第28話 ずっと冷たかった
扉に閂をかけた。
勇者さまが、入ってこられないように。
32日目の夕方。迷路の外れに、崩れた小礼拝堂があった。壁の半分が崩れて灰の色に染まっている。礼拝堂の脇に控えの間があった。狭い。石の長椅子が2つ。壁に燭台が1つ。火は消えている。屋根は残っていた。扉も残っていた。
今夜はここだ。
閂は錆びた鉄だ。石の溝に嵌まる。きしんだ。それだけじゃない。背負子の横からガルドさんの大剣を抜いた。柄を閂に噛ませる。柄頭が鉄の頭に引っかかる。刃が扉枠に当たる。角度を直した。噛み合った。
「これで、外からは開かないっす」
セレナさんが小さく笑った。
「頼もしいですね」
琥珀色の目が細くなった。俺の外套を被った肩が揺れた。
扉の向こうで、足音が止まった。
勇者さまだ。動く気配がない。
それから声がした。
「それでいい」
低かった。それだけだった。
足音が遠ざかった。規則的な音が闇に吸われて消えるまで聞こえた。
俺は閂に手を置いたまま立っていた。
……それでいい、って何だ。
俺は今夜、勇者さまがセレナさんを狙うと思ってた。閂をかけて塞ぐのを見て、開けろと言うかと思った。
でもあいつは言った。それでいい、と。
分からない。あいつはいつもこうだ。短い言葉を投げて、理由を言わない。聞くなとも言う。残された俺が勝手に裏を読んで、勝手に怯えて、勝手に怒る。
腹の底が熱い。
セレナさんが、俺の背負子から糧食の包みを取り出した。
パンは、これが最後だった。
小さいパンが1つ。
硬い。表面に細かなひびが入ってる。2日は持つやつだ。
セレナさんの指が、パンの真ん中に添えられた。
力を込める。
乾いた音がして、半分に割れた。
片方を、俺に差し出した。
「後で食います」
首を横に振った。
「すんません。今、腹減ってないんで」
セレナさんの手が、空中に止まった。
琥珀色の目が俺を見てた。
長いこと見てた。
それから、下を向いた。
「……はい。後で」
声が小さかった。
パンの欠片を、布の上に並べた。
片方じゃない。
両方だ。
半分に割れたパンを、2つとも布に包んで、膝の上に置いた。
手を離さない。
膝の上の布を、掌で軽く押さえている。
セレナさんも食べない。
「セレナさんも食べないと」
声が出た。
掠れてた。
セレナさんが顔を上げた。
唇が、少し歪んだ。
笑ってた。
「後で、2人で」
それだけ言って、布の包みを膝の上で撫でた。
琥珀色が揺れてた。燭台の明かりはない。暗がりの中で目だけが光ってた。
俺は懐から小さな蝋燭を取り出した。
指先で揉んだ。芯が堅い。
腰の短剣を抜いて、刃の背で燧石を叩いた。
火花が1つ、2つ。
3度目で芯に火がついた。
橙色の点が浮かんだ。
揺れた。
狭い控えの間が、薄く染まる。
石の壁に影が落ちる。天井の隅に煤が見える。
窓があった。小さい。隙間だ。
そこから、灰が降ってるのが見えた。
白い空から、灰が降ってる。静かに。
音はない。
灰が窓の縁に乗って、滑り落ちる。
◇
蝋燭の火が揺れた。
影が壁の上で蠢く。黒い影が天井の煤まで這い上がって、溶けた。セレナさんが膝の上の包みを撫でていた。指が止まらない。布の皺を、何度も何度も、同じ場所を撫でている。
「ノア」
声が小さかった。
「私ね、6つのときに、教会に拾われたんです」
手が止まった。
「流行り病の村でした。名前は……覚えてないです。村ごと、病に食われてた」
琥珀色の目が蝋燭の火を見てる。
「一緒に拾われた子が、あと4人いたんです」
声が、平らだった。平坦すぎて、怖かった。
「冬を越せたのは、私だけでした」
指がまた動き出した。布の皺を撫でる。
「だから」
声が、少しだけ細くなった。
「誰も死なせない聖女になりたかったんです」
蝋燭がぱちりと爆ぜた。橙色が一瞬、広がって、また小さくなる。
セレナさんの目が揺れてる。火の光が、琥珀の中で溶けてる。
「結局、トビさんも、ガルドさんも、エルマさんも」
声が途切れた。
布の上の指が止まった。爪の先が、布に食い込んでる。
「私が、《祝福》をもっと上手く使えたら」
唇が震えた。
「《聖域》を、もっと早く出せてたら」
言葉が、途中で折れた。
俺は何も言えなかった。
喉の奥が熱い。鼻の奥が痛い。目の縁が、しんと熱くなってくる。
言いたいことは、山ほどあった。セレナさんのせいじゃない。セレナさんが一番、誰も死なせたくなかったんじゃないか。俺が言えることじゃない。
全部、喉の奥で溶けて、声にならなかった。
俺は泣きそうになりながら口を開いた。喉の奥が詰まって、声がひどく掠れていた。
「セレナさんのせいじゃないっす」
蝋燭の火が揺れた。影が壁の上で小さく蠢いた。
「次は俺が守ります。……いや、俺なんかが言うのもあれっすけど」
セレナさんが顔を上げた。琥珀色の目が、火の光を溜めている。その両手が、俺の両手を包んだ。白い指だった。細くて、ひやりとしていた。
「冷たいですね」
静かに言った。俺は手を引こうとした。荷を運んで豆だらけの、ごつい手だ。聖女の手を包ませておくもんじゃない。
「体質っす。すんません」
引けなかった。セレナさんの指が、俺の手を離さない。少しの間があった。蝋燭の芯が、ぱちりと鳴った。
「……ずっと冷たかった」
声は、ほとんど独り言みたいだった。俺は何か言おうとして、口を開いた。言葉が出る前にセレナさんの顔が近づいた。
唇が触れた。
短かった。一瞬だった。でも温かかった。俺の唇に、セレナさんの唇の熱だけが残った。セレナさんが離れた。俺は固まっていた。手も、足も、舌も動かない。
「え」
声が出た。
「今の、え」
セレナさんが、ふっと笑った。肩が小さく揺れて、銀の髪が蝋燭の橙を滑った。笑い声は、小さかった。でも泣いてた顔じゃなかった。
セレナさんが首に手をやった。
木の珠が擦れる音がした。ロザリオだ。
頭を上げて、紐を解く。銀の髪が揺れた。
俺の首にかける。
木の珠が鎖骨の上に落ちた。
ひりついた。
「……ちょっとひりひりしますね」
笑った。引きつったかもしれない。でも笑った。
肌が擦れてるだけじゃない。珠が触れたところが熱い。蟻が這うみたいに、皮膚の下がちりちりする。
セレナさんが俺の首の珠を指で整えた。指先が冷たい。
「我慢してください」
静かに言った。
「……何があっても、私はあなたの味方です」
琥珀色の目が蝋燭の橙を溜めていた。揺れてなかった。
俺は口を開いた。
「それ、俺のセリフっす」
声が出た。掠れてた。でも出た。
セレナさんがふっと息を漏らした。笑いみたいだった。
「ミナちゃんに会ったら、私の分も――」
言いかけて、止まった。唇が閉じた。
琥珀色が俺を見た。それから下を向いた。
「やっぱり、自分で言います」
それだけ言った。
意味は分からなかった。でも聞き返さなかった。
俺たちは壁に背を預けた。
石が冷たい。背負子が当たる。黒い箱がこつんと鳴った。
並んで座った。肩が触れる。
セレナさんの髪が俺の肩に落ちた。
重みが来た。軽い。
銀の髪が蝋燭の橙を弾いていた。
俺は動かなかった。
◇
深夜だった。
俺は寝なかった。
扉の閂を見てる。
ガルドさんの大剣の柄頭を見てる。
蝋燭は消えた。灰の芯が赤い点だけ残してる。
肩の上で寝息が聞こえる。
セレナさんのだ。
規則的で、浅い。
首筋から温かい匂いがする。
銀の髪が頬に触れてる。
息をするたびに髪が揺れる。
俺は動かなかった。
閂が嵌まってる。
柄が噛んでる。
開かない。
開かせない。
赤い点が、ふっと消えた。
闇だけが残った。
胃の底が、空っぽの箱みたいに鳴った。
瞬きをしたら、窓が白んでいた。
33日目の朝。
肩が軽い。
右肩だけじゃない。左肩も。背負子の肩紐の跡が、布越しに痛む。でも重さがない。
隣がいない。
セレナさんの体温が、消えてる。
肩に落ちてた銀の髪の重みも。法衣の裾が石を擦る音も。
いない。
「セレナさん」
声が出た。掠れてた。喉が乾いてる。
返事がない。
「セレナさん」
もう1回。今度は大きく。
返事がない。
石の長椅子が2つ。壁に燭台が1つ。隅まで見た。狭い部屋だ。隠れるところなんてない。
いない。
「無理だ」
声が漏れた。
「なんで」
目が熱い。鼻の奥が痛い。
セレナさんの膝の上に、布の包みがあったはずだ。パンの包み。半分に割れたパンが2つ。布に包んで掌で押さえてた。
ない。
扉を見た。
ガルドさんの大剣が、床に落ちてた。
柄頭が鉄の閂から外れてる。刃が扉枠から離れて、石の床に横たわってる。
閂が、外れてる。
内側から、外されてる。
……大剣が落ちた音を、俺は聞いていない。
聞いてたら、起きてたはずだ。鉄が石にぶつかる音だ。閂が溝から抜ける音だ。聞こえなかった。
聞こえなかったんだ。
部屋の中には、俺とセレナさんしかいなかった。
閂をかけたのは俺だ。大剣を噛ませたのも俺だ。外からは開かない。開けたのは、内側からだ。
内側にいたのは、俺とセレナさんだけだ。
……セレナさんが、開けた。
自分で、閂を外した。
大剣を、床に落とした。
それから、出ていった。
誰かに、呼ばれたんだ。
分からない。でも、そうとしか考えられない。
俺は扉の前に立っていた。大剣の刃先が、俺の靴の先に触れていた。
外からは、開かないはずだった。




