第27話 坊主、遅えぞ
壁に引いた白墨の印が、消えていた。
32日目の朝。
回廊の壁に手を当てて、足を止めた。
冷たい。指先が石に吸い付く。
「……ない」
声が掠れた。
壁の、腰の高さのところ。俺が昨日曲がり角ごとに書いた白墨の印。荷役ギルドの荷札に使う、矢印に横棒を2本。あれがない。
指で壁を撫でる。粉っぽさもない。白墨の欠片も落ちていない。拭き取った跡すらない。
まるで、最初から何も書いてなかったみたいに、黒い石が続いてる。
背筋が冷えた。
「ノア」
後ろから声がした。セレナさんだ。俺の肩越しに壁を見つめてる。
「印が、ないんです。俺昨日……いや、確かに書きました。曲がるたびに。3回……いや、4回」
指が震える。
壁を、もう一度触る。
冷たい。
セレナさんは何も言わない。ただ、ロザリオを握った手を胸元に置いてる。
勇者さまが立ち止まった。背中が闇に浮いてる。振り返らない。
俺は背負子の肩紐を握り直した。
「白墨で書いた角を、数えてた。角を曲がるたびに歩数を足して。荷車を押すときに分かる程度の、床の傾きも。城の中って水はけのために、ほんの少し傾けてあることが多いんで」
誰も返事をしない。
俺は続けた。
「それで今、数え直したんです。曲がり角から、いま俺が立ってるところまで。……合わないんです」
唾を飲んだ。
「2歩、短い」
声が闇に落ちた。
「この廊下、昨日より2歩短いんです。……壁が動いてる」
「お前が先に行け」
勇者さまが、それだけ言った。
俺は振り返った。勇者さまの薄青の目が、暗がりの中でじっと俺を見てる。聖剣を腰に差したまま、動かない。
「……俺が、先頭っすか」
3歩半の距離を、今度は俺が作る側になる。あの背中を斬るつもりで、ずっと見てきた背中に今度は俺の背中を晒す。
ぞっとした。
足の裏が石に張り付く。
それでも、歩き出した。
俺は歩数を数えた。
左の壁に手を当てた。冷たい。石の目が細かい。
右へ曲がる。
3歩目で床が左に傾いた。違う。戻る。
「こっち、っす」
声が震えないように、短く言った。
セレナさんが、隣に並んだ。
白い法衣の裾が、闇の中でうっすら浮いてる。
ふと、指が触れた。
冷たい指先。セレナさんの手だ。
俺の右手を、そっと握ってくる。力は強くない。でも、離さない。
昨日の声のあとから、何度かこうして手を握ってくる。
俺は何も言えず、そのまま歩いた。
「ノア、すごいです」
セレナさんが、ぽつりと言った。
「地図もないのに、迷わず進めるんですね」
「荷役は、道を覚えないと日当が出ないんで」
照れて、声が小さくなった。
「荷馬車の轍の深さとか、石畳の継ぎ目の向きとかそういうので道を測る癖がついてるだけっす。俺なんかは、それしか能がないんで」
「それしか、じゃないです」
セレナさんの指に、少し力が入った。
「あなたのそれに、今、命を預けてます」
喉が詰まった。
何か返そうとして、やめた。
代わりに、一歩ずつ、確かめるように踏み込んだ。
後ろから足音が聞こえる。勇者さまの足音だ。規則的で、一定の距離を保ってる。
3歩半。
俺の歩幅で、3歩半。
ずっと、そこにいる。
角を曲がる。
床が右へ傾いた。こっちだ。
壁に白墨の印はもう書かない。消えるから。
代わりに、歩数を全部、頭の中に刻んでいく。
曲がり角。傾き。歩数。
それが俺の地図だ。
「……あと、もう少しで広いところに出るはずっす」
そのとき、聞こえた。
「がはは」
太い笑い声。
聞き覚えがありすぎる声だった。
足が、止まった。
◇
32日目の昼。
通路を抜けると、広間だった。
天井が高い。大広間よりは狭いが、それでも荷車が10台は並べられる。壁に松明が並んで燃えている。橙の光が石の壁を舐めていた。
その真ん中に、立っていた。
赤茶の短髪。無精ひげ。熊みたいな肩幅。
ガルドさんだった。
「がはは」
笑った。歯が見えた。
「坊主、遅えぞ」
手を差し出した。分厚い手のひら。指の付け根に豆。左手の薬指に細い指輪。あの指輪だ。
「食え食え、ほら」
手のひらの上には、何も載っていない。
「ガルドさんっ」
セレナさんの声が裂けた。白い法衣が駆け出す。銀の髪が揺れた。
俺は腕を伸ばした。セレナさんの腰に腕を回して、引き止めた。
「っ」
セレナさんの体が俺の腕の中で止まった。法衣の布が撓む。肩が震えている。
「ノア、離して。ガルドさんが、ガルドさんがそこに」
俺は背負子の横の大剣を見た。あの大剣は俺が背負っている。ガルドさんの背中には、何もない。
ガルドさんは笑っている。差し出した手を引っ込めない。俺の後ろで、勇者さまは何も言わない。動く気配がない。
ガルドさんが笑いながらこっちへ1歩、2歩と歩いてくる。
足音が、軽すぎる。
ガルドさんの足音を、体が覚えてる。
床が沈むような、重い足音だった。
「ガルドさんは米俵3つ分だ」
声が漏れた。
「あいつの足音、1つ分もない」
セレナさんの体が、俺の腕の中で固まった。
1歩。
石の床を踏む音が、ぺた、と鳴る。
軽い。
米俵3つ分の人間の足音じゃない。
水袋を床に置いたときみたいな、ぺた、という音。
あの笑い方も、あの声も、あの手もあの指輪も、全部あってるのに。
その右腕が、突然、ぐにゃりと伸びた。
皮膚の色のまま、肘のあたりから灰色に変わって、指が溶けるように大剣の形になった。
刃の長さは、俺が背負っているガルドさんの大剣と、まったく同じ。
俺は腕を引いて、セレナさんを半歩後ろへ下がらせた。
大剣の形をした腕を、偽物が笑いながら持ち上げる。
「坊主、遅えぞ」
もう一度、同じ声で、同じ笑顔で。
偽物の腕が振り下ろされた。
兜割りだ。
俺は背負子の横の大剣を抜いた。金属が噛み合う音が広間に響いた。手のひらに衝撃が来る。骨の芯まで響く。
俺は打ち返した。同じ型で。
兜割り。
偽物が受けた。受けた腕がまた大剣の形のまま跳ね上がる。もう一撃。振り下ろす。俺も振り下ろす。同じ角度、同じ速さ、同じ重さ。
鏡を見てるみたいだった。
「がはは」
笑い声まで同じだ。
3度目で分かった。俺の型が読まれてる。いや違う。俺の型が、あいつの型なんだ。同じ型で打ち合えば、強い方が勝つ。それだけのことだ。
4度目。
腕が痺れた。5度目。
膝が沈んだ。6度目。
大剣が押し返される。俺の腕が上に跳ね上がった。
重い。
軽いくせに、ガルドさんと同じ重さで落ちてくる。
「っ」
足の裏が石を滑った。半歩下がる。偽物の刃が俺の頭上で止まっている。止まって、まだ押してくる。じりじりと俺の腕が下がっていく。
「勇者さま……」
声が漏れた。振り返る余裕はない。
後ろから足音がしない。
勇者さまは、動かない。
爪先が石を擦った。もう半歩、下がった。
そのとき、見えた。
振り下ろした後偽物の右肩が、一瞬だけ下がる。
あれはガルドさんの癖だ。兜割りの後に、必ず右肩を抜く。力を逃がすあの癖。
何百回と見てきた。焚き火の横で、朝の稽古で、戦闘のたびに。
俺の体が、先に反応した。
足が動く。
トビさんの足運びだ。つま先で床を撫でる。石の上を、音もなく滑る。体重が右へ抜ける。偽物の刃が、俺のいた場所を空振りして石を砕く。
その一瞬で懐に入った。
背負子が揺れて、黒い箱がこつんと鳴る。
握り直す。ガルドさんの大剣。柄の革が、手のひらに吸い付く。
泣いていた。
「すんません、ガルドさん」
声が震えた。
「すんません、すんません」
刃を斜めに振り抜いた。
兜割りじゃない。ガルドさんの型の、斜めの一閃。肩口から脇腹へ抜ける、荷崩れした荷を整えるときの手の動きに似ていた。
偽物の胴が、斜めに断たれた。
上半身がずるりと滑り、石の床に落ちる。
断面が見えた。
灰色だった。
骨も、内臓も、血もない。ただ灰色の肉が粘土みたいに詰まっているだけだ。
「坊主」
落ちた上半身が、まだ笑ってる。
「坊主、遅えぞ」
俺は、もう一度振り下ろした。
今度は首へ。
首が落ちた。
ごとり、と石の床に転がる。
「坊主」
それでも、口が動いた。
「坊主、遅え、ぞ」
声が、首から出ていた。
胴体が、ゆっくりと崩れていく。肩から、胸から腕から、灰色の粘土みたいに溶けていく。足元から、どろりと流れ出して広間の石の目地に染み込んでいく。
最後に、顔だけが床に残った。
赤茶の短髪。
無精ひげ。
笑ってた。
あの笑い方のまま、床の上でじっと俺を見てた。
「がはは」
声だけが、天井に響いた。
それも、崩れた。
頬が割れ、顎が落ち、鼻が潰れ灰になった。
床に、薄く灰が広がっただけが残った。
「……っ」
後ろで、セレナさんが口を押さえていた。
悲鳴は、一度だけだった。あとは喉の奥で潰してる。
白い指が、唇を押さえて震えている。
琥珀色の目が、俺の手を見ていた。
大剣を握った俺の手。
それから、俺の顔を見た。
何か言おうとして、唇が動いた。
声は出なかった。
背負子の黒い箱がこつん、と鳴った。
勇者さまは、壁際に立っていた。
腕を組んで、こっちを見ている。
聖剣は腰に差したまま。
抜いていない。
俺が斬るまで、一歩も動かなかった。
勇者さまが歩いてきて、聖剣を抜いた。その切っ先が、床に残った灰色の肉の欠片をつついた。ぷつり、と小さな音がして肉が崩れた。
「擬きだ」
低い声だった。
「喰ったものの姿になる。声も、癖も、技も」
技も、という言葉が耳に残った。一瞬、自分の手にあるガルドさんの大剣の重みが、妙に生々しく感じられた。俺が振るった兜割り。トビさんの足運び。エルマの詠唱。
「俺のは、見よう見まねっす」
勇者さまは何も言わなかった。剣先を床から離し、灰を払う。
「じゃあ、ガルドさんを喰ったのは」
声が、途中で細くなった。
「あれが、ガルドさんを」
勇者さまが俺を見た。薄青の目が、闇の中でじっと俺を捉えていた。何かを探るような目ではなかった。ただ、見ていた。
沈黙があった。長い沈黙だった。松明の爆ぜる音だけが、広間に落ちていた。
沈黙の中で、俺の頭の中で線がつながった。
宿の犬だ。あの犬は、尾を振って寄ってきたのに、俺が手を伸ばした途端に唸って卓の陰に隠れた。犬に嫌われるのは慣れていたから気にしなかった。でも、あの唸り方は違った。荷を睨んでいた。
ススだ。エルマの黒猫。俺が近づくたびに毛を逆立てた。でもススは、セレナさんにもガルドさんにも毛を逆立てたりしなかった。俺と、勇者さまにだけだ。
黒鉄砦の荷馬だ。門の前で、あの栗毛は俺に歯をむいた。荷馬は荷に慣れている。それなのに、俺の背負子だけを嫌がった。
全部、同じだ。
俺は背負子の黒い箱を見た。紐で固定された、軽い鉄の箱。開けるなと言われている。王家の聖遺物。俺は5年間、荷を運んできた。荷の重さで中身を測る。この箱は軽い。軽すぎる。米俵1つ分もない。
匂いだ。
箱の匂いが、俺に移っていたんだ。俺は毎日、この箱を背負って歩いた。俺が近づく先々で、獣が警戒した。俺じゃない。俺に染みついた、箱の匂いに。
「勇者さま」
声が出た。震えていた。
「あの箱に、何を入れてきたんすか」
「聞くな」
それだけだった。
腹の底から、熱いものがせり上がってきた。怒りだ。俺は怒ったことなんて、ほとんどない。荷が崩れたときも、飯を抜かれたときも笑って済ませてきた。でも今は、笑えなかった。
「あんたが」
拳を握った。爪が手のひらに食い込んだ。
「あんたが、箱で擬きを連れてきて……みんなを喰わせたんだな」
声が震えた。怒りと、悲しみと、どっちか分からない震えだった。ガルドさんの顔が浮かぶ。井戸の底で見つかった、上半身だけの。トビさんの顔が浮かぶ。エルマの顔が浮かぶ。3人とも、俺が背負った箱の匂いのそばにいた。俺が、連れてきた。
勇者さまは、黙っていた。
否定もしなかった。肯定もしなかった。ただ、立っていた。右肩の包帯が、松明の橙に白く浮いていた。
俺は自分の手を見た。セレナさんの白い指が、俺の手を握っている。震えているのは、どっちの手だろう。
「セレナさん」
声をかけると、琥珀色の目がゆっくりとこちらを向いた。顔が蒼い。血の気が引いて、法衣の白さに負けそうなくらいだ。首のロザリオを、もう片方の手で握りしめている。指の関節が白く浮いている。
勇者さまを、怖がっているんだ。
「セレナさん、大丈夫っす」
「俺がいます」
セレナさんの唇が、小さく動いた。
「……はい」
それだけだった。けれど握られた手に力がこもった。さっきまでより、ずっと強く。骨が軋むくらいに。
勇者さまが聖剣を鞘に収め、俺たちに背を向けた。
「今夜、セレナから離れるな」
背を向けたままそれだけ言った。理由は言わない。いつものことだ。でも、今はそれがやけに冷たく響いた。
――今夜、セレナさんを狙う気だ。
俺はセレナさんの手を握り返した。
冷たい指だった。水に浸した布みたいに冷たくて、細くて、震えていた。
両手で包んだ。俺の手のひらは、荷を運んで豆だらけだ。温かいかどうかは分からない。でも、離さなかった。
セレナさんの指が、ゆっくりと俺の手に絡む。
松明がぱちりと爆ぜた。
勇者さまの背中は、もう闇に溶けかけている。
――あんたが何を企んでても。
――俺は、この人を離さない。
離れるもんか。




