第16話 坊主――
見張りは、嫌いじゃない。
ガルドさんと一緒なら、もっと嫌いじゃない。
19日目の夕方。
城壁の上。
灰の向こうに白い目が並んでる。
数えない。
数えると荷崩れみたいに気持ちが崩れる。
屍鬼は動かない。
森の際の灰に埋もれたまま、こっちを見てるだけだ。
風が止まってる。
匂いも来ない。
「来ねえなら来ねえで、気味が悪いな」
ガルドさんが大剣の柄に肘を乗せた。
「がはは」とは笑わない。
声だけが城壁にこだました。
俺は膝を抱えて座ってる。
石が冷たい。昼に温めても夕方には冷める。
灰の空を見上げる。星がない。
「続き、話していいか」
「はい」
ガルドさんが大剣の刃を見た。
鈍く光る。血の跡は拭いてある。
「あいつな、10歳のときに言ったんだ」
「大きくなったら荷物持ちになるって」
「親父の剣を運んでやるって」
俺は息を止めた。
「なんで剣士にならないって聞いたら、こう言いやがった」
「親父の剣は重いから、一番重いものを運ぶやつが一番偉いって」
「剣士より荷物持ちのほうが偉いって言われて、どう返せってんだ」
「がはは」
今度は笑った。
でも目は笑ってない。
俺は少しだけ笑った。
口の端だけ。
「……いい子っすね」
「だろ」
ガルドさんが頷いた。
風が吹いた。灰が石の床を這う。
白い目が1つ、揺れた気がした。
でも動かない。
「坊主も、息子も、おんなじ顔するんだよ」
「重いもの背負って、へらへら笑って」
俺は首を振った。
「へらへらしてないっす」
「してるしてる」
ガルドさんが俺の頭をぐしゃぐしゃにした。
まただ。痛い。
でも振り払わない。
ガルドさんが懐から小さな革袋を出した。
ぶどう酒だ。栓を抜くと甘ったるい匂いが石の風に乗った。
「一口いけ」
差し出された。
「酒、だめなんで」
首を横に振る。
「酒もか。お前、ちゃんと食ってるか」
「食ってますって」
「嘘つけ、腕が細え」
ガルドさんが俺の腕をつかんだ。
熊の手みたいな指だ。
指が、俺の腕を1周して余った。
「がはは」
笑い声が城壁に響く。
「食え食え」
革袋を自分に戻して一口飲んだ。喉がごくりと動く。
俺は腕を引っ込めようとした。でも放してくれない。
「ガルドさん、痛いっす」
白い目が向こうで揺れた気がした。
風が吹いて革袋の匂いが消えた。
ガルドさんが手を離した。
革袋を腰に戻す。
大剣の柄を叩いた。鈍い音が石壁に反射した。
「よし、男の稽古だ」
立ち上がった。影が伸びる。城壁の縁まで覆う。
「剣、持ってみろ」
ガルドさんが背中の大剣を外して、石の上に寝かせた。
身の丈ほどある。
俺は大剣の前にしゃがんだ。
両手で柄を握った。
鉄の匂いが鼻に来る。
腰を落とした。
足を踏ん張った。
腰の芯に力を入れた。
5年分の荷役の足だ。
米俵だって楽に持ち上げる。
切っ先が石の床から浮かない。
1寸も浮かない。
指が白くなってる。
力が入ってる。
入ってるのに動かない。
「無理っす、これ米俵3つ分ありますって」
ガルドさんが腹を抱えた。
「がはは! 米俵3つだって!」
笑い声が城壁に跳ねた。
灰の向こうの白い目が揺れた気がした。
手を離した。
指が冷えて、震えてる。
掌が鉄の匂いで染まってる。
ガルドさんが大剣を拾い上げた。
片手で柄を持って、刃を肩に乗せた。
米俵を担ぐみたいに。
「そのうちな」
ガルドさんが石の上を踏みしめた。
右足が前に出る。
同時に肩の大剣が落ちた。
腰が沈む。
刃が石を1寸切って止まった。
火花が散った。
風もないのに灰が舞った。
「兜割りだ。腕で振るな。担いで、腰で落とす。荷物と同じだろうが」
ガルドさんの声が低かった。
城壁にこだまする。
荷物と同じ、って。
思わず笑った。
俺は石に座ったまま見上げてた。
荷物と同じ。
担いで、腰で落とす。
腕で振らない。
口の中で繰り返した。
声には出さない。
……わかるような、わかんないような。
でも、米俵を担いで腰を入れるときの感覚は、わかる。
背負子の紐が肩に食い込んで、膝が折れて、重心が落ちる。
あれだ。
剣もあれだ。
空を見上げた。
塔の窓が開いてる。
紫の目が2つ、こっちを見てた。
エルマだ。
ローブの袖が窓枠に垂れてる。
俺は手を上げた。
小さく振った。
塔の上で窓板が音を立てて閉まった。
風が吹いた。灰が俺の膝に乗った。
「ちびも見張りか。熱心なこった」
ガルドさんが肩をすくめた。
大剣を背中に戻す。
刃が鞘の底に当たる音がした。
俺は膝を抱えた。
石が冷たい。
ガルドさんが薪を足して、隣に座った。
大剣の柄が俺の肩に当たった。
ガルドさんが外套の前を開いた。
半分が俺の肩にかかった。
熊の毛皮みたいに厚い。
匂いがした。鉄と油とぶどう酒だ。
「……ありがとうございます」
「寒いだろ」
ガルドさんが空を見た。
灰の天井だ。星はない。
俺も見上げた。
風が吹くたび、灰が外套の上を流れていく。
夜が底に沈んだ。
焚き火の薪が赤い炭に変わる。
ガルドさんが火を見てる。
「坊主」
「はい」
「墓の前だ。ちゃんと連れてくからな」
「……はい」
「紹介してやるよ。一番重いもん運ぶやつだって」
俺は頷いた。
ガルドさんが空の革袋を撫でた。
「大将には内緒だ」
「あ、はい」
会話が途切れた。
風がない。
灰の向こうで白い目が並んでる。
動かない。
瞬かない。
ガルドさんが外套の裾を直した。
肩の温かさが広がる。
火が細くなる。
薪が崩れる。
赤い粉が闇に散る。
石の城壁に音が反響する。
ぱちん。
ぱちり。
ぱちん。
誰も喋らない。
白い目が動かない。
音だけが城壁に染みる。
ひどく腹が減っている。
赤い炭が小さく爆ぜる。
灰が風に乗って外套の肩を撫でる。
熊の毛皮みたいな重みが、石の上に沈んでいる。
隣の気配が、こっちを向いた。
「坊主――」
その続きを、俺は聞いていない。
灰色の朝だった。
20日目。
目を開けた。
灰の空だ。
城壁の上だ。
肩に重みがある。
ガルドさんの外套だ。
でも温かくない。
隣を見た。
いない。
ガルドさんがいない。
大剣もない。
焚き火は冷たい灰だ。
赤い炭じゃない。
鉄の匂いもぶどう酒の匂いもない。
立ち上がった。
外套が肩から滑り落ちそうになった。
掴んだ。
城壁の上を見回した。
「ガルドさん?」
返事がない。
外套を抱えて、大広間へ走った。
勇者さまが壁に背を預けて座っていた。
聖剣を膝に横たえている。
目は開いていた。
「勇者さま」
「ガルドさんがいない」
勇者さまが俺を1回見た。
何も言わなかった。
聖剣を腰に上げて立ち上がった。
セレナさまの声が廊下から聞こえた。
「ガルドさん?」
セレナさまが大広間の戸口に立っていた。
銀の髪が灰の光に白い。
「ガルドさん、どこですか」
声が震えている。
エルマが階段を降りてきた。
杖を持っている。ススが肩に乗っている。
「……何かあったの」
エルマの目が、俺の腕の外套に行った。
「ガルドさん、いないんす」
エルマの顔から色が消えた。
3秒。
紫の目が俺の顔をなぞった。
「探すぞ」
勇者さまが大広間の戸を開けた。
城壁の上を歩いた。
灰が積もっている。
俺が昨夜座っていた石に、大剣が切った1寸の傷だけが残ってる。
「ガルドさん!」
セレナさまの声が風に消えた。
返事はない。
塔にも、大広間にも、地下にもいない。
中庭に戻った。
風がない。
灰が降りている。
セレナさまが井戸の前に立った。
覗き込んだ。
「ガルドさん」
声が井戸の底に落ちた。
返事はない。
勇者さまが中庭を横切った。
聖剣に手をかけたまま、歩く。何も言わない。
エルマが井戸の前で足を止めた。
杖の先が石を突いた。
止まった。
井戸の縁を見てる。
エルマの顔が白い。
紙みたいに。
「……荷物持ち」
声が低い。
エルマが杖を上げた。
井戸の縁の石を指さした。
黒い筋がついている。
血だ。
乾きかけの黒い血が、石の縁を伝っている。
滑車の綱が濡れている。
しずくが石の縁から落ちていた。
黒い、滴だった。
ランプを荷から出した。
火を入れた。
橙色の光が石の縁を舐める。
綱に結んだ。
滑車が軋む。
錆びた音が中庭に響く。
ランプが縁を離れた。
石の壁を光が降りていく。
壁が濡れてる。
苔と黒い汚れが光の中で動いてるみたいだ。
底が見えない。
光が水面に触れた。
揺れた。
赤い。
赤茶の短髪が浮いてる。
セレナさまが口を押さえた。
指の間から息が漏れてる。
声じゃない。吐息みたいな音だ。
俺は綱を見てる。
ランプの光が揺れるたびに、水面の髪が揺れる。
死体を運ぶのは、荷物持ちの仕事だ。
口の中で言った。
自分に言い聞かせた。
声が震えてた。
目が熱い。
泣きそうだ。
怖い。
でも降りなきゃいけない。
滑車の綱を体に巻いた。
肩に食い込む。
背負子の紐と同じ場所だ。
勇者さまが綱を握った。
何も言わずに、俺を下ろした。
縁に足をかけた。
石が冷たい。
水と鉄の匂いが上がってくる。
底から。
綱を握った。
手がかじかんで、綱が滑りそうだ。
力を込めた。
足が石から離れた。
石の壁が目の前を過ぎていく。
ランプの光が足元で揺れてる。
水面が近くなる。
赤茶の髪が見える。
手を伸ばした。
肩を掴んだ。
引き寄せた。
軽い。
水が抜けた革袋みたいに軽い。
体が傾いた。
上半身だけが水面から持ち上がった。
腰から下がない。
断面が見えた。
刃で切った跡じゃない。
引きちぎった跡だ。肉が不揃いに飛び出してる。
白い肋骨が3本、折れて覗いてる。
先が黒い。
水に浸かってたんだ。
左手が垂れてる。
薬指に細い指輪が残ってる。
銀に錆びが浮いた、細い輪だ。
撫でてた指輪だ。
なぞってた縁だ。
……軽い。
荷揚げ場の水死体は、2人がかりだった。
ガルドさんは、片手で上がる。
半分しかないからだ。
……俺、今、目方を量ってた。
自分の腕を見た。
手が震えてる。
吐き気が上がってきた。
喉の奥から。
こんなこと比べるなんて、俺は何なんだ。
ガルドさんの背中に腕を回した。
胸に抱いた。
頭が肩に乗る。
無精ひげが頬に当たる。
冷たい。
鉄と水と腐った匂いが染み込んでる。
ぶどう酒の匂いはしない。
綱が引かれた。
上で勇者さまが滑車を回してる。
石の壁が目の前を過ぎていく。
ガルドさんの体が揺れる。
血が胸の上を伝って袖に沁みる。
温かくない。
もう温かくない。
縁に手が掛かった。
引き上げた。
石の縁にガルドさんの上半身を横たえた。
腕が石に落ちた。
音がしない。
ゆっくり落ちただけだ。
指が動かない。
見下ろした。
目が閉じてる。
開かない。
顔が白い。水で抜けたみたいに白い。
口が半開きだ。
中が黒い。
匂いが来た。
鉄と水と、それから奥のほうに、甘い腐りがある。
……ああ。
胃がひっくり返った。
縁に手をついた。
吐いた。
何が出たかは見てない。
見たくない。
目が熱い。
止まらない。
涙が出た。
声が出た。
喉から。
何て声か自分でもわからない。
叫びみたいな泣き声だ。
石の縁に額を押し付けた。
泣いた。
声が中庭に響いた。
返事はない。
セレナさまが膝から崩れた。
法衣の裾が灰を吸う。
石の縁に手をついて、体が折れた。
声は出てない。
泣いてる。声がない。
肩が震えてる。
銀の髪が灰に垂れてる。
勇者さまが縁に立ってる。
見下ろしてる。
聖剣の柄に手をかけたまま。
氷みたいな薄青の目が、ガルドさんの断面を見てる。
肋骨を見てる。
指輪を見てる。
エルマは、ガルドさんを見てなかった。
俺の口元を見てた。
「……大剣はどこだ」
顔を上げた。
勇者さまの薄青の目が井戸を見てる。
目が熱い。涙で滲んでる。
ガルドさんの背中を見た。
大剣がない。
あの身の丈ほどの鉄が消えてる。
背負っていたはずの重みがない。
井戸を覗いた。
ランプの光が水面を揺らす。
底にも何もない。
沈んでない。何もない。
エルマが城壁を見上げた。
杖の先が石の上を指す。
城壁の上にもない。
今朝見た通りだ。
大剣だけがない。
誰も答えない。
米俵3つ分だ。
俺には、切っ先も浮かせられなかった。
あんな重いもの、誰が。




