第2話 冷てぇ手だな
「あの、勇者さま」
勇者は振り向かない。
「箱、軽くなった気がするんすけど」
足音が止まった。
「開けたか」
「開けてないっす」
「なら、いい」
いいのか。いや、いいって言われたんだ。
それだけだった。
昼前に、宿場町に着いた。
宿の前に熊みたいな大男が立っていた。
赤茶の短髪。無精ひげ。笑い皺。
左手の薬指に細い指輪。
背中には身の丈ほどの大剣。
勇者が外套の裾を払って近づく。
「おう、大将!」
大男が手を上げた。
勇者は頷くだけだった。
大男の視線が勇者の後ろの俺に落ちた。
「で、こいつが荷物持ちか」
大きな手が俺の脇を掴んだ。
「え、ちょ、待っ――」
次の瞬間、視界がぐるりと回った。
足が宙に浮く。
俺は片手でぶら下げられていた。
「軽っ。坊主、こんなんで荷物持ちか」
「おろしてくださいっす!」
背負子が傾く。
鉄箱が滑る。
勇者の手が、ほんの少しだけ動いた。
「おっと」
大男は笑いながら俺を地面に下ろした。
「すまんすまん。名前は」
「ノアっす」
「ノアか。俺はガルドだ。坊主でいいな」
宿の戸口が開いた。
銀糸の髪が昼の光を受けて揺れた。
琥珀色の瞳がこちらをまっすぐ見た。
白い法衣。青い刺繍。首に木のロザリオ。
女のひとは一歩、こちらへ出た。
「はじめまして、ノアさん」
「あ、えっと……ノアっす」
俺は慌てて頭を下げた。
女は微笑んだ。
「セレナと申します」
聖女さまだ。見ればわかる。
「よ、よろしくお願いします。セレナさま」
宿の食堂で、丸い卓を囲んだ。
昼飯は麦粥だった。湯気の立つ椀が3つ並ぶ。
勇者は窓際の別の卓に、1人で座っている。
俺は匙を取らずに、自分の椀をそっとガルドの前へ押した。
「腹減ってないんで」
ガルドの眉が寄った。
「食え食え……って、俺に食わせてどうすんだ」
そう言いながら、匙は止まらない。
2杯目も、きれいに空になった。
セレナがくすっと笑った。
卓の下で、宿の老犬が尾を振りながら寄ってきた。
俺の足に鼻先を押しつける。
「犬、好きなんすよ」
俺は手を伸ばした。
その瞬間、犬は低く唸った。
尻尾が下がる。
耳が伏せる。
後ずさって、卓の陰に隠れた。
宿の主人が台所から顔を出した。
「こいつ、人に唸ったことなんかねえのに」
「えっ、俺なんかしました?」
俺は自分の手を見た。
何もない。荷紐で擦れた、ただの荷役の手だ。
「犬にも相性があるだろうが」
ガルドが椅子を鳴らして立ち上がった。
「ま、よろしくな、坊主」
ガルドが太い手を差し出した。
俺は握手に応じた。
がっしりした指が、俺の手を包む。
「……冷てぇ手だな」
ガルドが眉を寄せた。
「ちゃんと食え」
「今日は冷えるんで」
俺は手を引っ込めた。
勇者が席を立った。
「行くぞ」
4人で宿を出た。
◇
北街道を歩いた。
俺は2歩遅れていた。
宿場町で買った新しい長靴の踵が、擦れて熱い。
遅れたら置いていかれる。それだけは勘弁してくれ。
足を引きずりながら、何とか付いていく。
勇者は振り向かない。
ガルドは前を向いたまま、たまに後ろを気にする。
セレナだけが何度もこちらを見ていた。
街道沿いの丘の影に入ったところで、セレナが立ち止まった。
「ノアさん、足を」
「大丈夫っす」
俺は靴を脱がなかった。
「見せてください」
セレナの声が少し強くなった。
俺は観念して靴を脱いだ。
踵の皮が剥けていた。赤い。
セレナは俺を道端の石に座らせた。
「《祝福》です。温かくなりますよ」
セレナの手が、踵に触れた。
白い光が触れたところが、ひりひり、ちりっと痛む。
「うっ」
思わず足を引っ込めた。
セレナが目を瞬いた。
「あら……効きが悪いですね。体質でしょうか」
踵の皮は、途中まで塞がって止まっていた。
「すんません、俺なんかは安い体なんで」
「体に安いも高いもありませんよ」
セレナは俺の足首を持ったまま言った。
俺は曖昧に笑った。
「……っす」
ガルドが鼻を鳴らした。
「そんなヒョロヒョロでよくここまで来たな」
「ヒョロヒョロって」
「褒めてんだよ」
「坊主、いくつだ」
「17っす」
「……そうか」
ガルドは前を向いた。
また歩き出す。
ガルドの拳が、背負子の鉄箱をこんこんと叩いた。
「坊主の荷、ずいぶん軽そうだな。聖遺物って、中身入ってんのか」
「開けるなって言われてるんで」
前を歩く勇者が、振り返らずに言った。
「触るな」
「へいへい、大将」
ガルドが肩をすくめて手を引いた。
丘を上りきったところで、遠吠えが1つ、空を渡った。
◇
丘の下の草むらが、風もないのに波打った。
灰狼の灰色の背中が、1つ、2つ。
勇者が足を止めた。
「来るぞ」
セレナがロザリオを握った。
ガルドが大剣を抜いた。
俺は背負子を押さえた。
「荷物持ち、下がれ」
勇者の声が飛んだ。
草むらから、灰色の影が飛び出した。
牙。黄色い目。
「おらぁ!」
ガルドの大剣が、正面の3頭を斬り伏せた。
なのに、群れは止まらない。
残りの灰色が、ぐるりと左へ回った。
向かう先は、いちばん弱い俺と、地面に置いた食料袋だ。
「え、ちょ、マジで!?」
治療のあいだ、荷を下ろしたのが裏目に出た。
俺は食料袋を2つ、ひっつかんで胸に抱え込んだ。
足が勝手に動いた。
荷役の走り方だ。
膝を落とす。
腰を沈める。
荷を揺らさないように、肩だけで走る。
狼が吠えた。
食料袋に飛びかかる。
「来んな!」
狼の前足が、袋の紐にかかった。
俺は踏ん張った。
足が土に沈む。
「これ、4人の3日分なんすよ!」
叫んだ瞬間、袋が引きちぎられそうになった。
「離せ!」
腕に力を込める。
そのとき、横から大剣が弧を描いた。
空気が裂ける音。
狼が2頭、まとめて胴から上下に分かれた。
内臓が、灰色の草の上にどろりとこぼれた。
湯気が立つ。
荷揚げ場で見た牛の解体を思い出した。
血の色も、匂いも、似てる。
人間って、狼を半分にできるんだ。
ガルドが大剣を肩に担ぎ直した。
群れの奥で、ひときわ大きな灰色が牙を剥いた。
頭目だ。
群れが、また俺の方へ回り込もうとしている。
ガルドは大剣を頭上に掲げた。
「こっち見ろよ、犬ころ!」
回転しながら、頭目めがけて振り下ろす。
刃が土を叩いた。
どん、と腹に響く音。
土が爆ぜる。
頭目の体が、地面ごと割れた。
背骨が露わになり、血と泥が混ざって飛ぶ。
逃げ遅れた2頭が、俺に飛びかかった。
目の前に、光の壁が立った。
「《聖域》」
セレナが小さく唱えた。
牙が弾かれる。
「ノアさん、動かないで」
セレナの声だ。
勇者の聖剣が閃いて、2頭は地面に落ちた。
音がしなかった。切り口が荷縄みたいに揃っている。
群れが悲鳴のように吠えて、尻尾を巻いて草むらへ逃げ散った。
静かになった。
俺は口を開けたまま、ガルドの腕を見ていた。
この人、たぶん米俵3つ分を片手で振ってる。
「坊主!」
ガルドが振り向いた。
「荷は無事か!」
「は、はいっす!」
俺は胸に抱えた食料袋を掲げた。
「1つも落としてないっす!」
「がはは、そっちかよ!」
ガルドが大剣を肩に担ぎ直して笑った。
「狼に追われて荷を落とさねえ奴は、初めて見たぞ」
厚い手のひらが、俺の背中をどんと叩いた。
「いてっ」
俺は苦笑いしながら、袋の噛み跡を数えた。
1つ。2つ。
穴は空いてない。中身は無事だ。
◇
日が落ちて、林の端で野営になった。
焚き火を囲む。
セレナが鍋の蓋を開けた。
干し肉と根菜の匂いが、湯気と一緒に立ちのぼる。
「ノアさん、どうぞ」
俺は木椀を受け取った。
「ありがとうございます」
「がはは、うまいな。坊主も食え食え」
「はいっす。後で食います」
俺は自分の椀を鍋の脇にそっと置いた。
ガルドは3杯目をよそっている。
勇者は椀を受け取ると、黙って立ち上がった。
輪から離れて、岩陰に座る。背中をこっちに向けたまま、動かない。
「大将はいつもああだ。気にすんな」
ガルドが匙を振った。
「勇者さまは、きっとお一人の方が落ち着くんですよ」
セレナが小さく言った。
しばらくして、空の椀が岩陰から戻ってきた。
俺はその椀を鍋の脇の自分の椀の隣に並べた。
◇
夜、寒さで目が覚めた。
火は小さくなっていた。ガルドのいびきがでかい。
見張りは勇者だ。
焚き火の向こうで、勇者さまが俺を見ていた。
目が合っても、そらさなかった。
俺の方が、先にそらした。
……寝たふり、すりゃよかった。




