第30話 18回目
「答えろ」
「最後に何を食べた」
もう一度、同じ声だった。
「昨日の夜、セレナさんのパンを……」
口が動いた。勝手に。
焼けた手が痛い。それでも言葉は喉からこぼれた。
勇者さまが祭壇の縁を見た。
血の縁に触れていた布の包み。
セレナさんが膝の上に置いて掌で押さえていた、あの包みだ。
ゆっくりと拾い上げた。血に濡れた端を指でつまむ。
俺の目の前で、開いた。
布の中に、パンが2つあった。
半分に割れた、硬いパン。
割れ目も欠けも、そのまま。
端に血が滲んでいる以外、手つかずだった。歯型も、指の跡もない。
「セレナのパンだ。誰も食べていない」
勇者さまの声は、変わらなかった。
「じゃあその前。一昨日の、スープ」
口が動いた。頭で考える前に、声が出ていた。
「スープの味を言え」
「えっと、塩っ辛くて、芋がごろごろ入ってたやつっす。覚えてるんで」
勇者さまは、一拍だけ目を細めた。それだけだった。感情の色は何も動かない。
「一昨日は、火を焚いていない」
声は低く、平らだった。
それだけだった。
俺の喉から、次の言葉が出てこなかった。
勇者さまの視線が下がった。
俺の胸元。
懐に入れたエルマの手帳の角だ。
「エルマが数えていたのは、俺だと思ったか」
声は変わらなかった。低くて、平らで、感情がない。
「あんたは食べない」
口が勝手に動いた。
焼けた手が痛い。それでも、言葉はこぼれた。
「いつも1人で……」
勇者さまは何も言わなかった。
代わりに、腰の革袋に手を入れた。
干し肉だ。
指先で掴んで、口へ運ぶ。
噛んだ。
音がした。
乾いた繊維が裂ける音。
飲み込む喉仏が動いた。
勇者さまが物を食うところを、目の前で見たのは初めてだった。
勇者さまが、同じ干し肉をもう1つ掴んだ。
俺の目の前へ差し出す。
「食え」
それだけだった。
俺は受け取った。
焼けた手のひらに、乾いた肉の感触が乗る。
口元へ運んだ。
匂いが来た。
塩と脂と、獣の匂い。
歯の先に肉が触れる。
止まった。
「……腹、減ってないんで」
声が掠れてた。
口から、肉が離れた。
「17回だ。エルマが数えた」
低かった。
間があった。
「今ので、18回」
手から干し肉が落ちた。石の床に、からりと乾いた音がした。焼けた手のひらが痛い。でも痛いのが遠い。
「違う、違うって、たまたま減ってなかっただけっす。後で食うつもりだったんで。ほんとに。腹減ってないだけで、いや減ってないっていうか、今はまだ……」
言葉があふれた。勝手に。止まらない。声が震えてる。
勇者さまは何も言わなかった。薄青の目が、床に落ちた干し肉を見ている。
口が動いた。
「あいつは食べない、って……」
声が止まった。エルマの字が頭の中で浮いた。
『あいつは食べない。数えた。17回』
あいつは、勇者さまのことだ。そう思ってた。
「……あんたのことじゃ……」
言いかけて、黙った。
「妹の名前は」
低かった。
「ミナ。……ミア?」
舌がもつれた。
「ミナです。ミナ」
声が裏返った。
「何歳だ」
「8、いや10、9……12。12っす」
口が勝手に動いて、数字が跳ねた。
「8歳だ」
勇者さまが言った。
否定だった。
「なんで、あんたが」
喉から声が出た。
勇者さまは答えなかった。代わりに続けた。
「お前を指名した日。ギルドの奥の小部屋で俺はお前に全部話した」
全部。
全部って何だ。
「お前が言った。8つだと」
勇者さまの薄青の目が俺を見ていた。何も探っていない。ただ事実を置いていくだけの目だ。
「何を話したか覚えているか」
俺は口を開いた。
覚えている。
ギルドの奥の小部屋。荷役ギルドの奥。帳簿棚の陰の、窓のない部屋。勇者さまが立っていた。聖剣を腰に差して。それを覚えている。
その後のことを思い出そうとした。
頭の中が、白い。
帳簿棚の匂いも、石の床の冷たさも、ミナと別れた朝のことも、全部覚えている。指名されたことも。背負子の紐を締め直したあの手の感触も。
でも小部屋の中の会話だけが、ない。
何を言われて、何を答えたのか。
ミナが8つだと、俺が言った。
言ったのか。
言ってない。
分からない。
頭の中を白い霧が覆ってる。霧の向こうで声がした気がする。俺の声だ。でも、聞こえない。
「……覚えて、ないっす」
声が掠れてた。
勇者さまは、それ以上何も言わなかった。
「あの夜、野営地で箱から出たのは何だった」
「出たって、何が。聖遺物っすよね。開けてないっす、俺、開けるなって言われたから」
声が震えた。焼けた手のひらが痛い。それでも言った。
勇者さまは答えなかった。ただ俺を見ていた。薄青の目が、俺の顔と首のロザリオと焼けた手を、順番に見ている。
……ミナ。
茶色のおさげが、浮かんだ。細い髪。肩より少し長い。編み目が甘い。
でも、顔が浮かばない。
目が、ない。鼻も、口も。おさげはあるのに、首から上が白い霧になってる。
咳も、聞こえない。夜中に布団の横で聞いた、あの乾いた音が、思い出せない。
代わりに、城の回廊の声が来る。
「お兄ちゃん、ミナね、12歳になったよ」
闇の奥から響いた、あの声だ。ミナの声のはずなのに、どこか別のところから聞こえた声だ。
拳で自分の頭を叩いた。
ずきんと響いた。焼けた手が、また痛くなる。
「出てこいよ、ミナ」
声が出た。掠れて、ひどく小さかった。
叩いた。もう一度。拳が額に当たるたびに、視界が揺れた。
茶色のおさげが揺れる。
でも顔は、やっぱり浮かばない。
拳が止まった。血がにじんでる。額が熱い。
勇者さまを見た。
「嘘だ」
声が出た。
「あんたが、俺に何かしたんだ」
◇
大剣を背負子に差した。担いだ。肩紐が食い込む。焼けた手のひらがじくじくと痛む。革が傷口に張り付いてる。
振り返らずに、礼拝堂を飛び出した。
背中に気配がない。追ってこない。足音もしない。
「行け」
声が届いた。低い。平坦な。
「どうせ、奥でしか終われない」
理由は、言わない。いつものことだ。
俺は走った。回廊の暗がりを、灰の匂いの中を。背負子の黒い箱がこつんこつんと背骨を叩く。大剣の柄が揺れる。全部、死人の荷物だ。
階段があった。下りだ。石が削り出された螺旋階段だ。幅は荷車1台分ない。右側に壁、左が闇。底が見えない。
駆け降りた。
靴の裏が石を弾く。1段、2段、3段。足裏が石の縁を捉える。トビさんの足運びだ。体が勝手にやってる。つま先で撫でろ、って。あの声が聞こえた気がした。
ガルドさんの声が来た。
「冷てぇ手だな、坊主。ちゃんと食え」
宿で握手した、あの時の手だ。分厚い掌。豆だらけの指。俺の手を握って、眉を寄せた。
次にエルマの声が来た。
「手、冷たすぎ。死人みたい」
川の縁で、細い腕を掴んだ。俺の手が冷たかった。エルマが顔をしかめた。あの時の、紫の目。
セレナさんの声が来た。
「ずっと冷たかった」
蝋燭の橙の中で。俺の手を包んだ、あの指だ。白い指だった。細くて、ひやりとしていた。
全部、同じことを言ってた。
俺の手は冷たい。
ずっと、冷たかった。
今も、焼けた手のひらが痛いのに、指先は冷たい。叩いても、握っても、温かくならない。
息が切れない。
走ってる。階段を駆け降りてる。荷物を背負って、大剣を担いで。
息が、切れない。
……荷役だからだ。5年間荷を運んだ。階段を駆け上がった。荷車を引いた。米俵を担いだ。
だから、息が切れないだけだ。
そう思った。
そう思いながら、1段を踏み外した。
着地した。石が平坦だ。階段が、終わった。
闇だった。
足を止めた。
寒くなかった。
手のひらの火傷は痛いのに、指先だけが冷たい。
ずっと、冷たかった。
口の中が空っぽだった。舌が乾いている。喉の奥が、薄くひっかかる。
「……お腹が、すいた」




