第32話 30年前の荷物持ち
「やあ、同族」
男はもう一度そう言った。声は乾いた紙みたいに軽くて、それでいて耳の奥に残る。銀の鏡がその声を拾って、回廊の奥へ奥へと運んでいく。俺は腰が抜けたまま、床にへばりついていた。手の中の銀糸がまだ離れない。指の間で冷たく光っている。
男が近づいてきた。足音がしない。灰を踏んでいるのに、砂を踏む音も石を擦る音もしない。まるで灰の上を滑ってくるみたいだった。
近くで見るとやっぱり痩せていた。顔の肉が削げて、頬骨が皮膚の下から突き出ている。40代の半ばに見える。薄い茶髪に、まだらの白髪が混じっている。落ちくぼんだ灰色の目。目の奥に、薄く光るものが溜まっていた。笑っている。穏やかに。
外套は灰をかぶって元の色が分からない。肩のところが擦り切れていた。背負子の紐で擦れた跡だ。俺の肩にもある。同じ形の、同じ場所の。左肩の方が深い。俺も左肩の方が深い。紐をかけるとき、いつも左から先に通すからだ。
男の腕に、青い腕章があった。荷役ギルドの腕章だ。色が抜けて、縁がほつれている。俺のより一回り太い。古い型だ。俺のギルドが今使っているのより、刺繍の線が太くて布が厚い。
「おいで」
男が言った。手を差し出した。白くて細い指だった。爪が伸びている。でも汚れていない。
俺は首を振りたかった。背負子を担ぎ直して、来た道を戻りたかった。でも足が動いた。勝手に。膝が震えて、手をついて立ち上がって、男の後をついて歩いていた。
回廊の奥に、部屋があった。扉はない。ただ壁の切れ目があって、その向こうに空間が広がっている。灰の匂いが濃くなった。
部屋の壁際に黒い鉄の箱が並んでいた。12個。整然と。同じ大きさ、同じ形、同じ鋲の打ち方。俺の背負子の箱と同じだった。
どれも蓋が開いていた。内側から押し開けたみたいに、蓋が外側に反っている。蓋の内側に、爪の跡があった。何本も。引っ掻いた跡だ。鉄が削れている。爪が立たないはずの鉄が、内側から抉られている。
男が振り返った。灰色の目が、俺の箱を見た。それから俺の顔を見た。
「それ、まだ背負ってるんだね」
男の声は穏やかだった。本当に感心しているみたいに、ゆっくりと言った。
「律儀だなあ。荷物持ちだ」
「……あんた、誰っすか」
声が震えた。自分の声のはずなのに、喉の奥でひび割れて銀の鏡に吸い込まれていく。男は薄く笑った。目尻の皺が、灰の中で白く刻まれる。
「サイラス」
乾いた声だった。古い紙を一枚ずつ剥がすみたいな、静かな声。
「30年前の荷物持ち。……の、顔だよ」
最後の言葉が、妙に軽かった。何かの名前を飲み込んで、その抜け殻だけを口に載せたみたいな。
俺は何も言えなかった。背負子の紐が肩に食い込む。男は続けた。
「バズは元気かい」
親方の名前だった。
心臓が止まるかと思った。足元の石が、ふっと抜けたみたいな感覚が来た。
「あいつ、僕の後輩でね。腕っぷしだけの坊主だった」
「なんで、親方を……」
声が裏返った。指先が冷たい。焼けた手のひらだけが、じゅくじゅくと脈を打って熱い。
サイラスと名乗った男は俺の問いには答えなかった。代わりに、壁際の空っぽの黒い箱の1つに腰を下ろした。蓋の反り返った箱だ。内側から抉られた爪の跡が、灰の下でくすんでいる。その上に、骨の浮いた体を落ち着けて男は俺を見上げた。
「座りなよ」
声は穏やかだった。
「長い話だから」
「座りなよ」
もう一度言われた。俺は立ったままだった。背負子の紐を握る手に力が入る。灰の匂いが鼻の奥に溜まっていく。銀の鏡が部屋の隅で冷たく光っていた。
男は構わず話し始めた。穏やかな声だった。説教するでもなく、ただ事実を並べるみたいに。
「擬きはね、喰ったものの姿と記憶と技を得る。トビの足運び、ガルドの大剣、エルマの炎。君の体から勝手に出ただろう。火事場の馬鹿力だと思ったんじゃないかな」
俺の喉が鳴った。図星だった。思ってた。そう思ってた。
「それから、喰ったものの記憶を自分の記憶だと思い込む。だから自分を人間だと信じる。信じないと、やってられないからね」
男の灰色の目が俺を見た。哀れむでもなく、ただ見ていた。
「3つ目。人の食べ物は受けつけない。腹、減ってないんで。……何回言った?」
その言い方に、俺は腹が立った。静かすぎる声が、灰の下で笑っているみたいだった。
「違う」
声が出た。焼けた手のひらが痛む。それでも言った。
「俺は食ったことある。エルマのパン、うまかった。あんたの言う通りなら、そんなの全部嘘ってことになるだろ」
男は動かなかった。外套の肩が、灰の中でゆっくりと上下した。
「吐いたろう」
俺は何も返せなかった。腹の底が冷えていくのが分かった。吐いた。さっき、銀の髪と一緒に。
「4つ目だね」
男は外套の襟を直した。灰がぱらぱらと落ちる。
「腹が減った夜のことは覚えていない。覚えていないんじゃない、記憶に入らないんだ。擬きにとって腹の減りは呼吸みたいなものだから、いちいち覚えない。僕もそうだった」
「嘘だ」
声が震えた。でも男は続けた。
「5つ目。喰うほど強くなり、腹の減りも早くなる。だから喰う。喰うほど腹が減る。おかしな話だよね。でもそれが擬きの理なんだ」
男の灰色の目が、壁際の黒い箱を眺めた。
「そして、王家の仕組みだ。アルセインの王は30年ごとに擬きを1匹捕らえる。黒い箱に入れて、勇者の隊の荷物持ちに背負わせる。勇者に喰わせるためじゃない。魔王に喰わせるためだ」
男は少し黙った。灰の匂いが濃い。
「30年前の擬きは、黒鉄砦で腹を空かせすぎて暴れた。勇者まで喰いそこねた。それでもここまで来て、僕に喰われた。その擬きが最後に着ていた顔が、サイラス。……だから僕は、この顔なんだ」
背筋が粟立った。男が自分の顔を指で撫でた。灰の下の皺を確かめるみたいに。
「砦の日記を書いたのは、自分をサイラスだと信じていた頃の擬きだよ。君の懐の手帳とは別の、もっと古いやつだ」
男が俺を見た。落ちくぼんだ灰色の目が、静かに俺の顔を捉えている。
「最後の頁、読んだかい」
答えられなかった。
男が口を開いた。低くて、乾いた声だった。暗唱するみたいに、一語ずつ置いていく。
「勇者さまに聞かれた」
「お前、最後に何を食べた、と」
「思い出せなかった」
灰が静かに落ちる音がした。俺は拳を握った。握る先に何もない。干し肉も、パンも、スープの匂いも。何も。何ひとつ。
「お兄ちゃん」
首を少し傾けて男はそう言った。ミナの声だった。茶色のおさげの下から聞こえていたはずの、あの声だ。回廊で聞いた。城の闇の奥で、俺を呼んだ。その声が今、男の薄い唇からこぼれている。
全身が凍った。指の先から血の気が引いて、背負子の紐が肩に食い込む感覚だけがやけに遠い。
サイラスは元の声に戻った。乾いた紙のような、静かな声だ。
「君の記憶を嗅いだんだ。だから8つか12か、僕にも分からなかった」
灰が、男の肩からぱらぱらと落ちた。銀の鏡が、俺の顔を冷たく映している。
「……ガルドさんは」
声が、自分の喉から出たとは思えなかった。
サイラスは少しだけ目を細めた。笑うでもなく、ただ穏やかに。
「あれは僕の子だよ。顔は君の頭から借りた」
口が開いた。開いたまま、声が出ない。言い返す言葉を探して、舌が口の中で干からびていく。違う。違うだろ。ガルドさんは、井戸の底であんなに冷たくなって。違う。あの人は俺の頭の中から来たのか。俺が覚えているガルドさんは、俺が作ったのか。
サイラスが、俺の拳を見ていた。指が震えている。男は、それを見てやさしい声で言った。
「数えてごらん。気づいたら朝だった夜は、何回あった」
俺は、指を折ろうとした。旅の夜を順にたどる。焚き火の番をして、見張りをして朝になって、あれ、いつ寝たっけ。そんな夜が何回。親指。人差し指。中指。
やめた。
指を折りかけて、止めた。
サイラスが箱から身を乗り出した。骨ばった指が蓋の縁にかかり、灰をかぶった外套が床に擦れる。その動きに音がなかった。
「おいで」
声は乾いた紙のようだった。耳の奥に残る。
「ここにいれば、もう腹を空かせて誰かの顔を探さなくていい」
銀の鏡が、俺の顔を冷たく映していた。それから壁際の空っぽの箱を映していた。内側から抉られた爪の跡を、灰の下にくすませて。
俺は首を振った。振るたびに背負子の紐が肩に食い込む。それだけが、体の芯に残る感覚だった。
「勇者を喰いなよ」
サイラスが言った。まるで荷物の積み替えを提案するみたいに、静かに。
「勇者の顔で王都へ帰って、一緒に王都を喰おう。君の妹も、王都にいるんだろう」
ミナ、という音が、頭の奥で弾けた。
茶色のおさげ。乾いた咳。編み目の甘い細い髪。
顔は浮かばない。それでも、その名前だけが俺の中で何かを断ち切った。指先が冷たい。焼けた手のひらが、ずきんずきんと脈を打つ。
俺は手を上げた。首に触れた。
セレナさんのロザリオを握りしめた。
木の珠が、焼けた皮膚の上でじゅっと鳴く。肉が焦げる匂いが鼻の奥に届く。痛い。痛いのに、指が開かない。開いたら俺が俺でなくなる気がした。
「俺は、ノアだ」
声が震えた。喉の奥がひび割れそうだった。
「荷役ギルドのノアだ。ミナの兄貴だ」
サイラスは動かなかった。落ちくぼんだ灰色の目が、俺の握りしめた拳を見ていた。それから、薄い唇をほんの少し上げた。
「強情だなあ。荷物持ちはみんなそうだ」
サイラスが箱から立ち上がった。灰がぱらぱらと落ちる。足音はしなかった。灰の上を滑るように、まっすぐこっちへ来る。俺は背中の大剣に手を伸ばした。柄を握った。引き抜こうとした。腕が上がらない。指が、柄に張り付いたまま動かない。
「怖くて、動けない」
自分の声が、喉の奥でひび割れた。足も肩も動かない。目だけが動く。サイラスが目の前で止まった。銀の鏡の光が、男の頬を下から照らしている。薄い唇が、静かに弧を描いた。
「じゃあ、思い出させてあげよう」
冷たい指が、俺の額に触れた。ひやりとしていた。焼けた手のひらが痛いのに、指先はやっぱり冷たい。
指は、俺の手と同じくらい冷たかった。




