最終章 魔言為替の強制退場
中央魔導銀行・総本店、最深部「大精霊金庫室」。天井が見えないほどに広大な円形の間。その床は全て純金で敷き詰められ、壁面には世界中の人間の口座データが、天の川のような光の粒子となって激しく流動していた。この世界の命脈、そして富の根幹。その巨大なシステムの中心に、クラースとルナは立っていた。「よくぞここまで来たな、不良債権どもめ」正面の高座から二人を見下ろすのは、豪奢な金糸の法衣をまとった男。総裁アルベリヒだ。その冷酷な眼光は、世界の頂点に立つ者の絶対的な傲慢さに満ちていた。「だが、お前たちの不当なシステム・トレードもここまでだ。我が中央銀行のルールは絶対であり、神聖不可侵。世界の秩序を乱すウイルスは、ここで完全に根絶される」アルベリヒが静かに右手を掲げた。その瞬間、周囲の巨大な黄金の扉が一斉に開き、地鳴りのような足音が響き渡る。
ガシャリ、ガシャリ、ガシャリ。
現れたのは、白銀の重装甲に身を包み、魔導の杖と大剣を構えた圧倒的な軍勢。 その数、文字通り、一千名。全員が銀行本店の最高ランク査定を受け、数百万ゴールドの価値を持つジョブとスキルを頭脳にインストールされた、この世界最強のエリート魔道銀行マン:魔導戦闘兵の大軍勢だった。キィィィン、と空間が震え、千人の頭上に浮かぶ水晶のステータスプレートが一斉に発光する。「ジョブ:聖騎士レベル八十」「ジョブ:大魔導士レベル八十五」「ジョブ:破滅の暗殺者レベル九十」。 並ぶのは、常人では一生かかっても届かない、特権階級の極大資産アカウントの羅列。「ひ、一千人……全員が最高ランクのジョブ持ち……!?」ルナが、未だ包帯の巻かれた小さな身体を強ばらせ、息を呑んだ。満身創痍の傷がまだ癒えていない。千人の軍勢から放たれる圧倒的なプレッシャーだけで、大理石の床にピキピキと亀裂が入っていく。しかし、クラースは眉一つ動かさなかった。 切り裂かれた灰色のフィールドコートのポケットに、両手を深く突き入れたまま、紅蓮の瞳で冷徹にその軍勢を見つめている。「一千人のポートフォリオか。壮観だが、あまりにも過剰流動性だな。一つの銀行の信用に、それだけの命を依存させていること自体、破綻寸前の金融機関そのものだ」「口が減らないウイルスめ。総員、スキル発動!そのバグを物理的に、概念的に、跡形もなく消去しろ!!」アルベリヒの怒号が響き渡る。
「「「「おおおおおッ!!」」」」
千人の戦闘員が一斉に咆哮した。その瞬間、大精霊金庫室の空間そのものが、眩い光の洪水で埋め尽くされた。千の魔法陣が空を覆い、数千の伝説級スキルが同時発動する。空間を切り裂く「神聖斬」、天から降り注ぐ「極大光霊波」、絶対の防御を誇る「聖域障壁」。 世界を何度も滅ぼせるほどの絶対的な暴力とエネルギーが、ただ一人、クラースを目がけて殺到する。絶望的な光景。だが、クラースは、一歩も動かなかった。コートのポケットから手を出すことすらしない。退屈そうに目を細め、ただ静かに呟いた。「ルナ」「いつでもいけるわ、クラース……!」ルナがクラースと背中を合わせるように寄り添い、二人の双剣を天へと掲げた。彼女の灰色の猫耳が鋭く立ち上がる。これが、世界を騙す目隠し。「あたしのすべてを、あんたに投資する!!野良コード最終解放、世界断絶・絶対遮蔽(ワールド・エンド・ブラインド!!」
ドォォォォォン!!!
ルナの全身から、凄まじい漆黒の野良魔力が爆発的に迸った。その影はクラースの周囲を完璧に覆い尽くし、千人の軍勢の物理的な視線、そして中央銀行のメインサーバーが放つあらゆる探知魔術から、クラースの「両手」を完璧に隠蔽する絶対的不可視な領域を構築した。
「魔言:ロゴス。発動条件・視線の制約:全行程において、誰からも触媒を目視されてはならない」全条件、クリアだ。
漆黒の遮蔽の中、クラースの紅蓮の瞳が、恐るべき知性の光を宿して爛々と輝く。彼は、右ポケットの金色の万年筆には触れなかった。彼が指をかけたのは、これまで一度として使うことのなかった、左ポケットの奥に隠された、「漆黒の万年筆」。「右手の金色の万年筆で、千人分のスキルを一つずつ暴落させるのではない。それでは取引速度が間に合わない。ならば・・・」クラースは左ポケットの中で、「漆黒の万年筆」のキャップを、静かに、カチリと開けた。
「左手の漆黒の万年筆:効果・中央魔導銀行の管理するジョブ:職業ライセンスの魔言:ロゴスの書き換え」
皮膚を通して、中央魔導銀行の全根源システムである大精霊金庫の基幹データが、濁流となってクラースの脳内へと逆流してくる。千人の大軍勢が持つ、すべてのジョブデータ。その全ての構成言語:ロゴスが、クラースの脳内で一つの巨大なチャートとして可視化された。ハック対象は、目の前の一千名が保有する全エリート・ジョブライセンス。全体の術式の中の、彼らの存在理由:アカウントを定義する根幹のロゴスを検知。クラースの脳細胞が、限界を超えて加速する。現代地球の金融工学、高頻度取引(HFT)の理論を用いて、千人分のシステム構成を一瞬で書き換えるプログラムを連結させていく。「すべてのジョブ定義をショート:空売りする。新たな定義は「無職:未契約・レベル一」ポケットの奥で、漆黒の万年筆から見えない黒いインクが迸り、世界の根本たるルール「理」を直接、上書きした。直後。押し寄せていた数千の極大魔法、必殺の剣技、神聖な光の濁流が、前触れもなく、一瞬で「フッ」とガラスが割れるように、すべて完全に消滅した。大爆発も、轟音もない。ただ、絶対的な「無」が、金庫室を支配した。「え……?」「あ、あれ……? 俺の魔法が、消えた……?」「剣が、重くて、持ち上がらない……!?」千人の大軍勢が、間抜けな声を漏らしながら、その場に棒立ちになった。彼らの頭上に浮かぶ水晶のプレートが、一斉に血のような赤色に染まり、けたたましい警告音を鳴り響かせる。「異常値検出:アノマリー」「対象:中央銀行公認・戦闘員一千名」「ジョブライセンス:聖騎士、大魔導士等:価値暴落:ストップ安」「現在の市場価値:無職:未契約・レベル一」「アカウントの初期化を完了しました。所持ステータスは全て紙屑:ゼロとなります」
ガシャガシャガシャガシャ!!!
千人のエリートたちが、一斉にその場に武器を取り落とし、ガタガタと震えながら膝をついた。彼らが人生のすべてを捧げ、銀行から融資を受けて積み上げてきた最高のアカウント:ジョブは、クラースの左手一本によって、一瞬にしてすべて、市場価値ゼロのゴミデータへと強制退場させられたのだ。「ば、馬鹿なアアアアア!!!一千人の最高戦力が、一瞬で無職のレベル一になっただと!?」高座の上で、総裁アルベリヒが髪を振り乱し、狂ったように絶叫した。ルナの絶対遮蔽が、ハラハラと光の粒子となって美しく解けていく。その中心で、クラースは灰色のフィールドコートのポケットに両手を深く突き入れたまま、本当に一歩も動かない状態で、冷酷に、不敵に微笑んでいた。「言ったはずだ」クラースの静かな声が、絶望に震える千人の大軍勢の間に、冷たく染み渡る。「俺がシステムを逸脱する。俺が紙屑だと決めたものに、一銭の価値もつかない」クラースは両手をポケットに入れたまま、ゆっくりと、へたり込む千人の戦闘員たちを踏み越えて歩き出した。その隣には、誇らしげに胸を張る猫耳の少女、ルナがぴったりと並んでいる。「お、おのれ、おのれえええ!! 銀行の資産を、世界を崩壊させる気かァァァ!」アルベリヒが狂乱し、懐から銀行のマスターキーである巨大な魔導書を取り出そうとする。だが、クラースはすでに、その男の前に立っていた。ポケットの中で、漆黒の万年筆のキャップをカチリと閉め、今度は右ポケットの金色の万年筆に指をかける。「アルベリヒ。お前の持つその中央銀行の総裁というライセンス、そしてこの大精霊金庫の全ゴールド」クラースの紅蓮の瞳が、巨悪のポートフォリオを完全にロックオンした。「たった今、俺が空売りを仕掛けた。このお粗末なシステムごと、破産しろ」「ぶ、ぶひぎゃあああああああ!!!」キィィィン!という無慈悲なシステム音が、世界の終わりを告げるように、大精霊金庫室に鳴り響いた。
数日後。中央魔導銀行が崩壊し、人々が固定された為替から解放された、新しい世界の青空の下。王都の活気ある街並みを、灰色のフィールドコートを着た青年と、新しい衣服に身を包んだ猫耳の少女が歩いていた。「ねえ、クラース。銀行がなくなって、みんな自分の力でスキルを鍛えるようになったわね。為替に怯える必要もなくなったわ」ルナが楽しそうに、ぴこぴこと猫耳を揺らしながら隣を歩く。「当然だ。実体のないバブルは、いつか弾けて適正価格に戻る。それが市場の原理だ」クラースはやはり、両手をコートのポケットに入れたまま、退屈そうに空を見上げた。「でも、あんたの両手の万年筆があれば、また新しい世界を支配できるんじゃない?」ルナが悪戯っぽく笑って覗き込んでくる。「俺は支配者ではなく、相場師だ。世界がまた歪んだポートフォリオを組み始めたら、その時は……」彼はポケットの中で、二本の万年筆の感触を確かめる。「また二人で、残らず空売りしてやるだけだ」持たざる二人の、世界を騙す果てしないシステム・トレード。その伝説は、新たな市場の幕開けと共に、永遠に続いていく。
王都の中央広場へと続く緩やかな坂道。石畳には、かつて見られた銀行への悲壮な行列はなく、自分の足で歩み、自分の言葉で笑う人々の健やかな活気が満ちていた。ルナは、ふと足を止めた。少し先を歩くクラースの、どこまでも揺るぎない、だがどこか孤独の色彩を帯びた背中を見つめる。彼女は小さく息を吸い込み、少し早足で彼の隣へと並び直すと、その横顔へ視線を巡らせた。「ねえ、クラース。ずっと、訊きたかったことがあるの」「なんだ」 クラースは前を向いたまま、短く応じる。「あんたのその、世界そのものを書き換えるほどの能力(異能)があればさ……」ルナは少し声を落とし、自分の胸元にそっと手を当てた。 「あの路地裏の時、私を助ける必要なんて、本当は一ミリもなかったんじゃない?銀行のシステムを逆手に取るにしても、わざわざリスクを冒して野良の私と組まなくたって、あんた一人でいくらでも立ち回れたはずでしょう?私を共犯者にして、ずっと旅を共にする必要も……本当は、最初からなかったんじゃない?」それは、ルナがずっと胸の奥に秘めていた、この物語の核心を突く問いだった。クラースは歩調を緩めず、ただ視線だけをわずかに落とした。ポケットの中の手が、微かに動いたように見えた。「為替を動かすには、常に『見えない取引』が必要だ。お前の隠蔽コードがなければ、俺の万年筆は一瞬で暴かれる。効率的なトレードを行うための、極めて合理的なポートフォリオだ」「もう、またそうやって数式みたいな言い訳をする」ルナは唇を少し尖らせ、クラースの前へと回り込むようにして歩みを遮った。猫耳が不満げにぴくぴくと揺れる。彼女は悪戯っぽい、だが全てを見透かすような瞳で彼を覗き込んだ。「ひょっとしてさ……合理性とかじゃなくて、ただ『友達』が欲しかったとか?」からかうような響き。けれど、そこには彼女なりの温かい確信が含まれていた。前世の記憶を持ち、このバグだらけの世界に一人きりで放り込まれた、天才相場師の底知れない孤独を、ルナは誰よりも近くで感じていたからだ。いつものクラースなら、冷徹な論理でその言葉を一蹴するはずだった。しかし、青年は歩みを止め、少しだけ決まり悪そうに視線を泳がせた。王都の爽やかな風が、彼の灰色のコートを静かに揺らす。
「……そうだったのかもな」
ぽつりと、掠れるような声だった。クラースはルナから少し視線を外し、遠い空を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。ルナは、大きく目を見開いた。からかうつもりだった彼女の頬が、みるみるうちに朱に染まっていく。猫耳が驚きと気恥ずかしさでピンと跳ね上がった。「い、意外と正直ね……。いつもみたいに『ただの市場調査だ』とか言って、はぐらかすと思ったのに……」ルナは視線を泳がせ、包帯の巻かれた腕で自分の顔を隠すように俯いた。けれど、その口元には、隠しきれない嬉しそうな笑みがこぼれていた。「……ま、あんたがどうしても私を投資パートナーにしたいって言うなら、これからも一生、付き合ってあげなくもないけどね」「ああ。お前という資産は、永久に手放すつもりはない」「もう! そういう言い方はやめなさいってば!」ルナが頬を膨らませてクラースの腕を軽く小突くと、クラースもまた、冷徹な仮面の下から、年相応の微かな笑みを覗かせた。ポロリ、と音を立てて、ルナは食べかけのリンゴを地面に落とした。
「クラース……。あんた今、笑った?」
空の雲は、地形学が生み出す気流により形を変えていく。かつてソクラテスは、音声言語を愛し、文字としての言語を否定した。しかしクラースの中ではどうでもいいことだった。どちらも「魔言:ロゴス」であり、全ての事象は「魔言:ロゴス」なくては存在し得ない。今もこの時間も雲の形は変化している。そして同じように世界の歪みもまた同じであった。
【エピソード一 完】




