第18話 帰りの荷がない
手袋は、一晩たっても乾いた血の匂いがした。
21日目の朝。
礼拝堂の扉を押した。
埃の匂いがした。
冷えた石の匂いだ。
祭壇の前に、白い法衣の背中がある。
セレナさまだ。
膝をついてる。
ロザリオの木の玉が指の間からぶら下がってる。
唇が動いてる。
声はない。
俺は扉を閉めた。
石の床に座った。
背中に大剣の柄が当たる。
待った。
セレナさまが立ち上がった。
振り返った。
目が赤い。
「ノアさん」
「あの、これ」
懐から手袋を出した。
黒い革の手袋だ。
片方だけ。
指先から手首まで、ごわごわに固まってる。
乾いた血だ。
セレナさまが目を落とした。
手袋を見た。
動かない。
「……これ」
「勇者さまの部屋の前で拾ったんす」
「部屋の前」
「井戸へ下りる階段の脇っす」
セレナさまの手が伸びた。
手袋を受け取った。
固まった革の上を指が辿る。
「……いつ」
「夜中っす。勇者さま、部屋にいなかったんす」
セレナさまの手が下がった。
膝の上に落ちた。
「あともう1つ」
声が低くなった。
「東の塔の瓦礫の下に、ガルドさんの剣があったんす」
「……大剣が」
「隠してあったんす。瓦礫の奥に」
背中の柄に手を回した。
肩紐の横の重みが揺れた。
「なんか、持てるようになって」
そこで止まった。
うまく言えない。
おとといは浮かなかった。
今日は担げる。
それだけ言った。
セレナさまの顔から色が落ちた。
唇が白くなった。
手袋を持った手が震えてる。
「……勇者さまは、今どこに」
「分からないっす」
セレナさまの、手袋を持ってない方の手がロザリオを握った。
木の玉が鳴った。
静かだ。
セレナさまが手袋を膝の上に置いた。
「調べましょう」
声が低かった。
石の床に落ちるくらい、低い。
「え、でも、勇者さまの荷物っすよ」
声が裏返った。
喉が乾いた。
背負子の肩紐が、肩に食い込んだ。
「無理無理無理」
首が横に振れた。
止まらない。
手が勝手に動く。
セレナさまが俺の手をつかんだ。
細い指だ。
米袋の口を縛る麻紐より細い。
でも、離さない。
「疑いで人は救えないって言ったの、私ですけど」
声が震えてた。
琥珀色の目が、まっすぐ来た。
「……確かめるのは、疑うのとは違います」
唇が白い。
震えてる。
でも、目が逸れない。
俺は目を逸らした。
石の床を見た。
埃が灯りに浮いてる。
セレナさまの手が、俺の手を離さない。
「昼は、勇者さまが城壁の見張りに立ちます」
「あ、はい」
「その間なら、お部屋は空いています」
「……はい」
「見張りは、私が音で知らせます」
セレナさまがロザリオの玉を握り直した。
木と木が当たる、かすかな音がした。
石の床に、2人の影が伸びてる。
埃が動かない。
静かだ。
俺は口を開いた。
喉が引きつった。
「俺が探すんすか……」
◇
21日目の昼。
城壁へ上がる石段を、黒い外套が上っていく。
振り返らなかった。
一度も。
銀の短髪が灰の空に消えた。
俺はセレナさまと廊下の角に立って、見送った。
屍鬼は昼は動かない。
森の際の灰の中に沈んでる。
蠢きもしない。
灰の波が打ち寄せたまま止まったみたいだ。
セレナさまが廊下の端に歩いた。
壁に背を預ける。
ロザリオを握った。
木の玉が指の間で白くなる。
目は廊下の角に向いてる。
勇者さまが戻ってきたら、足音がする。
石の廊下に革靴が鳴る。
その音が聞こえたら知らせる、と言った。
俺は頷いた。
ランプを提げて、廊下を歩き出す。
背中に大剣の柄がある。
背負子の黒い箱が肩紐で揺れる。
ぶつかる。
鉄と鉄が当たる音がした。
止まった。
肩紐を締め直す。
大剣の柄を肩から離す。
隙間に畳んだ外套を挟む。
積み荷の隙間に藁を詰めるのと同じだ。
鳴らない。
歩き出した。
つま先で撫でるように。
トビの声が耳の奥で鳴る。
つま先で撫でろ。
踵から着いた。
駄目だ。
石の床に踵が当たる。
乾いた音が1つ。
足が止まった。
やっぱりできない。
5年やっても荷物持ちの足だ。
盗賊の足じゃない。
息を吐く。
廊下は短い。
天井が低い。
荷馬が通り抜けられない幅だ。
廊下の奥に扉がある。
勇者さまの部屋の扉だ。
井戸へ下りる階段の脇にある。
歩くたびに近くなる。
自分の足の音だけだ。
廊下の角で、セレナさまの白い法衣が見える。
動かない。
扉の前に立った。
扉は閉まってる。
昨夜は細く開いてた。
今は閉まってる。
中から音はしない。
手が止まった。
……やっぱり、怖いっす。
押した。
石が擦れる。
隙間から冷気が流れ出た。
中は暗い。
ランプを差し込んだ。
橙色の光が小さな部屋を這う。
狭い部屋だ。
寝床が1つ。
毛布だけ。
枕はない。
壁際に革の鞄が1つ。
口が緩んでる。
勇者さまの荷だ。
膝をついた。
手が震える。
背中の大剣の柄が壁に当たった。
舌打ちしたくなった。
音が大きい。
鞄を開けた。
荷役の目で見る。
入ってるものは少ない。
砥石が1つ。
刃の粉が黒くこびりついてる。
替えの黒い外套が1着。
畳んであるだけだ。
小袋が1つ。
中は空だ。
それだけだった。
ぱっと見は、それだけしか入ってない。
荷物持ちの俺には分かる。
この荷、軽すぎる。
40日の旅の荷じゃない。
片道の荷だ。
帰りの荷がない。
鞄の底に、手が触れた。
硬いものがある。
革の文入れだった。
小さい。
文入れに封蝋はない。
紐が解けてる。
手が止まった。
開ける前に、鞄の隅で金属が光った。
指で引っ張り出した。
錆びた金属片だ。
小さい。
指2本分くらい。
よく見ると、騎士章だった。
30年前の遠征隊の紋だ。
大広間で、盾を抱いた骸の胸から、勇者さまが外したやつだ。
「……これ、あの骸の」
声が出た。
喉が詰まる。
なんで勇者さまが持ってる。
意味が分からない。
分からないけど、背筋が粟立った。
騎士章を鞄に戻した。
文入れの紐をほどいた。
文入れは薄い。
指を入れると、紙の感触がした。
いや、違う。
紙じゃない。
灰だ。
指先が黒くなる。
文入れの中は、ほとんど灰だった。
燃やしてある。
丁寧に燃やしてある。
灰の中に、1枚だけ残ってる。
端が焦げてる。
でも形が残ってる。
紙だ。
赤い蝋がついてる。
封蝋だ。
王家の紋が押してある。
指で灰を払った。
紙を持つ。
薄い。軽い。荷札より軽い。
読める文字が1行だけある。
『器が育つまで、同行者を絶やすな』
声に出して読んだ。
喉が乾いて、最後が掠れた。
紙の端に、小さい文字がある。
『宰相府』
読めた。
それだけだ。
他の文字は焦げて読めない。
黒く縮れて、意味にならない。
灰が指についてる。
文入れを持ったまま、動けなかった。
「器……?」
セレナさまの声だ。
戸口から覗いてる。
白い法衣の端が、扉の隙間に見える。
1歩だけ中に入った。
紙を持った手が震えてる。
灰が落ちた。
床の上で、黒い点になった。
器。
言われてから、背中に手を回した。
背負子の奥、革の隙間に指が触れる。
黒い鉄の箱だ。
拳で、こつんと叩いた。
中が空っぽの音がした。
米袋の底を叩いたときと同じ、薄い音だ。
「箱のことじゃないっすね。これ、空っぽだし」
声に出して、自分でもよく分からないことを言った。
セレナさまが俺の手元の紙をのぞき込んで、かすかに首を振った。
「同行者は、私たちのことですね」
喉の奥で、言葉が固まった。
勇者さまが魔王を倒せる『器』に育つまで。
そのための、同行者。
俺たちを――。
トビも、ガルドさんも。
勇者さまは人間の中では一番強い。
でも、魔王には届かない。
まだ、届かない。
だから、育つまで。
育つまで、何かのために使ってる。
そう読んでから、膝が震えた。
文入れを握る指が白くなった。
灰がまた1粒落ちた。
黒い点になる。
セレナさまの手を見た。
ロザリオを握った手が震えてる。
肩紐より細い指だ。
俺は、その手を握った。
冷たい。
でも、握り返してきた。
指に力が入った。
文入れの紐を結び直した。
鞄の底に戻した。
灰が指に残ってる。
黒い。
荷札を括るより、ずっと軽い結びだ。
「セレナさま、出ましょう」
握っていた手が、そっとほどけた。
セレナさまが俺を見た。
「さま、は、やめてください。今は」
声が低い。
部屋の埃が、灯りの中で止まってる。
俺は背負子の肩紐を握った。
指の間で、革がきしむ。
「……セレナさん」
言ってから、口の中が乾いた。
セレナさんが小さく笑った。
唇だけだ。
目は笑ってない。
でも、笑った。
そのあとだ。
セレナさんの視線が、俺の肩越しに止まった。
顔が凍った。
琥珀色の目が、動かない。
唇が白い。
息を吐く音すら、消えた。
俺は気づいた。
背中の大剣の柄が、急に冷たくなった。
いや、違う。
冷たいのは、俺の背中だ。
襟のところから、冷たいものが下りてくる。
見張りの合図の音は、しなかった。
背後で、靴底が石を擦った。
振り向く前に、声がした。
「探し物は、見つかったか」




