第24話 あいつは、自分が人間だと思ってる
『3日目。ベルク。荷物持ちが来た。ススが毛を逆立てた。』
27日目の夜。灰の荒野の野営。
焚き火が小さい。石を並べて、枝を組んだだけだ。
風はない。火の粉が真っ直ぐ上に上がって、闇に溶ける。
背負子から水筒と干し肉の包みを取り出した。
干し肉は固い。歯で引きちぎる用のやつだ。
3つに分けた。
勇者さまが岩に背を預けている。
近づいて、水筒と干し肉を差し出した。
「すんません」
勇者さまは目だけで見て、黙って受け取った。
礼も言わない。
それがいつものことだ。
次にセレナさんのところへ行く。
白い法衣の膝に、水筒と干し肉を置いた。
「セレナさん、水と肉っす」
「ありがとうございます、ノア」
セレナさんが受け取った。
琥珀色の目が焚き火の光を映してる。
俺は腰を下ろした。
背負子の横で、自分の分の干し肉を持ってる。
一瞬、手が止まった。
それから、セレナさんの方へ差し出した。
「これ、どうぞ」
セレナさんが目を丸くした。
「え、これはノアの分でしょう」
「俺、後で食いますんで」
「後で?」
「はい。腹、減ってないんで」
セレナさんの指が干し肉の包みを押し返しかけた。
唇が開く。
「ノアも――」
「ほんと、腹減ってないんで」
首を横に振った。
セレナさんの手が止まった。
焚き火の音だけがしてる。
勇者さまは立ち上がった。
水筒と干し肉を持ったまま、焚き火から離れていく。
岩の陰に背を預けて、座った。
背中が見えている。
いつもの距離だ。
いつもの背中だ。
俺はその背中を見ていた。
干し肉をちぎる音が、かすかに聞こえた。
勇者さまが物を食うところを、俺は一度も見たことがなかった。
焚き火の向こうで、セレナさんが干し肉を食べていた。
小さくちぎって、ゆっくり噛んでる。
セレナさんが俺の目を見た。
琥珀色が焚き火の光で揺れてた。
何か言おうとして、唇が開いた。
閉じた。
それから、また干し肉をちぎった。
ゆっくり食べてた。
火が細くなってきた。
薪を足さなきゃいけない。
でも動けなかった。
セレナさんが横になっていた。
法衣の裾が灰の地面を這ってる。
銀の髪が散ってる。
寝息が聞こえる。
規則的で、浅い。
焚き火が俺と、勇者さまの背中だけを照らしてる。
俺は懐から手帳を取り出した。
エルマの手帳だ。
赤い紐が解けてる。
表紙を開いた。
最初の頁の日付だけを見た、あの頁だ。
エルマの字だった。
思ったより丸い。
角が丸い。線がやわらかい。
生意気な口を叩く15歳の字じゃない。
もう1頁、めくった。
『5日目。勇者が盗賊の頭を斬った。顔色ひとつ変えなかった』
短かった。
でも、内容は鋭い。
次の頁をめくった。
『7日目。村の子がいなくなった。荷物持ちの靴、泥だらけ。見張りで歩いたって』
息が止まった。
焚き火が揺れた。
セレナさんの寝息が聞こえてる。
……泥だらけ。
あの日、夜通しで見張りに立った。
朝、靴が泥だらけだった。
それだけだ。
でも、エルマの目は違うものを見てた。
……つまり、俺が疑わしいってことだ。
エルマは、そう書いてる。
疑われて、当然だ。
次の頁をめくった。
『8日目。荷物持ちに川で助けられた。手、死人みたいに冷たかった。借りができた。最悪』
手が止まった。
焚き火の光が、頁に落ちてる。
エルマの字が、揺れてる。
……借りができた、って。
川のことだ。
ネイの渡し。
あの時、エルマが流された。
俺が飛び込んだ。
エルマの腕を掴んだ。
手が冷たかった。
死人みたいに冷たかった、って。
そう書いてある。
エルマは、あれを借りだと思ってたのか。
助けたんじゃない。
借りができた、って。
最悪、って。
口の中が苦くなった。
あの手の冷たさを、指先が覚えてる。
指先が震えた。
次の頁をめくる。
『12日目。トビが死んだ。見張りは荷物持ち。荷物持ちは覚えてないって言う』
喉が詰まった。
火の音だけが耳に残る。
『13日目。荷物持ちが、トビの構えをした。絶対トビの構えだった』
『17日目。書庫で日記。30年前の荷物持ちの。最後まで読んだ。吐きそう』
息が浅くなった。
焚き火が揺れてる。
『18日目。勇者が日記を燃やした。全部覚えてるから無駄。何を隠してんの』
頁の端が、火の光で赤く染まってた。
『19日目。窓から見てた。荷物持ちはガルドの剣を持ち上げられなかった』
指が止まった。
焚き火が揺れてる。
……窓から見てた。
エルマは、ずっと見てたんだ。
俺がガルドさんの剣を試して、持ち上げられなかったあの時を。
何も言わなかったのに。
何も言わなかったのに、全部見てた。
『20日目。ガルドが死んだ。見張りは、また荷物持ち』
息が止まった。
……また、って。
トビが死んだときも見張りは俺だった。
ガルドさんが死んだ朝も、俺が見張りだった。
エルマの目は、ずっと俺を見てたんだ。
『21日目。荷物持ちが、ガルドの剣で化け物の首を落とした。ガルドの型。おとといまで持ち上がらなかったのに』
手が震えた。
頁が揺れる。
エルマは知ってた。
俺がガルドさんの剣を持ち上げられなかったことを。
でも、あの日、持ち上がった。
ガルドさんの型で、兜割りをした。
エルマはそれを、書いてる。
『22日目。パンを渡した。食べた。うまかったって言った。そのあと井戸で████』
口の中が熱くなった。
パンだ。
あのパン。
████の下に、何か書いてある。
ペンで黒く塗りつぶしてある。
文字が見えない。
何を隠した。
エルマは何を、消したんだ。
目が熱い。
鼻の奥が痛い。
うまかった、って。
俺がそう言ったから、エルマは――
指先が頁の黒い墨を撫でた。
何も見えない。
次の頁をめくった。
『荷物持ちじゃない。』
焚き火が揺れてる。
橙色の光が、白い頁を舐める。
……違う。
俺は息を吐いた。
長く吐いた。
肺の底の空気を全部出した。
エルマは、書いてたんだ。
犯人は荷物持ちじゃないって。
最後の最後に、あれだけ書いてた。
エルマは、俺を外してくれたんだ。
次の頁をめくった。
『あいつは食べない。数えた。17回』
名前は、どこにもなかった。
でも、候補は少ない。
荷物持ちじゃない。
ガルドさんでもない。
トビでもない。
エルマでも、ない。
残るのは――
焚き火の向こう、岩の陰に背中があった。
水筒と干し肉を持っていった背中だ。
ちぎる音がした。
飲む音がした。
物を食うところを、俺は一度も見たことがない。
『あいつは夜の記憶がない』
その一行を、俺は二度読んだ。
指先が頁の端で止まる。
……俺も、ない。
いや、違う。
俺は寝落ちしただけだ。
見張りの途中で、泥のように眠っただけだ。
同じにするな。
でも、あの人は、一度も夜のことを話さない。
砦の夜も、屍鬼が来た夜も、エルマが死んだ夜も。
記憶がないから、なのか。
指が止まった。
『ススがあいつを怖がる』
指先が止まった。
思い出した。
大広間で、ススが勇者さまに毛を逆立てて鳴いた。
階段でもだ。
2回だ。
『あいつは、自分が人間だと思ってる。それが一番かわいそう』
焚き火の橙が、頁の上で揺れた。
岩陰の背中が見える。
黒い外套はない。
右肩の包帯だけが白い。
あいつは食べない。数えた。17回。
物を食うところを、俺は一度も見ていない。
夜の記憶がない。
自分が人間だと思ってる。
燃え残りの紙が浮かんだ。
『器が育つまで、同行者を絶やすな』
器。
勇者さまは、器なんじゃないか。
人間のつもりで立ってる。
でも中身は、何か別のものに変わってる。
それを、自分で知らない。
次の頁をめくった。
『明日、確かめる。』
もう、頁はない。
表紙が閉じた。
赤い紐が揺れた。
それを握った。
結んだ。
きつく。
胸の内側にしまった。
布越しに角が当たる。
あの夜のことを思った。
『明日、確かめる』とエルマは書いた。
「あんた、今夜どこで寝んの」
エルマが訊いてきた、あの声だ。
あれが、確かめる、だった。
明日は、もう昨日だ。
確かめる前に、エルマは死んだ。
勇者さまに背中から刺された。
確かめたかったのは、俺のことじゃなかった。
あいつのことだった。
焚き火が揺れた。
岩陰の背中が闇に沈んでいる。
右肩の包帯だけが、橙の光に白く浮いた。
動かない。
◇
28日目の明け方。
夜が明けようとしていた。
空の色が、少しだけ変わってる。
闇の底に、青が滲んでいる。
冷たい。
焚き火は消えていた。
白い灰だけが残ってる。
セレナさんは眠っていた。
法衣の肩が浅く上下している。
銀の髪が灰の上に散ってる。
寝息だけが聞こえる。
岩陰に背中がある。
勇者さまだ。
動かない。
右肩の包帯が、闇の中に白く浮いているだけだ。
俺は腰に手をやった。
トビの短剣だ。
鞘の冷たさが指先に伝わる。
引き抜かなかった。
次に背負子の横を見た。
ガルドさんの大剣。
柄の革が湿ってる。
夜露だ。
それから両手のひらを上に向けた。
エルマの《炎槍》の火傷だ。
水ぶくれが引いて、赤い痕だけが残ってる。
指で撫でた。
ひりついた。
「……怖い」
声が漏れた。
小さかった。
誰も聞いてない。
結界は聖剣で開く。
俺の剣じゃ開けない。
分かってる。
それでも、指は離れなかった。
トビさんの短剣。
ガルドさんの剣。
エルマの火。
全部、ここにある。
勇者を、殺す。




