第13話 食べない者を信じるな
15日目。
灰が、横から降るようになった。
雪じゃない。灰だ。
背負子の肩紐に灰が積もる。
1時間で鉄の錘1個分くらいの重さになる。
風が強くなるたびに肩が沈む。
荷崩れじゃない。灰崩れだ。
視界が3歩先までしかない。
黒い木の幹が灰の中に浮かんでは消える。
足元の根が這ってるのかもわからない。
一歩踏み出すたびに足が沈むか根に引っかかるか。
どっちも嫌な踏み心地だ。
5年目の足でもこんな足場は初めてだ。
ガルドさんが荷馬の手綱を引いてる。
手綱が見えない。
荷馬の鼻が見えるくらいだ。
栗毛が灰の中でぶるっと体を震わせた。
こいつも嫌がってる。
わかるぞ。
俺だって帰りたい。
セレナさまがガルドさんの背中のあとを歩いてる。
法衣の裾が灰を引きずってる音がする。
エルマは俺の3歩後ろ。
杖が灰を突く音だけが聞こえる。
頼りない音だ。
「トビさんなら」
口が勝手に動いた。
言いかけて黙った。
トビさんはもういない。
道を覚えてたのはトビさんだけだった。
つま先で撫でろ。
灰の上でも道は読めたんだろうか。
今はもう聞けない。
返事はどこにもない。
前を歩く勇者さまが止まった。
振り返らない。
地図も見てない。見る必要がないみたいに。
「黒鉄砦へ行く」
それだけだった。
理由は言わない。いつもと同じだ。
ガルドさんが舌打ちした。
「30年前の連中が帰ってこなかった砦だろうが」
灰が舞った。
「縁起でもねえ」
そう言いながらガルドさんは手綱を引いた。
従った。
セレナさまがロザリオを握った。
唇が動いて止まった。
「その方たちのために、祈れますね」
小さかった。
灰の風に溶けるくらい小さかった。
でも聞こえた。
勇者さまは答えなかった。
歩き出した。
俺も歩いた。
背負子の灰が肩に食い込む。
黒い箱は重いまま動かない。
灰が薄れた。
風が横から吹き抜けて、灰の幕を一度に剥いだ。
黒い石が現れた。
壁だ。
灰と同じ色だから、近づくまでわからなかった。
垂直の石の壁が左右に伸びてる。
高さは……荷馬車を4台積んでも届かない。
壁が途切れたところに、門があった。
石の門柱が2本。
鉄の格子は上がったまま錆びついている。
門の前で、栗毛が足を突っ張った。
前脚が灰に食い込んで動かない。
手綱を引いた。
動かない。
蹄が灰を掘るだけだ。
栗毛が鼻面を俺に向けた。
歯をむいた。
黄色い歯が見えた。
嘶いた。
高い声が石の壁に跳ね返った。
手綱を持ったまま後ずさった。
5年間で何頭も荷馬を扱ってきた。
噛まれたことも蹴られたこともある。
でも、嘶いて拒絶されたのは初めてだ。
大きな手が上から来て、手綱を取った。
ガルドさんだった。
「ほらほら」
ガルドさんが手綱を引くと、栗毛が耳を伏せた。
でも動いた。
大人しく門のほうへ足を出した。
俺のほうを向いて、もう1回だけ歯をむいた。
「坊主、馬にまで嫌われてんのか」
ガルドさんが笑った。
「がはは」
笑い声が石の壁に反響した。
トビさんが死んでから、初めての笑いだ。
でもすぐに途切れた。
無精ひげの下で、笑みが消えた。
……トビさんがいたら、絶対乗っかってきたのにな。
「俺、昔から動物には好かれないんすよ……」
声が小さくなった。
エルマは何も言わなかった。
帽子のつばの下で、紫の目が俺と栗毛を交互に見てる。
何かを確かめる目だ。
何を確かめてるのか、わからない。
門をくぐった。
鉄の格子が頭上を過ぎた。
石の門柱の内側。
壁に、何かがついている。
黒い。
乾いている。
手だ。
手形だ。
石に押し付けられた手形が、上から下まで無数についている。
細い手から、ガルドさんくらい大きな手まで。
指が開いたまま石に食い込んでる。
爪の痕まで残ってるものがある。
下のほうはまだ黒い。
上のほうは灰に埋もれて半分消えている。
……何だ、これ。
◇
15日目の夜。
黒鉄砦の大広間。
壁際に、十数体の骸が座っていた。
鎧をつけたまま、背を石の壁に預けて、並んでいる。
動かない。
近づいてわかった。
干からびてる。
鉄の鎧の隙間から、茶色い皮が見える。
骨に貼りついている。
顔はない。
頬の肉が削げて、眼窩が2つの穴になってる。
口が開いてる。歯が並んでる。
全部、残ってる。
臭いがほとんどしない。乾いた革の匂いだけだ。
……綺麗だ。
変な言い方だと思った。
でも、そうとしか思えなかった。
王都の荷揚げ場で、行き倒れを見たことがある。
路地裏の荷置き場で、冬の朝に2回。
あのときは野良犬が漁ってた。腹が割けてた。
顔も半分なかった。
こいつらは違う。
腹がつぶれて、中身が残ってる。
皮が骨に巻きついてるだけ。
獣に荒らされてない。
鎧も服も、そのまんま。
……こんなに綺麗に残るもんか。
俺は鎧を見た。
革紐で留めた板金。肩当てが錆びてる。
……たぶん米俵1つ分だ。
ガルドさんが壁際の骸に手をかけた。
「せめて埋めてやろう」
鎧の肩を持ち上げた。
動かなかった。
錆びついてる。鎧が石の床に。
ガルドさんがもう1回やった。力いっぱい。
鉄がきしむ音がした。
石の粉が錆の隙間から落ちた。
動かなかった。
「くそ」
ガルドさんの声が低かった。
「錆びついてやがる」
「放っておけ」
勇者さまの声だった。
広間の奥を見ていた。
俺も見た。
一段高いところがあった。石の段。
その上に椅子があった。
椅子に、座っていた。鎧ごと。
金の縁取りがあった鎧だ。
縁取りは錆びて、緑色になってる。
膝に剣が乗ってる。
刃こぼれしてる。先が折れて、曲がってる。
首が垂れてる。
胸甲の上に兜が載ったまま、顔が下を向いてる。
玉座の王だ。
30年、座っていた。
30年、この砦で。
待っていたのか。待たされたのか。
「大将」
ガルドさんの声だった。
勇者さまは振り返らなかった。
「放っておけ」
もう1回だけ言った。
俺は黙った。
帰りたいな。
ミナ、薬飲んでるかな。
勇者さまが動いた。
俺は荷紐を解く手を止めた。
壁際の骸の1体の前で止まった。
割れた盾を抱いて座っている骸だ。
盾に白い鷲の紋。
俺の位置からは背中しか見えない。
黒い外套が垂れている。風はない。
勇者さまが片膝をついた。
石の床に。音はなかった。
骸の鎧に手が伸びた。胸のところ。
何かがついていた。小さい。錆びている。
指で留め金を外した。
革紐が千切れる音がした。乾いた音だ。
錆びた金属を掌に受けた。
懐に入れた。
音もなく。
誰も見ていない。
ガルドさんは壁際の骸を調べてる。
セレナさまはロザリオを握ってる。
エルマは柱の陰だ。
俺だけが見てた。
勇者さまが立ち上がった。
目が合った。
氷の薄青の目が俺を見てる。
何も言わない。説明もしない。
背を向けた。
戻ってきた。外套が翻らなかった。
俺は荷紐に指を戻した。
セレナさまが動いた。
骸の列の前で膝をついた。
法衣の裾が石の床を滑った。
ロザリオを胸に当てた。
唇が動いてる。声は出ない。
骸の列に向かって。
長い間、頭を下げていた。
俺はその間に寝床を作った。
暖炉の前。石の床は冷たい。
荷馬の荷から毛布を5枚引き出した。
背負子の底板を下に敷く。
5枚目の角が揃わない。
毛布の端を内側に折る。
ガルドさんが俺の寝床を覗き込んだ。
「坊主の寝床はいつも平らだな」
「……癖っすね」
「褒めてんだぞ」
「はい」
ガルドさんが俺の頭を1回だけ叩いた。
手のひらが厚い。今回は軽かった。
セレナさまが立ち上がった。
頬に灰がついている。拭かなかった。
毛布に膝を突いた。
目を閉じた。
そのまま横になった。ロザリオを握ったまま。
エルマが柱の陰から出て、毛布に潜り込んだ。
ススが襟から顔を出した。
帽子は被ったまま。
ガルドさんのいびきが始まった。
荷車の車輪みたいに規則的だ。
勇者さまは輪から離れていた。
広間の隅。壁に背中を預けている。
目は閉じていない。
寝床に入る前、俺は振り返った。
石の段の上。
椅子に座った、30年前の勇者。
首は垂れたまま。
兜の奥が暗い。
◇
16日目の朝。
水を探すのは荷物持ちの仕事だ。
中庭の井戸に釣瓶を落とした。
縄がずるりと伸びる。
重い。
荷馬1頭分の縄が底に届いて、やっと音が返ってきた。
滑車がひどく軋んだ。
錆びた鉄の音が井戸の中で反響する。
釣瓶1つ分の水の重さを、背負子と同じ肩で引き上げた。
肩が鳴った。
次は食料庫だ。
ランプの油を足して、石階段を降りた。
暗い。
灯りを持って降りても、石の壁が光を吸う。
足元が見えない。
5段目で、息が止まった。
人がいた。
灯りの届かない闇の中に、立っている。
影だ。
動かない。
「うわっ!」
本気で声が出た。
ランプを落としそうになった。
「なんで灯りつけないんすか!」
俺は自分の声にびびった。
エルマだ。
暗闇に1人で立ってる。
「つける前にあんたが来たの」
エルマの声は低い。
帽子のつばの下で紫の目が光ってる。
「心臓止まるかと思ったっす」
口から勝手に言葉が出た。
ランプの火が揺れてる。
俺の手が震えてるせいだ。
エルマは俺を見てない。
壁を見てる。
俺も壁を見た。
ランプをかざした。
石の壁に、何かがある。
引っかいた跡だ。
文字だ。
溝に、白いものが食い込んでる。
爪だ。
爪の欠片が、石の溝にへばりついてる。
ランプを壁に向けた。
光が溝を拾った。
『食べない者を信じるな』
「読める?」
エルマの声だった。
「読めるっす。……意味分かんねえ」
口から出た。
本当のことだ。
文字は乱れてない。
筆跡は震えてる。でも形は揃ってる。
書いた奴は字を知ってた。兵士か、騎士か。
エルマが俺の顔を見た。
長かった。
3秒。いや5秒。
俺は息を止めた。
「……そう?」
それだけ言って、エルマは俺の横を抜けた。
杖が石階段を叩く音が上がっていく。
静かになった。
俺は1人で文字を見た。
ランプの火が揺れるたびに溝の影が動く。
指で触れた。
石が冷たい。
爪の欠片が指先に当たる。ざらついてる。乾いてる。
溝の深さを見た。
……深い。
指1本分はある。
いや、書いた奴の指先が削れたんだ。石に削られて。
爪が剥がれたところから血が出て、それで滑って、また掘った。
そんなふうに掘り続けないと、この深さにならない。
指を離した。
石が冷たかった。
ランプの火だけが、闇の中で揺れていた。
◇
16日目の夕方。
嵐が弱まった。
城壁への石階段を登った。
ガルドさんが先に立ってる。
大剣を背中に背負ったまま。
石の上に灰が積もってる。
風が吹くたびに灰が舞う。
視界が悪い。砦の外は灰の帳だ。
「ここなら見張りにちょうどいいっすね」
俺は石の柵に手をかけた。
冷たい。
ガルドさんが鼻で笑った。
「坊主、さっき地下でちびと何してた」
「何もしてないっすよ!」
声が裏返った。
「いや俺なんかはただ食料庫見に降りただけで」
「降りる階段で顔合わせてたよな」
「顔合わせただけっす!」
「顔合わせて何してた」
「何もしてないっす!」
「がはは」
ガルドさんの笑い声が城壁に響いた。
「照れるなよ。若いうちは」
「照れてないっす!本当に何も」
ガルドさんの声が途中で止まった。
「……坊主」
「はい」
「見ろ」
ガルドさんが外を指さした。
俺も目を細めた。
灰の帳の向こう。
森の際が見えた。
黒い木の幹が並んでる。
その前に白い点があった。
1つ。
2つ。
4つ。
増えてる。
数えきれない。
白い。
丸い。
……目だ。
俺は息を止めた。
石の柵を握る手に力が入った。
ガルドさんが大剣を抜いた。
背中から。
重い音がして、刃が灰色の光を拾った。
音がした。
階段を登る音。
勇者さまが城壁に上がってきた。
黒い外套が風に揺れた。
勇者さまは外を見た。
灰の向こう。
白い点を見た。
「屍鬼だ」
それだけだった。
白い目は、瞬きをしなかった。
「……勇者さま。あれ、何匹いるんすか」
勇者さまは答えなかった。
――囲まれていた。




