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第三章 絶対防衛システムのバグ

 王都へ続く、深い霧に包まれた渓谷の街道。中央魔導銀行・本店からの刺客を警戒し、クラースとルナは人目を避けて移動を続けていた。「ねえ、クラース。銀行の対応が静かすぎるわ」ルナが周囲の霧を警戒しながら、押し殺した声で言った。「オークの資産を凍結させ、最高戦力のバルタザールを紙屑に変えたのよ?銀行にとっては、あたしたちはシステムを揺るがす最悪のウイルス。もっと大軍勢が押し寄せてきてもおかしくないのに……」「いや、これでいい」クラースは灰色のフィールドコートのポケットに両手を深く突き入れたまま、冷淡に霧の奥を見つめていた。「銀行という巨大なシステムは、融資や為替といった自らのルールで処理できない異分子が現れた時、まずはそれを隔離しようとする。今、この渓谷の周囲の空間だけ、銀行のサーバー電波:魔導信号が完全に遮断されている。……つまり、ここは市場の目が届かないブラックボックス:暗殺区画だ」その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。ゾクッ、とルナの背筋に、これまでにない強烈な悪寒が走った。魔力の気配が、全くしない。それなのに物理的な死の気配だけが、霧の奥から津波のように押し寄せてきた。



「伏せろ、ルナ!」



 クラースの鋭い声と同時に、霧を切り裂いて三本の鉄の投げ刃が飛来した。ガキィィン! と激しい金属音が響く。ルナが間一髪で野良の双剣を振るい、刃を弾き飛ばした。だが、その衝撃の重さにルナの腕が痺れる。霧の向こうから音もなく姿を現したのは、全身を漆黒の防具で固めた十人の影。彼らの頭上には、水晶のステータスプレートが浮かんでいなかった。中央銀行に口座を持たず、スキルも一切インストールしていない、純粋な肉体の暴力だけで生きる本物の暗殺集団。通称デッド・ストック:不良在庫」「ターゲット確認。魔言のバグ、クラース・アークライト」暗殺者のリーダーが、感情のない声で告げた。「お前がスキルのロゴスを書き換える悪魔だという情報は、本店から買っている。……だが、俺たちには書き換えるべきスキルなど、最初から一つもない」ドッ、と凄まじい踏み込みの音と共に、三人の暗殺者がクラースへ肉薄する。速い。魔法による加速ではない。長年鍛え上げられた、純粋な筋肉と骨格による物理的な突進。「クラース、目隠し:ブラインドを!」「無駄だ。ハックする対象:スキルがない!」クラースは紅蓮の瞳を鋭く見開いた。ポケットの中で「右手の金色の万年筆」を握るが、彼の脳内に流れ込んでくるのは、周囲の空間データのみ。目の前の暗殺者たちは、銀行のシステムに一切同期していないため、彼らの攻撃力を定義する「魔言:ロゴス」が市場に存在しないのだ。



 シュパッ、と冷徹な銀の刃が、クラースの頬をかすめた。鮮血が飛び散り、灰色のフィールドコートの肩口が深く切り裂かれる。「くっ……!」クラースが初めて、明確な苦悶の声を漏らし、後方にわずかに体勢を崩した。「クラース!!」ルナが悲鳴のような声を上げる。 ハッキングという絶対の知略を持つ相場師が、初めて晒した物理的な弱さ。彼は戦闘レベル一の、ただの人間なのだ。肉体の殴り合いになれば、子供も同然だった。「仕留める。銀行の命令だ。バグは物理的に消去する」四方から同時に、容赦のない刃がクラースの首筋へと殺到する。



その刃の前に、小さな影が飛び込んだ。



 「……触るなァァァ!!」ルナだった。 彼女は自分の防御を完全に捨て、双剣をがむしゃらに振るってクラースへの刃を強引に弾き返した。しかし、多勢に無勢。暗殺者たちの冷酷なカウンターが、ルナの小さな身体を容赦なく切り裂いていく。「がはっ……!」 ボロ布のフードが吹き飛び、灰色の猫耳が血に染まる。ルナは痛みに顔を歪めながらも、クラースの前に立ちはだかり、両腕を広げて彼を背中で庇い続けた。「ルナ、どけ! お前では持ちこたえられない!」「嫌よ……! ここで、あたしが退場したら……あんたの手元を、誰が隠すのよ……!」ルナは口元から血を流しながら、ボロボロの手で双剣を強く握り直した。 彼女の視線が、クラースのコートのポケットを、そして周囲の暗殺者たちの視線を捉える。「あんたは……世界を変える相場師でしょ……! こんな泥臭いドブネズミの喧嘩で、終わっていいわけないじゃない……!あたしが、命に代えても目隠しになってやるわ!!」ルナの全身から、これまでで最も濃密な、漆黒の野良魔力が迸った。



魔言:ロゴス発動条件・視線の制約:全行程において、誰からも触媒を目視されてはならない」



 ルナの執念が、暗殺者たちの物理的な視線をも強制的に歪め、クラースの周囲に、完璧な死角を再構築する。クラースの紅蓮の瞳に、激しい冷徹な炎が灯った。「……ルナ。お前の命、最高値で買い取ってやる」クラースはポケットの奥で、金色の万年筆を限界まで強く握りしめた。目の前の暗殺者たち自身をハックすることはできない。ならば、彼らを動かしている根源を叩く。彼らは銀行に雇われた暗殺者。つまり、彼らの行動の動機は、銀行から支払われる報酬だ。「ターゲット変更。暗殺者個人のアカウントではない。中央魔導銀行・本店の暗殺報酬決済システム」をハックする。クラースの脳細胞が、凄まじい負荷で熱を帯びる。渓谷の遮断空間の僅かな隙間を突き、王都の本店サーバーへと逆コンパイルを仕掛ける。ミリ秒単位の超高速ハッキング。



「見つけた。暗殺部隊デッド・ストックへの融資・報酬支払い執行コード:契約ステータス:有効」「報酬額:百万ゴールド」



 クラースは脳内で、冷酷に文字列を書き換えた。「契約ステータス:無効」。さらに、彼らの手元にある「銀行発行の暗殺令状:物理媒介」の魔言を書き換え。新たな定義は「ただの負債通告書:自己破産手続き」カチリ。ポケットの中で、万年筆のインクが世界の理を書き換えた。その瞬間、暗殺者のリーダーの懐から、一通の羊皮紙:暗殺令状が、不自然な赤いエフェクトを放って燃え上がった。「な、なんだ!? 本店からの令状が……!?」暗殺者たちの動きがピタリと止まった。それと同時に、彼らの胸元に、中央銀行の自動システムによる強制執行の刻印が赤々と浮かび上がる。「契約破棄を検出」「対象:暗殺部隊デッド・ストック」「理由:銀行への莫大な違約金発生、および全資産の即座の差し押さえ」「ば、馬鹿な! 報酬が支払われないどころか、俺たちが銀行の債務者:奴隷に指定されただと!?」「警告音が止まらない!俺たちの身ぐるみが、システムで剥がされていく……!」暗殺者たちの漆黒の特級防具や、鍛え上げられた鉄の武器が、システムによって一瞬にして「ただの錆びたクズ鉄」へと強制書き換えされていく。重いクズ鉄と化した防具のせいで、彼らはその場にバタバタと崩れ落ちた。報酬のために動くプロの暗殺集団は、クラースの経済ハックによって、戦う前に、社会的・物理的に破産させられたのだ。「ひ、引き上げるぞ……!この男、物理が通じないどころか、システムそのものをこちらに逆流させてくる……!」無惨に錆びついた武器を放り出し、暗殺者たちは這う失意のまま霧の奥へと逃げ去っていった。渓谷に、静寂が戻る。「……やった、のね……」ルナが力なく微笑み、その場に崩れ落ちそうになった。サッ、とクラースが初めてポケットから右手を出し、ルナの小さな身体を横抱きに受け止めた。コートの袖が血で汚れるのも構わず、彼はルナを静かに岩陰へと横たえる。



 「無茶をするな、ルナ。俺の計算では、あと三秒は持ち堪えられた」「ふふ……相場師の計算なんて、あてに、ならないわよ……」ルナは弱々しく笑いながら、クラースの頬の傷に手を伸ばした。「あんたに……傷がつくのが、嫌だっただけ……」クラースは自らの指で、頬の血を拭った。紅蓮の瞳が、これまでにない深い怒りと、絶対的な決意で満たされていく。「中央魔導銀行。ルールを自ら破り、物理の暴力で市場を消しに来たか」クラースはルナの手を握り、再び、右手をポケットへと深く突き入れた。「ルナ。これより最終局面へ移行する。王都の本店へ乗り込み、あの腐ったシステムを丸ごと買い叩く。……お前の命を賭けた目隠し、一ゴールドの狂いもなく、世界の終わりで清算してやる」渓谷の霧が晴れていく。その向こうには、傲慢にそびえ立つ中央魔導銀行の本店。王都の巨大な影が、不気味に二人を待っていた。


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