第26話 空いている台座
聖剣が、灰色の膜に沈んだ。
31日目の夜明けだった。
灰色の膜が門を覆っていた。
水のような、灰を溶かした水のような膜だ。
黒い鉄の門に張り付いて、じわりと揺れている。
波紋が広がるたびに、向こう側の闇が歪んだ。
さっき試した小石が、頭に浮かぶ。
俺が拾って投げた小石だ。指先で弾いたくらいの勢いしかなかった。
それが膜に触れた瞬間、音もなく崩れた。灰になって、膜の中に溶けて消えた。
跡形もなかった。
セレナさんが息をのんだ。指先でロザリオを握りしめている。白い指が震えている。
聖剣の柄を握る勇者さまの右手は、手袋のない素手だった。
水の音がした。膜がわずかに沈む。波紋が広がり、刃の周りで膜が渦を巻く。
刀身が白く光り始めた。
最初は淡かった。雪明かりみたいな白。でもすぐに、鋭くなった。焼けた鉄みたいな白。刃が膜を焼く。
勇者さまの腕に、血管が浮いた。筋が1本、皮膚の下を走る。握る指が強張る。
聖剣を握る素手の右手から、細い煙が上がった。白い煙だ。爪の間から、指の隙間から。
肉が焼ける匂いがした。
……右手。
俺の懐に、あの手袋がある。勇者さまの右の手袋。エルマの手帳と同じ場所にしまってある。
なんで、素手で握るんだ。
勇者さまは声を出さなかった。唇を引き結んだまま、刃を押し込む。
膜が裂ける音がした。裂ける、というより、千切れる。
布を引き裂くみたいに、膜が刃の先で割れていく。
セレナさんが祈りを唱え始めた。声が低い。震えている。
「どうか、道を開きたまえ」
膜が布を裂くように左右へ開いた。
人ひとり通れるだけの隙間だった。
隙間から冷たい空気が吹き出した。
それと一緒に、匂いが来た。
甘ったるい腐臭だ。
鼻を押さえた。
喉の奥が痺れる。
荷馬の死骸を3日置いた倉の匂いだ、と思った。
昔、ギルドの倉庫で死んだ馬を片付けたことがある。あの時と同じ匂いだ。
向こう側で、何かが腐ってる。
……これ、勇者さまがいなかったら、俺たち一生ここで足踏みだったんだ。
聖剣がなければ膜は割れない。
割れなければ、門は開かない。
俺とセレナさんだけじゃ、ここで終わってた。
背負子の黒い箱がこつんと鳴った。
胸の奥が重くなった。
……殺せない理由が、また1つ増えた。
勇者さまが先に隙間へ入った。
聖剣が闇に消える。
背中が見えた。包帯の右肩が闇に白い。
セレナさんが続いた。白い法衣の裾が闇を拭う。銀の髪が消える。
俺も踏み出した。
隙間は狭かった。
肩紐が膜の縁を擦る。
冷たい膜が耳の側を撫でた。
ぬるりとした感触があった。
中へ入った。
背後で、膜が閉じる音がした。
水が戻るような、重い音だった。
「……閉まりましたけど」
俺の声が闇に吸われた。
勇者さまの背中が闇にある。
「出る時も開ける」
低い声がした。
「出る時、勇者さま、いるんすよね」
俺は訊いた。
声が震えたかもしれない。
勇者さまは答えなかった。
闇の中に、3人の息だけがあった。
◇
31日目の朝。
目が慣れると、闇じゃなかった。
天井があった。
高い。
大広間だった。
広い。両側に石の台座が並んでいる。2列だ。等間隔に、一直線に奥へ続いている。
台座の間を通る道幅は、荷車2台分くらいだ。
台座に、座っていた。
鎧だ。
錆びた鎧が、台座の上に座っている。剣を胸に立てて、背筋を伸ばして、座っている。
……骸だ。
顔がない。
正確には、顔の前半分がない。頭蓋の前半分が、ない。目も鼻も、額も眉も、ない。
頭蓋の後ろ半分だけが鎧の下から覗いている。
そこから下の、顎と頬骨だけが残っている。歯が剥き出しだ。
欠けた頭蓋の縁が、波打っている。ぎざぎざだ。その縁に、歯の跡があった。
細かい、等間隔の歯型が、骨に刻まれている。何度も噛んだ跡だ。
人の顎の幅だ、と分かった瞬間、胃の底がせり上がってきた。
吐きそうになった。
口を押さえた。手の甲に唇が触れる。冷たい。
臭いがした。乾いた、粉っぽい臭いだ。古い骨が風化するときの匂いだ。倉庫の奥で割れた木箱の匂いに似ている。
目を背けようとして、背けられなかった。
骸は列を作っている。両側に、奥へ奥へと続いている。
鎧の型が変わっていく。手前は簡素な鎧だ。奥へ行くほど古くなる。飾りが増える。兜の形が重くなる。
台座の側面に、銘板が嵌めてあった。文字が刻まれている。年号だ。
読んだ。
手前の台座から順に、年が遡っていく。奥へ進むたびに古くなる。
400年分の年号が並んでいた。読み終える前に目が滑った。
セレナさんが一番近い骸の前に膝をついた。
ロザリオを握り、頭を垂れる。唇が動いた。ただ、震えている。
「……どうか、安らかに」
立ち上がり、次の台座へ歩く。法衣の裾が石を擦る。また膝をつく。祈る。立ち上がる。次へ。
「みんな、ここまで来たのに」
そう呟いた。
俺はその背中を見ていた。
……1体、米俵1つ半。
勝手に頭の中で測ってる。
背丈と肩幅と鎧の厚みで、重さを割り出す。荷役の癖だ。目の前のものを、全部荷にする。
次。1つ半。
その次。1つ半。
12。12体で18俵。
自分の考えに吐き気がした。こいつらは荷じゃない。帰らなかった人だ。なのに、俺は数えてる。米俵の数みたいに。
台座も数えてた。
1、2、3……。
12。
台座は13。
一番手前、入口に近い台座。そこだけ空いていた。鎧がない。石だけが白く磨り減っている。
「ここは……誰のっすか」
勇者さまが立ち止まった。振り返らない。背中だけが答えた。
「砦の勇者の分だ」
それだけだった。
理由も、説明も、来ない。
俺は台座を見た。
……砦の勇者。
24日目の朝、黒鉄砦の大広間の奥にいた骸だ。錆びた金縁の鎧。空の眼窩。
あいつを倒したとき、剣筋が勇者さまとそっくりだった。
あの骸は、ここに戻れなかったのか。
戻るための台座が、ここに待っていたのに。
勇者さまが空いた台座の前に立った。
右手が伸びた。手袋のない素手だ。
石の縁に、指先が触れた。
一瞬だった。
触れて、すぐ離した。
……何のつもりだ。
意味は分からない。でも聞けなかった。
俺は目をそらした。
空いた台座から視線を外し、振り返る。
セレナさんがまだ膝をついていた。
一番奥の台座の前だ。祈り続けている。肩が小さく震えている。法衣の肩口が薄く、石の冷気が染みているように見えた。
俺は自分の外套を脱いだ。
そっとセレナさんの肩にかける。
セレナさんが顔を上げた。琥珀色の目が揺れてる。
「寒いっすから」
それだけ言った。
セレナさんは何か言いかけて、口を閉じた。
俺は勇者さまを見た。
奥へ歩き出していた。
背中だけが、闇へ遠ざかる。
◇
31日目の昼。
大広間の奥から、回廊が続いていた。
回廊は狭かった。
壁が両側から迫っている。荷車1台分の幅もない。肩を擦りそうだ。
窓はない。
暗い。
壁際に灯りはない。大広間の明かりが背後から差しているだけだ。行くほど闇が濃くなる。
灰の匂いがした。
勇者さまの背中が闇に溶けそうだった。白い包帯だけがうっすらと浮いている。
俺は背負子の肩紐を握り直した。
黒い箱がこつんと鳴った。音が回廊の壁に跳ね返ってくる。反響が長い。
誰も喋らなかった。
足音と、布の擦れる音と、箱の音だけがあった。
それが止まった。
声がした。
闇の奥から。
「お兄ちゃん」
足が止まった。
勝手に止まった。
息が、喉の奥で止まった。
……ミナだ。
茶色のおさげが、目の奥に浮かんだ。細い髪。肩より少し長い。いつも編み目が甘い。
咳が聞こえた。
乾いた、短い咳。肺の底から絞り出すみたいな咳だ。
夜の家で何度も聞いた音だ。布団の中で背中をさすった、あの音だ。
薬が苦いと泣く声がした。
「やだ、やだ、苦いの、もういらない」
鼻声だ。涙声だ。
ミナの声だ。
声が続いた。
「お兄ちゃん、ミナね、12歳になったよ」
俺は息を吐いた。
長く吐いた。
肺が震えてる。
……そうだ、12だ。
ミナは12だ。
俺が家にいない間に、12になったんだ。
そうだ、12だ。合ってる。間違いない。
そう思った。
後ろでセレナさんが何か言った気がした。聞こえなかった。耳がミナの声でいっぱいだった。
勇者さまの背中が動いた気がした。見えなかった。目が闇の奥を見ていた。
「ミナ」
声が出た。
掠れた、小さな、でもはっきりした声だ。
足が動いた。
右足が石を蹴った。
背負子が揺れて、肩紐が食い込んだ。
黒い箱が、がこんと鳴った。
走った。
セレナさんの手が俺の手首を掴んだ。
強かった。細い指なのに、骨を軋ませるくらい強く。ただ、離さなかった。
「ミナっ」
腕を引いた。引けなかった。指が、手首の肉に食い込んでる。灰の回廊に、俺とセレナさんの息だけが混ざる。
奥からまた声がした。
「お兄ちゃん、こっち」
勇者さまの背中が、消えた。
いや、動いた。俺の前に回った。視界を塞ぐ。黒い影が立ってる。
胸に、手が当たった。
片手だ。手袋のない右手だ。掌が胸骨を押す。布越しに爪の感触がある。
「聞くな。真似ているだけだ」
低かった。声は震えてなかった。氷みたいに硬い声だ。
「真似って、何が」
言葉がつっかえた。
「ミナの声っすよ、あれ。俺が聞き間違えるわけ……」
「お前の妹は、王都にいる」
短かった。
それだけ言って、押した。
動かない。俺の体が動かない。胸を押されてるからじゃない。もっと奥が動かない。
「嘘だろ」
声が掠れた。
「今、呼んでる。ミナが呼んでる。聞こえなかったんすか。勇者さま、耳塞いでたんすか」
叫んだ。喉が裂ける。
「離せっ。離せよ、セレナさん。俺、行く。ミナが、ミナが待ってる。12になったって、言ってた。聞こえただろ。聞こえただろ!」
セレナさんの手が離れない。指が白い。俺の手首が赤くなってる。痛い。でも、その痛みすら遠い。
腕を振りほどこうとした。ガルドさんの腕力で、振りほどけばいい。そう思った。
体が動かない。力が、出ない。
ガルドさんの兜割りも、トビさんの足運びも、エルマの《炎槍》も。全部、出てこない。
「なんでだよ」
声が割れた。
「なんで力が出ないんだよ。出せよ。俺の体だろ。俺の……」
膝が折れた。
石が硬い。膝が鳴った。
胸に当たっていた手が、離れた。
セレナさんの手も、緩んだ。離さなかった。でも、力が抜けた。
俺は石の床に額をつけた。冷たかった。石の冷たさが、じわじわと額に移ってくる。
目の前に、涙が落ちた。床に、ぽとりと。丸い染みが広がる。
「ミナ……」
呼んだ。声にならなかった。
奥の声が、止まった。
何も聞こえなくなった。
回廊に、俺の泣き声だけが残った。
静かだった。
セレナさんの息が、耳のそばで震えてる。
顔を上げられなかった。
それから、もう一度。
「お兄ちゃん」
闇の奥の、同じ場所からだった。
「お腹、すいた」




