第31話 鏡の中の、知らない顔
34日目。
たぶん。
窓のない場所では、日にちは荷札の数でしか分からない。
壁に背を預けた。石が冷たい。背負子の肩紐の跡が皮膚の下でまだうずく。目を閉じて、頭の中に棚を並べた。荷役の癖だ。積み残しがないか、目録を引く。
名前、ノア。17歳。荷役ギルド、5年。妹、ミナ。
……妹、ミナ。何歳。
そこで止まった。棚が壊れたみたいに、目録の端が白くなる。9歳か、12歳か、8歳か。勇者さまが言った数字と、城の回廊の声と、焚き火の夜の俺の声が、順番に浮かんでぶつかる。どれも俺の口から出たはずの言葉だ。どれも本当のことを言っている気がして、どれも嘘に聞こえる。
落ち着かない。
俺は背負子から荷を全部出した。石の床に並べる。
干し肉の包み。水袋。縄。白墨。トビの短剣2本。エルマの手帳。空っぽの黒い箱。
一つずつ指で触って数えた。硬さと重さで名前を呼ぶ。慣れた作業のはずだ。毎朝、倉庫でやっていた。米俵の数。荷車の数。藁の束の数。数字は嘘をつかない。
干し肉の包みを開いた。
中身を見て、手が止まった。
……多い。
出発の日、王都で仕入れた数から、ほとんど減っていない。途中で分けたはずだ。ガルドさんに、トビさんに、エルマに。セレナさんにも半分やった夜があった。俺は自分の分を人に渡して、何も食べていない日もあった。少なくなっているはずだ。でも減っていない。
口の中が、また空っぽになった。
喉の奥がひりつく。
袋の口を縛った。きつく。結び目を爪で食い込ませた。
数えるのをやめた。
荷を背負子に戻して、立ち上がる。
眠らなかった。眠れなかった。壁に寄りかかって目を閉じれば、祭壇の赤が瞼の裏に焼き付いていた。布の包み。手つかずのパン。血に濡れた銀糸。閉じるたびにそこに戻ってしまう。
だから歩いた。螺旋階段を下りて、底の闇から続く通路を、ただ前へ。
疲れない。5年間、荷を運んだからだ。そう思った。脚は軽い。呼吸も乱れない。背負子の重みだけが、俺がここにいる唯一の証拠みたいに背骨を叩く。
歩いた。どれくらいか分からない。窓がない。空がない。日にちは荷札の数でしか分からない。
通路の先が、ぼんやりと明るくなった。橙色じゃない。松明の揺れる火でもない。銀色だ。水底の砂みたいな、冷たい光。
足が止まった。胸の奥がきしんだ。
両側の壁が、光っていた。
鏡だ。
壁一面が鏡だった。古い銀の鏡だ。灰をかぶって曇っている。鏡の面に白い灰が薄く張り付いて、何も映さない。ただ銀色の濁った光が闇を照らしていた。
背負子の黒い箱がこつんと鳴った。
廊下は狭い。両側の壁に鏡が嵌め込まれている。等間隔に。一直線に奥へ続いている。
1枚目。背負子の横から手を伸ばした。袖で鏡の面を拭いた。灰が落ちる。銀の面が曇りから覚める。
映っていた。
俺じゃなかった。
くせの強い金髪にバンダナ。緑の目。
トビさんだ。
鏡の中のトビさんが、口の端を上げた。いつもの調子だ。にやりと。軽い笑い方だ。「つま先で撫でろ」って、そうやって笑ってた。声は出ない。唇が動くだけだ。
拭いた跡が鏡の面に残っている。灰が筋を作っている。その向こうでトビさんが笑ってる。
次の鏡を拭いた。袖を当てた。
映っていた。
赤茶の短髪。無精ひげ。熊みたいな肩幅。ガルドさんだ。左手の薬指に細い指輪。あの指輪だ。
鏡の中のガルドさんは笑ってなかった。ただ立ってた。こっちを見てた。声は出ない。「坊主遅えぞ」とも言わなかった。
喉の奥が痛くなった。
次。袖を当てた。灰が剥がれる。
黒い髪に赤い髪留め。紫の目。大きすぎるとんがり帽子。
エルマだ。
むすっとしてる。いつもの顔だ。眉を寄せてこっちを睨んでる。「は?」って言いそうな顔だ。でも声は出ない。唇が動かない。
手が震えた。袖の布が鏡の面を擦る音がした。乾いた音だ。
次の鏡。
拭いた。銀の面が、曇りから覚める。
映っていた。
銀糸の髪。琥珀色の目。白い法衣に青い刺繍。
セレナさんだ。
鏡の中のセレナさんが、こっちを見ていた。琥珀色の目が銀の光の中で揺れてる。微笑んでない。泣いてもない。ただ見てる。
俺は手を伸ばした。指先が銀の面に届く直前で。
鏡の中のセレナさんが、同じ側の手を伸ばした。
次の鏡を拭いた。
袖を当てた。灰が剥がれる。
映っていた。
赤毛のおかっぱ。
はしばみ色の目。鼻の上にそばかす。
大きすぎる前掛け。首に木彫りの小鳥。赤い布靴。
……リタだ。
膝が抜けた。
石の床に、どさりと落ちる。
背負子の黒い箱がこつんと鳴った。
「なんで」
声が出た。掠れてた。
「なんで、リタまで」
鏡の中のリタがこっちを見てた。
はしばみ色の目が、銀の光の中で揺れてる。
「リタは、俺、関係ないだろ」
声が震えてた。
リタはハルムの村の子だ。10歳だ。お兄ちゃんって呼んでた。
でもリタは、いなくなった。6日目の夜に。
朝、俺の靴は泥だらけだった。
……リタはいなくなった。俺の知らないところで。俺が関係ないところで。
でも、鏡の中にいる。
喉の奥が痛い。目が熱い。
拭った跡の灰が、鏡の面に筋を作ってる。
その向こうで、リタが立ってる。動かない。笑ってない。ただ見てる。
息が浅い。肩が上下してる。
……次。
最後の鏡だ。
廊下の一番奥。壁の端。そこに、1枚だけ、鏡が嵌まっていた。
袖を当てた。灰が剥がれる。
銀の面が、曇りから覚める。
映っていた。
茶髪。後ろで1つに結んでる。
灰色の目。そばかす。
継ぎの当たった革の背負子。青い腕章。
同じだ。俺のと、同じだ。
でも、顔が違う。
……誰だ。
俺は自分の顔を知らない。荷役は鏡を見ない。倉庫に鏡はない。宿の部屋にもない。朝、水で顔を洗う。それだけだ。5年間、自分の顔をちゃんと見たことがない。
だから分からない。これが俺なのか。
少年が泣いてた。
灰色の目が潤んでる。涙が頬を伝ってる。
唇が動いた。声は出ない。
何かを言ってる。何度か、同じ形に唇が動く。
聞こえない。でも見てると、喉の奥が引きつれた。
「誰だよ、お前」
声が出た。掠れて、ひどく小さかった。
その瞬間だった。
全部の鏡が、動いた。
トビさんの鏡。ガルドさんの鏡。エルマの鏡。セレナさんの鏡。リタの鏡。
全部が、一斉に、変わった。
銀の面が、波のように、奥から手前へと覚める。灰が剥がれる。
全部の鏡に、同じ顔が映った。
灰色の目。茶髪を後ろで1つに結んだ。そばかす。継ぎの背負子。青い腕章。
俺の顔だ。
全部の鏡が、俺を映してる。奥へ奥へと続く銀の面に、俺が並んでる。何枚も、何十枚も。同じ顔が闇の奥へ反射して、無限に並んでる。
目が、そらせない。
手が動かない。足が動かない。
鏡の中の俺が、こっちを見てる。
全部が、見てる。
回廊の銀が、俺の顔を映していた。
胃が、せり上がった。腹の中のものを全部、床にぶちまけた。何も食べていないはずの腹から、灰色のどろりとしたものが出てきた。酸の匂いがして、それから鉄の匂いがした。どろりとしたものの中に、銀色の糸が絡まっていた。長い。細い。束になっている。濡れて、俺の吐いたものに張りついている。
指が、動いた。つまんだ。銀糸が指に絡む。冷たい。髪だった。人の髪だ。セレナさんの髪と同じ色で、同じ長さで同じ細さだった。
「なんで、俺の中に」
声が震えた。指が離れない。髪を握ったまま、手が震えている。首のロザリオが焼けるように熱い。木の珠が、皮膚の下まで熱を送り込んでくる。
「違う」
声が出た。
「違うって」
もう一度言った。それ以上の言葉が出てこなかった。違う、何が違うのか。俺は何もしていない。していないはずだ。でも、髪は俺の中にあった。俺の腹の中から出てきた。
髪を握ったまま床にうずくまった。背負子が背中で傾いだ。黒い箱がこつんと鳴った。膝が石に当たって、痛みが遠くからやってきた。焼けた手のひらが、銀糸を握りしめている。離せない。離したら、何かが確定してしまう気がした。
そのとき闇の奥から、乾いた音がした。
拍手だった。3回。乾いた骨と骨を打ち合わせるみたいな音だった。反響が銀の鏡の間を這って、俺の背中に触れた。
顔を上げた。
灰の中から、男が歩いてきた。痩せていた。背が高くて、肩が薄くて服が骨の上に垂れているみたいだった。灰をかぶった外套。青い腕章。荷役ギルドの腕章だった。色が褪せていた。継ぎが当たっていた。俺のと同じだった。
男は穏やかに笑っていた。薄い唇が、静かに弧を描いていた。目の奥が、灰色の光を溜めていた。歩いてくる足音がしなかった。灰を踏んでいるのに、音がしなかった。
「やあ、同族」




