第29話 聖女の祈りで、俺の手が焼けた
祭壇が、赤かった。
床の大剣を背負子に差し、担いで控えの間を飛び出して隣の崩れた小礼拝堂に踏み込んだ瞬間、足が止まった。
壁の半分が崩れて、白い空が見えている。灰が薄く積もった石の床。その真ん中に、祭壇があった。黒い石の祭壇だ。
その上が、赤かった。
血だ。
石の上に、桶をひっくり返したみたいに広がっている。祭壇の縁から垂れて、床にまで落ちている。床にも水たまりができている。靴の先が、その縁に触れるか触れないかのところで止まっていた。
鼻の奥に、鉄の匂いが刺さった。甘ったるい、生ぬるい匂いだ。荷役ギルドで死体を運んだときに嗅いだ匂いと同じだ。
祭壇の上に、白い布が落ちていた。
青い刺繍のある、白い法衣の切れ端だ。
セレナさんの法衣だ。
胸元に入るはずの青い刺繍。糸がほつれて、血を吸って、布が石に張り付いている。
その横に、銀色の糸が数本、血の上に貼りついていた。
長い。
細い。
銀糸の髪だ。
俺は一歩、踏み出した。
足音がしなかった。
トビさんの足運びが勝手に出ていた。つま先で床を撫でるように、体重を殺して、音を立てずに近づく。体が俺の意思より先に動いている。
祭壇の前で止まった。
血の量を、測っていた。
無意識に。
荷役の癖だ。
桶で何杯分か。水たまりの広がり具合、布の吸い方、石の色の変わり方。そういうので測ってしまう。
人1人分の、半分より多い。
頭の中で、そう結論が出た。
死体を運んだことがあるから分かる。人が流す血は、思ったより多い。でも全部抜けたら、これくらいにはなる。
「ちがう」
声が出た。
「ちがう、ちがうだろ」
喉が震えた。
違うだろ。これは、セレナさんじゃない。血の量で人を測るな。俺は、また、荷物を測るみたいに人を測ってる。
米俵何俵分か。荷馬車何台分か。人1人分の血の量か。
そう測った瞬間、膝が抜けた。
石の床に、どさりと崩れた。
手が、血の縁に触れた。
冷たかった。
とっくに冷えていた。
指先が赤くなる。自分の指なのに、他人の指みたいに見える。
「セレナさん」
声が、出た。
掠れて、小さくて、それでも静かな礼拝堂にやけに響いた。
返事はない。
俺は、両手を床について額を石にこすりつけた。
泣いていた。
声が、出なかった。喉の奥で息だけが何度も潰れた。
鼻水が垂れて、涙が血の水たまりに落ちて、丸い波紋が広がった。
「俺が、守るって」
声が、割れた。
「次は、俺が守りますって言ったのに」
あるのは、赤い石と、白い布と銀の糸と、降り積もる灰だけだった。
俺はいつまでも膝をついていた。
立てない。石が冷たい。膝の皿が割れてるみたいに痛い。
首のロザリオが、ちりちりと焼ける。
ずっとだ。
肌に触れている珠が、蟻の群れみたいに這い回ってる。
外そうとした。
指が紐にかかる。
でも、指に力が入らなかった。
「持っていて」
そんな声が、耳の奥に残ってる。
言われた気がする。
でも、外せない。
外したら、セレナさんが本当にいなくなる。
そう思ったら、指が動かなかった。
顔を上げる。
視界がぼやける。
祭壇の縁に、何かが落ちていた。
布の包みだ。
あの布だ。
セレナさんが膝の上に置いて掌で押さえていた、あの包みだ。
端が血に浸って、黒く重くなっている。
「後で、2人で」
そう言った声が、耳の奥で繰り返す。
手を伸ばせなかった。
触れなかった。
触ったら、中の硬さで分かってしまう。
何が入っているか。
いや、入っていないか。
パンが、2つ、まだそこにあるかどうか。
それを確かめるのが、怖かった。
動けなかった。
どれくらいそうしていたか。
ふと、背中が冷えた。
首の後ろの産毛が、逆立つ。
足音だ。
規則的な足音。
振り返る。
崩れた壁の向こう、開いた入口のところに黒い影が立っていた。
勇者さまだ。
聖剣を腰に差して、こちらを見ている。
薄青の目が、灰の光の中でじっとしている。
ただ、立っている。
血の海に膝をついた俺を、上から見下ろしている。
俺は何も言えなかった。
喉がひりつく。
首のロザリオが、また熱くなる。
まるで、あいつの視線に反応してるみたいだ。
勇者さまの右手が、ゆっくりと動いた。
聖剣の柄に、触れる。
指が、白い。
膝に手をついた。石が冷たい。指に血がこびりついている。ぐっと押して、立ち上がった。膝が笑った。でも立てた。
「セレナさんを」
声が出た。掠れて、震えていた。喉の奥が血の味がした。
「どこへやった」
勇者さまの口が、動いた。
「俺は、セレナに触れていない」
低い声だった。平坦だった。言い訳の熱も、怒りの色もない。ただ事実を置くだけの声。
腹の底が、熱くなった。さっきまで冷たかったのが、一瞬で煮えた。
「嘘だ」
叫んでいた。声が礼拝堂の壁に跳ね返った。
足が動いた。トビさんの足運びだ。つま先で石を撫でる。死角。喉と、脇腹。2本同時に。腰の短剣が2本、鞘を抜けた。音がしなかった。抜きながら、もう俺は踏み込んでいた。
届く。あと半歩。
そのとき、勇者さまの声がした。こっちを見ないまま。
「トビの癖だ。右へ流れる」
意味が分かるより先に、勇者さまの手が動いた。聖剣が鞘から出ていた。トビさんの型は、右へ体重が流れる。その右に、白い刃がもう置いてあった。
かきん、と硬い音がした。1本目が弾かれた。手のひらが痺れる。2本目、逆手で脇腹へ。刃がまた白い光に当たった。かん、と高い音。2本ともはじかれた。短剣が2本とも宙を舞って、石の床に落ちた。からんと転がる音がした。
俺の体は、勢いのまま前へよろけた。勇者さまの胸元に、手をつく形になった。肩で息をしていた。指先が震えている。拾う力も、握る力も出なかった。
勇者さまは、動かなかった。反撃の刃は来なかった。聖剣を、まだ構えたまま。切っ先は俺の首の横を通っている。あと、指1本で届くところだ。でも動かない。
それでも足は動いた。
勇者さまの胸元から飛び退く。背負子が揺れた。黒い箱がこつんと鳴る。俺は手を背中に回して、括りつけた大剣の柄を握った。革の感触が手のひらに食い込む。
抜いた。
重さが腕に落ちてくる。それでも体が先に動いていた。
足が石を蹴る。
灰が舞う。
大剣を頭上に振りかぶり、体重ごと真上から振り下ろした。
空気が裂ける音がした。
勇者さまが聖剣で受けた。
金属が噛み合う。火花が散る。
手のひらが痺れた。骨が軋む。それでも押し込んだ。
足元の石畳が割れる音がした。細かい破片が跳ねて、灰と混ざる。
勇者さまの膝が、折れた。
片膝だ。
地面に、ごつりと落ちる。
俺は大剣を押し付けたまま、動けなかった。
目の前で、勇者さまが膝をついている。
聖剣を斜めに構え、俺の大剣を受け止めたままだ。
薄青の目が、俺を見上げている。
白金の髪に灰がかかっている。
「……そこまで育ったか」
声がした。
小さくて、低い。
俺に向けたのか、自分に向けたのか分からない。
呟きだった。
意味は分からなかった。
何が育ったんだ。
俺は、ただ振り下ろしただけだ。
ガルドさんの大剣を、ガルドさんの型で。
それだけだ。
勇者さまは膝をついたまま、聖剣を構えている。
防ぐだけだ。
でも、切ってこない。
理由を、言わない。
それが、あいつだ。
俺は大剣をもう一度振り上げようとした。
腕が震えた。
刃が、上がらない。
灰が、静かに降っている。
血の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
俺の指先が、勝手に開いた。掌が上を向く。焼けつくような熱が、手のひらを走る。喉の奥が、痙攣したみたいに動いた。
「赤く、細く、貫け――」
声が、俺のものじゃなかった。低くて、乾いていて、でも確かに俺の口から出ていた。エルマの詠唱だ。頭の芯が白くなる。掌の上で、炎が槍の形に凝る。
「《炎槍》」
放たれた赤い槍が、灰の空気を裂いて勇者さまの胸へまっすぐ飛ぶ。
勇者さまは膝をついたままだった。聖剣が縦に振られる。白い刃が炎の穂先を真っ二つに断つ。裂かれた火が左右へ散って、壁と床を舐める。熱風が俺の頬を打った。
だが、火の尾が1本だけ残った。蛇みたいに細い火が、勇者さまの肩を舐める。服の左肩が、ちりちりと音を立てて燃え始めた。灰の白さに、橙が混ざる。
俺の左腕に、鋭い痛みが走った。遅れて熱が来る。見ると、肘の下が裂けていた。血が指先を伝って、祭壇の血の水たまりに落ちる。火を裂いた聖剣の切っ先が、そのまま流れて俺の腕を浅く撫でていた。
痛い。でも、それだけだ。
勇者さまは膝をついたまま、聖剣を下ろした。切っ先が石を擦る。肩の火が、服の繊維を黒く縮らせてまだ燃えている。消さない。消そうともしない。
俺は両手で左腕を押さえた。指の隙間から血が滲む。
「なんで、反撃しないんすか」
声が、割れていた。
勇者さまは答えない。
俺の口が、また開く。
唇が、勝手に動こうとする。
次の詠唱が、舌の裏で膨れている。
でも、出てきたのは、違う言葉だった。
「主よ、その御手をもってこの傷を――」
セレナさんが何百回も唱えていた祈りだ。トビさんの足を、ガルドさんの肩を、俺の擦り傷を。そのたびに白い光が灯って、傷が塞がった。あの光景を俺は一番近くで見てきた。
右の手のひらに白い光が灯る。
温かい光のはずだった。セレナさんの光は、いつも温かかった。触れると傷の痛みが遠くなって、眠くなるような光だった。
それが今、俺の手のひらで燃えている。
痛い。熱い。違う。これは、セレナさんの光じゃない。
俺は左腕の傷に、光を押し当てた。
ジュッ、と音がした。
肉が焼ける音だ。水が弾ける音じゃない。肉だ。俺の腕の傷口が、白い光に触れた瞬間、縁から黒く縮れていく。煙が上がる。甘ったるい、焼けた肉の匂いが鼻の奥を突いた。
「あっつ、なんで、なんでだよ」
声が裏返った。悲鳴みたいな声が、静かな礼拝堂に響く。俺は手を振った。光を振り払うみたいに、何度も何度も。指先にまとわりつく光が、離れない。振るたびに指の皮がめくれて、焦げていく。
「消えろ、消えろって!」
やっと、光が消えた。
手のひらを見た。白い火傷が、手のひら全体に広がっている。皮が破れて、赤い肉が見えている。指が震えて、まっすぐ伸ばせない。左腕の傷口も、塞がるどころか縁が黒く焦げて、血がどろりと固まっていた。
痛い。焼けるように痛い。
涙が出た。痛さで、悔しさで、わけが分からなくて。
「効きが悪い体質だって、セレナさんが」
声が、震えた。
そうだ。俺は、セレナさんの《祝福》を受けるたびに、肌がひりついた。治してもらうのに、いつもひりひりした。治るのに焼けるみたいに、ひりひりした。
セレナさんは、俺の体質が合わないんだろうって、申し訳なさそうに笑ってた。
首のロザリオが、焼けるように熱い。
木の珠が、汗と血と焦げた皮に触れて、じゅうじゅうと音を立ててるみたいだ。
「ひりつく……」
俺は焼けた手を胸に抱えて、その場に座り込んだ。
勇者さまが、片膝をついたままこちらを見ていた。
薄青の目が、俺の焼けた手と首のロザリオと、泣き出しそうな俺の顔を順番に見ている。何かを測るみたいに、じっと。聖剣は、だらりと下げたままだ。肩の焦げが、まだ微かに煙を上げている。
あいつは、何も言わない。
俺が自分で自分を焼くのを、止めもしなかった。
ただ、目だけが、細くなった。
勇者さまが立ち上がった。
焦げた服の肩の煤を、手で払う。
ぱさり、と灰が落ちた。
座り込んだ俺を見下ろして、口を開く。
「最後に何を食べた」
声は低く、静かだった。
俺は答えられなかった。
喉が動かない。
「言ってみろ」




