわよね」
さっぱりしたのか、自分ではよくわからない。
ペットが綺麗になれば、飼い主がさっぱりする。
それでいいのだ。
「あっ、ネコが、今度は小さくなってるー。
小さくもなれるの?」
目をつむって洗ってもらっていたサンディーが叫ぶ。
俺に顔を近づけ、不思議そうに眺める。
「あれえ、どうなってるの?」
「ふさふさの毛が濡れるとこうなってしまうのですわ。
見た目よりも体が細いのですわ」
ニーナが説明する。
「ほんとだ。
細くなってるけど、小さくはない」
「『今度は小さくなってる』とか言っていたけど、どういうこと?」
カトリーナが、疑問を口にする。
サンディーは、答えに詰まる。
どぎまぎして、体をくねらす。
「ええっと……、秘密!」
そう言って、照れくさそうに笑う。
午前中の体験を姉たちには内緒にすることにしたようだ。
話してもわかってもらえないと考えたのだろう。
姉たちは、顔を見合わせて微笑む。
サンディーが変なことを口走るのは、よくあることだからだ。
ざぶんっ。
サンディーが、湯船に飛び込み、泳ぎ始めた。
体を洗うのは嫌いだが、泳ぐのは苦手ではないようだ。
ばしゃばしゃ。
ばしゃばしゃ。
ひとしきり水泳を楽しんだ。
「ネコも一緒に入ろう」
湯船から俺に手を伸ばす。
(入ろうと言われてもなあ。
猫って、そもそも風呂につかっても大丈夫なのか?
溺れたくはないぞ)
俺は、カトリーナとニーナのいるほうへ逃げる。
二人は、自分の体を洗っている。
「ネコったら、よほどお風呂が好きではないようね」
「怖がっているようですわ」
サンディーが、湯船から出る。
俺を捕まえに来る。
「ちゃんと温まらなければいけません」
俺を抱え上げ、一緒にお湯に入る。
「サンディーったら、いつも言われていることをネコに言っているわ」
姉たちは、またくすくすと笑う。
ちゃぷちゃぷ。
ちゃぷちゃぷ。
俺は、犬掻きならぬ猫掻きで、浴槽の中を泳いでいる。
サンディーが、俺を泳がせているのだ。
泳ぐことができたのは、自分でも意外だった。
必死に足を動かし、顔を水面の上に上げる。
足が、湯船の底につかない。
浮いているのが精一杯だ。
浴槽の縁を目指して力泳する。
所詮は猫掻きなので、あまり進まない。
こんな入浴では、疲れを癒やすどころか、余計に疲れる。
ちゃぷちゃぷ。
ちゃぷちゃぷ。
「すごーい。
お姉ちゃま、見て、見て。
泳いでるう」
サンディーは、また俺の能力を発見して喜んでいる。
俺は、喜ばしくはないのだが。
「大丈夫なの?
ネコが溺れないように気をつけなさいよ」
カトリーナが、髪を洗いながら注意する。
(よく言ってくれた、カトリーナ)
サンディーは、ようやく俺を手で支えてくれた。
次に何を俺にやらせようかを考えている顔である。
「また何かをやらせようとしていますわね。
これでは、ネコがリラックスできませんわ」
体と髪の毛を洗い終えたニーナが、サンディーをたしなめた。
湯船に入り、サンディーの横で胸まで湯につかる。
「貸して」
サンディーから俺を受け取る。
膝の上に俺をのせて、溺れないようにしてくれた。
俺は、やっと一息つくことができた。
次第にお湯にも慣れてくる。
猫の本能による水に対する忌避感が薄れてきたらしい。
人間のように、温泉を気持ちよく感じられるようになってきた。
カトリーナも湯船に入る。
三姉妹は、うっとりしたような表情で温泉を堪能している。
昔の日本人なら、「極楽、極楽」などと言いそうだ。
「ねえ、お風呂って気持ちがいいでしょ?」
カトリーナが、俺に問いかける。
「にゃあ」
「ですわよね」
「ねえ、ニーナ。
今、ネコと会話ができていたわ」
「そういえば、そうでしたわね」
「ねえ、サンディー。
今、ネコと……、あらまあ」
サンディーは、眠そうな顔をしている。
今にも湯船の中で寝てしまいそうだ。
「こんなところで寝ては駄目よ」
カトリーナが、サンディーの体を揺する。
サンディーは、ビクッとなって、ぱっと目を開く。
「ね、寝てないわよ」
姉二人の笑い声が、浴室内に反響する。
サンディーは、恥ずかしそうだ。
また湯船の中を泳ぎだした。
俺は、温泉の心地よさ以上の幸福感を味わっていた。
今の俺には、素晴らしい家族がいる。
気楽な生活がある。
同時に不安もある。
妖精のシルヴァが語った鼠のことだ。
(その時が来たら、俺は、俺のできることをしよう。
どうせ、それまでは、俺にできることなんてないんだし。
せいぜいこの生活を満喫しよう)
そう心に決めたら、なんだか俺も眠くなってきた。
「ネコまで眠たそうな顔をしていますわ」
「午前中に遊び疲れたのかしら」
「こんなところで寝ては駄目よ」
サンディーに叱られてしまった。
(それって、さっき自分が言われた言葉じゃないか)
ᓚᘏᗢ
風呂を出た俺は、脱衣所でニーナにタオルで体を拭いてもらう。
サンディーは、カトリーナに拭いてもらっている。
「ネコを毎日お風呂に入れたほうがよいかしら?」
カトリーナが、ニーナに話しかける。
「そうねえ。
犬などを飼っている家では、毎日入浴させているのでしょうか?」
「犬を毎日入浴させるなんて、聞いたことがないわ」
「でしたら、我が家でも、汚れた時だけでよいかもしれませんわね」
「それもそうね」
猫としては、毎日の入浴はきつい。
でも、たまになら、温泉気分を味わいたい。
カトリーナとニーナの判断は嬉しい。
ニーナが、俺をタオルにくるんで居間に運んできた。
俺の体は、まだ完全に乾いていない。
「これでネコを扇いであげましょう。
早く乾くかもしれないわ」
カトリーナがどこからか持ち出してきたのは、二本の団扇だった。
竹と紙で作られた、日本的な形の団扇だ。
カトリーナとニーナが、左右から優しく扇いで、俺に風を送る。
ぱたぱた。
ぱたぱた。
団扇をよく見ると、紙の部分に浮世絵が描かれている。
一つは美人画で、もう一つは花の絵だ。
明らかに江戸時代の日本のものだ。
この世界にも日本が存在するのだろうか。
ぱたぱた。
ぱたぱた。
風が心地よい。
俺は、だんだん眠くなってきた。
和風の団扇への興味よりも、睡魔が勝ってしまった。
すやすや。
すやすや。
かなり長時間眠った。
和風の団扇のことは、すっかり忘れてしまっていた。
また数日の間は、平穏な日々が続いた。
そんなある日のことだ。
朝、目を覚ますと、家の中が慌ただしかった。
昼ぐらいにプルサティッラ邸に客が来るのだ。
少し前までは、来客などほとんどない家だった。
ここ最近、増えている。
俺の噂が国中に広まり、俺を一目拝みたいという人が多くなったからだ。
この日の客も、俺が目的だった。
「ああ、忙しいわ」
カトリーナは、忙しがってはいるが、表情は明るい。
朝からウキウキとした様子だった。
母の指示のもと、メイドたちと一緒に賓客を迎える準備にいそしんでいる。
客に出す料理の味見。
食器の選別。
テーブルなど、家具の配置の確認。
目立たない場所の掃除。
「早くいらっしゃらないかしら、お客様」
以前は、よその人と会う機会が少なかった。
訪問者の多いのが嬉しくて仕方ないのだ。
普通の貴族令嬢ならする必要のない雑用までこなしている。
ニーナも、仕事の手伝いはしている。
あまり来客が楽しみといった感じではない。
客の相手をすることが増え、好きな読書の時間が減ったからだ。
ニーナは、姉ほど社交的ではない。
知らない他人と接するのは、気疲れするらしい。
サンディーは、もっと機嫌が悪い。
手伝いすらせず、庭をぶらぶらしてる。
外に遊びに行けないことが不満なのだ。
俺はというと、もうだいぶ客のあしらいにも慣れてきた。
何もしなくても、ただそこにいるだけで可愛がってもらえる。
気楽なものだ。
モフられまくるのは、鬱陶しく感じることもある。
そこは、仕事だと思って我慢している。
さて、正午近くになった。
お待ちかねの客が乗る馬車が、プルサティッラ家に到着した。
御者が馬車の戸を開ける。
はじめに馬車から降りてきたのは、メルヴァル伯爵夫人。
次に、その娘、ジョセフィーヌ・メルヴァル。
気品にあふれる美人親子だ。
ジョセフィーヌの年齢は、十八歳ぐらい。
ウエーブのかかったプラチナブロンドの髪が、きらきらと輝いている。
他に、付き添いのメイドが二人いる。
メルヴァル伯爵家は、プルサティッラ家と同じぐらいの家格らしい。
遠くの地方の領主だ。
家同士で頻繁に交流があるわけではない。
「ようこそおいでくださいました」
「こちらこそ、私たちの訪問を快諾していただき、感謝に堪えませんわ」
両家の夫人同士が、型どおりの挨拶をする。
ジョセフィーヌとカトリーナたち三姉妹も、笑顔で挨拶を交わす。
来客を快く思っていなかったサンディーも、淑女らしく振る舞っている。
平素とのギャップが激しい。
さすが貴族の生まれと言うべきか。
普段よりも高級な服を着ているので、その効果かもしれない。
ちなみに、両家の夫は、この場にはいない。
政務が忙しいからだ。
昼食の時間だったので、食事をしながら俺を紹介することになった。
俺は、町に行った際に使ったバスケットに入れられた。
食堂の手前の廊下で、メイドのリータたちとともに待機する。
「さあ、ご覧ください。
これが、噂のネコです」
室内からカトリーナの声がする。
「はーい」
リータとペギーが返事をする。
二人で、俺の入ったバスケットを持って食堂に入る。
今回は、バスケットに布は被されていない。
俺は、気を利かせて、バスケットの中でうずくまる。
リータたちがバスケットを台の上に置く。
それに合わせて、俺は顔を上げる。
「にゃー」
「まあ」
「なんて可愛らしいのかしら」
メルヴァル家の母と娘の感嘆の声が食堂に響く。
俺は、客のこういう反応にはもう慣れている。
いつも通り、客の前で歩いて見せたりする。
しかし、この日は、何となく普通と違う感じがした。
その感じが何かは、まだわからない。
動物的勘である。
俺は、食卓の上を食器をよけながら歩く。
行儀はよくないが、特別な生物なので許されている。
「あの、触っても平気かしら」
ジョセフィーヌが、カトリーナに尋ねる。
「どうぞ」
「それでは……」
テーブルの上の俺に、そっと手を伸ばす。
俺を向けられる眼差しが、若干きついような気がした。
単に可愛い動物を見つめる目ではない。
(以前も、俺を盗もうとした女がいたっけな。
まさか、この人もなのか?)
結果を言うと、俺の勘は正しかった。
ジョセフィーヌは、俺を盗もうとしていたのだ。
しかも、今回の窃盗は、ただの事件ではない。
もっととんでもないことが起きるのである。




