第7話 手、冷たすぎ
「鰐が出るよ。今の季節は、特に」
渡し守の爺さんが竿の先で川を指した。
8日目。箱のことは誰にも言っていない。
大河ネイは向こう岸が霞んで見えない。
岸に繋いであるのは、平底の渡し舟が1艘きり。
6人と馬1頭と荷を全部載せたら、喫水はもう指1本ぶんも残らない。
積み方を間違えたら、傾く。
「鰐って、どんくらいの奴だよ、爺さん」
トビが舟べりに片足をかけた。
「この舟より長いのがいる。去年は、向こう岸で牛を引きずってった」
「牛って。食いでありすぎだろ」
「笑いごとじゃないよ、兄さん。鰐が肥える季節なんだ」
「荷物持ち。積め」
勇者の声だった。
「あ、はい」
ハルムを出てから、俺は「あ、はい」しか言ってない気がする。
額のかさぶたがつっぱる。
俺が引くと馬が目をむく。
ガルドが手綱を引いて栗毛の荷馬を板に乗せる。
「おら、乗れ乗れ。揺れねえよ、たぶんな」
「ガルドさん。馬は真ん中で。そこで止めといてください」
「おう?」
「油壺は低く、舟底に寝かせて。重いのは、舟の真ん中の線に」
「お、おう」
ガルドが言われたとおりに麦の袋を並べる。
舟がまっすぐ水に沈んだ。
傾きがない。
爺さんが竿をついたまま、しばらく舟を眺めた。
「あんた、舟荷を積んだことあるね」
「荷揚げ場で2年やってたんで」
「素人はね、重いもんを舟べりに寄せるんだよ。それで、ひっくり返る」
「いや、俺なんかは」
そこまで言って、やめた。
背負子の肩紐を握り直す。
黒い箱の角が背中に当たった。
「なあ、お前」
トビが隣にどかっと座った。
「ちょっとこれ見てろって」
トビの指の間に、銅貨が1枚挟まっている。
人差し指から中指へ。中指から薬指へ。
くるっと回って、消えた。
リタなら、すごいって3回は言った。
「……どこ行ったんすか」
「お前の背負子の中だぜ」
「は?」
背負子の横の袋に手を突っ込む。
指先に冷たくて丸いものが当たった。
「……入ってる」
「だろ?酒場でやりゃ、これで客に1杯おごってもらえるんだぜ」
「子どもだましでしょ、そんなの」
エルマが帽子の下から言った。
「その子どもだましに口開けて見てたの、誰だよ」
「見てない」
「見てた見てた。ススまで見てたぜ」
エルマの膝の上で黒猫がしっぽを1回振った。
俺は銅貨をトビの手のひらに戻した。
「これ、トビさんのっす」
「律儀だなあ、お前」
笑ってる。
でも、目が俺の顔を何回も確かめてる。
爺さんが竿で岸を押した。
舟がずるりと岸を離れる。
泥と、藻と、何かが腐った匂い。
川の真ん中あたりで爺さんの竿が止まった。
「……出たよ」
茶色い水面に、黒い背中が浮かんでいた。
◇
黒い背中がすうっと沈んだ。
どん、と舟底が突き上げられた。
舟が右へ傾く。
荷馬が嘶いて蹄で舟底を蹴った。
油壺がごろりと転がりかける。
俺は飛びついて両腕で抱きとめた。
寝かせといて、よかった。立ててたら、割れてた。
水面が割れた。
鰐だ。
舟より長い。
黒鉄色の鱗が濡れて鈍く光る。
上と下の顎の縁だけが鉄の色だ。
「鉄顎鰐だよ……!」
爺さんの声が裏返った。
「どけ、坊主!」
ガルドが大剣を振りかぶって、舟べりから身を乗り出した。
刃が鰐の顎に叩きつけられる。
がぎん、と耳の奥が痺れる音。
火花が散った。
大剣が上に跳ね返された。
「硬ぇ!」
「どいて!」
エルマが舟の真ん中で立ち上がった。
「《火球》!」
赤い玉が水面に落ちた。
ぼん、と爆ぜる。
湯気が舟の上まで噴き上がった。
湯気が晴れたとき、鰐はもう水の下だった。
「うそ……効かないの?」
「舟べりから離れてください!真ん中に!」
セレナが荷馬の手綱にしがみつきながら叫ぶ。
2度目は左からだった。
舟が跳ねた。
立ってたエルマの足が舟底から浮いた。
とんがり帽子ごと、エルマの体が舟べりの外へ投げ出される。
水音。
茶色い水に、黒いローブが広がって、沈んだ。
「エルマ!」
ススが舟べりに爪を立てて鳴き叫んだ。
考えるより先に、手が動いた。
背負子を下ろす。
黒い箱ごと舟底の真ん中に押しこんだ。
荷の束から予備の荷縄を1本引き抜く。
端を艫の杭に回して結ぶ。
引けば締まる結び。
もう片方は自分の腰に2重に巻いて締めた。
「ガルドさん、これ!持っててください!」
縄の途中をガルドの手に押しつける。
「坊主、お前、何を――」
「俺、泳げないっす!」
叫んだまま、舟べりを蹴った。
水が、重い。
全身に濡れた麦の袋をいっぺんに積まれたみたいだ。
口に泥の味が入ってくる。
足、つかねえ。
腰の縄だけが上に引っぱってくる。
茶色の中に、黒いものが揺れた。
布。
ローブの袖だ。
指が布をつかんだ。
袖の中に、細い腕があった。
握った。
水の中でもがく指が、俺の手首に爪を立てる。
生きてる。
黒い塊が、こっちへ来る。
顎の縁の鉄の色だけがぼんやり光った。
上と下に歯が並んでる。
無理。無理だって、これ。
逃げるには腕を離さないといけない。
荷は、命より先に離すな。
バズ親方に5年叩き込まれた。
指3本で40貫の俵を吊って運んだこともある。
あのときも、指は開かなかった。
握り直した。
腕が俺の指の形にへこむくらい。
腰の縄がぐんと引かれた。
頭が空気の中に出た。
げほっ、と水を吐く。
目の前に鰐の顎があった。
その背中の上に黒い外套がいた。
勇者だ。
いつ、舟から跳んだのか。
見えなかった。
勇者は聖剣を逆手に握って、開いた顎の内側へ突き込んだ。
上顎の、鉄じゃない、桃色の柔らかい肉。
そこへ刃が根元まで沈んだ。
鰐の体が跳ねた。
「坊主、離すなよ!」
ガルドの声。
縄がもう一度ぐんと引かれた。
太い手が、俺の襟首をつかんだ。
トビの細い手が、エルマの肩をつかんだ。
2人まとめて舟底に転がされる。
舟べりの向こうで勇者が聖剣を引き抜いた。
次に見たときには、勇者はもう舳先にいた。
血の泡がぶくぶく水面に上がってくる。
泥の匂いに、鉄の匂いが混じる。
鰐は口を開けたまま横に転がって、腹を見せて沈んでいった。
あの顎、持って帰れたらミナの薬、何か月分だよ。……沈んだけど。
爺さんは艫で尻もちをついた。
竿を膝に抱えたまま、口が開いている。
俺の指は、まだエルマの腕に巻きついたままだった。
開かねえ。指、開かねえよ。
◇
昼。大河ネイの、向こう岸。
舟から降りた砂利の上にエルマが四つん這いになった。
げほ、げほっ、と水を吐く。
俺も隣で膝をついたまま水を吐いた。
「あんたの積み方でなきゃ、2度目で全員、川の底だったよ」
舫いを結ぶ爺さんの手は、まだ震えている。
エルマが自分の右腕を見た。
ローブの袖をめくる。
細い腕に赤い跡がくっきり残っていた。
指の形が4本と1本。
俺の手だ。
「……手、冷たすぎ。死人みたい」
え。
俺は自分の手を見た。
砂利の上で指が白くふやけている。
「川ん中にいたんだ、当たり前だろうが」
ガルドが俺とエルマの間にどさっと腰を下ろした。
エルマの紫の目が俺の顔から下へ降りた。
俺の靴。
「……靴。泥、落ちたんだ」
「あの……すんません。跡、残っちゃって。痛かったっすよね」
返事はない。
川の水が砂利を洗う音だけがする。
少しして、エルマがそっぽを向いた。
「……ありがと」
小さい。
「聞いた?今の聞いた!?エルマがお礼言った!」
トビが砂利を蹴って立ち上がった。
「言ってない」
「言った言った。オレの耳は、夜の足音1つ聞き逃さねえんだぜ」
「言ってないって言ってるでしょ。耳、腐ってんじゃないの」
セレナが声を出して笑った。
「……誰も、欠けませんでしたね」
セレナは1人ずつ顔を見た。
「お、流れてきた流れてきた」
トビが爺さんの竿を借りて浅瀬に突き出した。
とんがり帽子がくるくる回りながら岸に寄ってくる。
竿の先に引っかけて、持ち上げる。
「ほらよ。魚入ってねえか、確かめとけよ」
「入ってたら、あんたの口に突っ込んであげる」
エルマが帽子をひったくった。
頭の上にでかい手が乗った。
左手の指輪ごと、ぐしゃぐしゃ。
「泳げねえのに飛び込むバカがあるか、がはは!」
「いや、あの、縄、結んでたんで。引けば締まるやつで。だから、その、俺が沈んでも、ガルドさんが引っぱってくれるかなって」
「人を当てにして飛び込んだのか、お前は」
「……すんません」
「褒めてんだよ、バカ」
「結び目、見たぜ。ありゃ盗賊ギルドでも教えねえやつだ」
トビが竿を担いで笑った。
少し離れた岩の上で勇者が聖剣を拭いている。
薄青の目が一度だけこっちを見た。
それだけだった。
俺は自分の手を握って、開いた。
まだ指の付け根が痛い。
俺、今、役に立ったよな。
立ったよな。たぶん。
「行くぞ」
ガルドが荷馬の手綱を取って、歩き出す。
俺も背負子を担いだ。
黒い箱は濡れてない。
後ろでぐちゅっと濡れた布の音がした。
振り向くと、エルマが濡れた帽子をかぶり直したところだった。
エルマはそのまま俺の後ろを歩き出した。
1歩。2歩。3歩。
3歩後ろ。
前は、10歩後ろだった。
……7歩も近いじゃん。
◇
向こう岸から先は湿地で、膝まで沈む泥の中をガルドの荷馬について2日歩いた。
干し肉を配った。
ススはまだ俺に近づかない。
10日目の昼、休んだ倒木の上でエルマが靴を脱いだ。
靴下が泥でまっ黒だ。
俺は荷の中から乾いた靴下を1足出した。
「エルマ。これ、乾いてるやつ」
エルマがひったくった。
「……どうも」
それきり、こっちを見ない。
靴下はちゃんと履いた。
しばらくして、エルマが顔を上げた。
「荷物持ち。次、どこで休むの」
……今、普通に聞かれた。
「あ、はい。勇者さまに聞いてきます」
10日目の夕方。
空から白いものが降ってきた。
ひとつ。ふたつ。
初雪だ。
もう、そんな季節か。
手のひらを上に向けて受けた。
溶けない。
冷たくない。
指でこすると灰色に伸びた。
「……雪じゃ、ないんすね」
ミナに、雪の話、持って帰れると思ったのに。
灰が降っていた。
トビが、前の方の黒い木々を指さした。
「あそこから先が、魔王領だぜ」




