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第一章 ポートフォリオの歪みとインサイダー・オーク

 中央魔導銀行・第十四支部取引所。そこは、熱気と強欲が渦巻く巨大な円形宮殿だった。 大理石の床の上を、無数の冒険者や商人が行き交っている。彼らの視線が集中しているのは、壁一面に設置された巨大な魔導障壁。そこに刻まれた、数千種類に及ぶ「スキル」のリアルタイム市場レートだ。「剣技・三連斬:二万四千ゴールド(三パーセント下落)」「光魔法・ヒール:五万ゴールド(横ばい)」「火属性耐性・中:十二万ゴールド(十五パーセント急騰)」刻一刻と変動する数字の羅列。人々は一喜一憂し、少しでも安い瞬間に強いスキルを脳内ポートフォリオへインストールしようと、銀行の窓口にゴールドの袋を叩きつけていた。「ひどい有り様ね。ここに来るたび、胸がムカムカするわ」群衆の端、柱の影から取引所を見上げる少女がいた。ボロ布のようなフードから灰色の猫耳を覗かせたルナだ。彼女の視線の先には、窓口で泣き崩れる一人の若い駆け出し戦士の姿があった。「そんな、昨日まで八千ゴールドだった火耐性・小が、なんで一晩で三万ゴールドに跳ね上がってるんだよ!これじゃ次のダンジョンに行けない……!」「嫌ならお帰りください。現在の市場レートは絶対です。買えない者は、おとなしく戦場(市場)から退場してください」銀行員の冷淡な声が響く。 ルナは悔しそうに拳を握りしめ、隣に立つ青年に声をかけた。「ねえ、クラース。これ、絶対に裏があるわ。明日から開放される予定の新ダンジョン紅蓮の地底湖に向けて、誰かが火耐性のスキルを不自然に買い占めてるのよ。下層の冒険者たちに高値で売りつけるためにね」隣に立つ青年クラース・アークライトは、やはり灰色のフィールドコートのポケットに両手を深く突き入れたまま、退屈そうに掲示板の数値を眺めていた。「ただのインサイダー取引だな」クラースの声には、一切の感情が籠もっていなかった。「新ダンジョンの内部情報を事前に手に入れた特権階級が、一般市場に情報が流れる前に買い漁り、意図的に供給不足を作って価格を吊り上げている。地球の小規模な株式市場でもよく見られた、手古摺る価値もない古典的なポートフォリオの歪みだ」「ちきゅう……?難しいことはわからないけど、あいつらのせいであたしたちみたいな野良は干からびるのよ。ねえ、見て。あの二階のVIPテラス」ルナが顎で指した先、豪奢な絨毯が敷かれたバルコニーを見上げる。そこには、絹の衣服を身にまとった三匹の肥満体型のオークたちが、ワイングラスを片手に下々の人間たちを見下ろしていた。



 「ガハハハ! 見ろ、人間どもが紙屑のような下級スキルに全財産を注ぎ込んでいるぞ!」 「明日になれば火耐性はさらに十パーセントは高騰する。あらかじめギルド長からダンジョンの情報を買っておいて正解だったな」豚のような鼻を鳴らして笑うオークのブローカーたち。彼らの周囲には、銀行公認の強力な私兵たちがずらりと並び、厳重な警備を敷いている。「あいつらが首謀者よ。あの大金持ちのオークたちが市場を独占して、暴利を貪ってるの」「なるほど」クラースの紅蓮の瞳が、ふっと冷たく細められた。「市場の健全性を著しく損なう害虫だな。ルナ、あのオークたちの口座をハックする。……目隠し:ブラインドの準備をしろ」「えっ!? ちょっと待って、ここは中央銀行の取引所よ!?監視の魔導術式が何重にも張り巡らされてるわ。あんな場所で万年筆を使ったら、一瞬で警備兵に囲まれて強制終了よ!」「だから、お前がいる」クラースは、ルナのフードの隙間から覗く瞳をまっすぐに見つめた。「お前の絶対遮蔽:シャドウ・ブラインドの出力を、一点に集中させろ。俺の右ポケットの周囲、わずか数センチメートルの空間だけでいい。そこだけを、あらゆる物理的・魔法的な鑑定の視線から完全に断絶するんだ。範囲を絞れば、銀行の全体監視システムの網には引っかからない」ルナはゴクリと唾を呑み込んだ。あまりにも大それた計画。中央銀行の心臓部で、堂々とシステムを逸脱しようというのだ。だが、クラースの瞳にあるのは、絶対的な確信だけだった。「……わかったわよ。もう、ヤケクソね!捕まったら一緒に奈落行きだから!」ルナが音もなくクラースの右側に寄り添う。彼女が袖の中で独自の野良コードを起動すると、クラースの右ポケットの周囲だけ、光が不自然に歪み、外からは絶対に見えない漆黒の死角が形成された。



「魔言:ロゴス。発動条件・視線の制約:全行程において、誰からも触媒を目視されてはならない」条件、クリアだ。



 クラースは、右のポケットの奥で、カチリと「右手の金色の万年筆」を握りしめた。皮膚を通して、脳内に取引所の巨大なメインサーバーのデータストリームが流れ込んでくる。ハック対象は、あのオークたちが独占している火耐性・中の流通データ。……エンド、オークたちの個人アカウント。クラースの脳内で、現代の金融工学(HFT)の数式が超高速で組み上がっていく。オークたちは莫大なゴールドを借り入れ、市場の火耐性スキルをほとんど買い占めていた。つまり、彼らの資産は今、そのスキルの価値に完全に依存している状態だ。「もし、そのスキルの価値が、一瞬で消滅したら、どうなるか」クラースは冷酷な笑みを浮かべ、脳内で魔言:ロゴスの術式を確定させた。「商品コード:火耐性・中」の構成ロゴスを検出。全体の内、熱量を遮断する定義部分をハック。新たな定義は「野良コード:バグデータ」。さらに、市場レートに異常値を書き込む。ポケットの中で、金色の万年筆が精神のコードを刻みつける。その瞬間。取引所の掲示板が、不自然なノイズと共に一斉に激しく明滅した。



ピピッ、ピピッ、ピピピピピピピ!



 「な、なんだ!? 掲示板の様子がおかしいぞ!」「おい、見ろ!火耐性・中のレートが……!」群衆が悲鳴のような声を上げる。二階のVIPテラスでワインを飲んでいたオークたちも、その異変に気づき、グラスを落として掲示板に飛びついた。「ぶ、ぶひぃ!? なんだこれは!数字がバグっているぞ!」掲示板に、見たこともない赤文字の警告が叩きつけられていた。「異常値検出:アノマリー」「商品名:火耐性・中」「価格:二十四パーセントストップ安」さらに「五十パーセント異常値検出」「現在の市場価値:野良コード」「ば、馬鹿な!我が一族の全財産、さらに十万ゴールドの借入金をすべて注ぎ込んだスキルだぞ!? なぜ暴落している!?」オークのブローカーが絶叫する。彼らの脳内にインストールされていた火耐性・中のスキルデッキが、ド派手な赤いエフェクトの光を放ったまま、中身の効果を完全に失い、ただの無価値なバグデータへと変わり果てていく。「これはエラーじゃない」一階の雑踏の中、両手をポケットに入れたまま、クラースは静かに二階のオークたちを見上げていた。「俺による意図的な市場操作だ。全体の内のたった一単語。お前たちが買い占めたそのスキルは、たった今、俺が紙屑だと定義した」取引所のシステムが自動的に作動する。スキルの価値がゼロになったことで、オークたちがレバレッジの担保として銀行に預けていた「すべての所有資産」と「他の全スキルアカウント」が、一瞬にして強制決済:ロスカットの渦に巻き込まれた。キィィィン! という無慈悲なシステム音が、宮殿内に鳴り響く。



 「警告:オーク・ブローカー連合の担保評価額が基準値を下回りました」「全口座の凍結、および所持ジョブライセンスの剥奪を実行します」「ぶ、ぶひぎゃあああああ!! 俺の豪商のジョブが……銀行のゴールドが、消えていくゥゥゥ!!」オークたちの豪奢な衣服が、システムによって一瞬で「破産者のボロ布」へと強制書き換えされる。彼らの頭上のステータスプレートには、巨大な破産・アカウント凍結の文字が刻まれた。一晩で下層の冒険者から富を搾取しようとした強欲なオークたちは、文字通り、一瞬にしてすべてを失い、市場から永久に強制退場させられたのだ。「す、凄い……信じられない……」ルナが隠蔽を維持しながら、呆然と呟く。市場の価格を吊り上げていた害虫が消えたことで、火耐性のレートは瞬時に元の適正価格へと暴落し、安定を取り戻した。周囲の冒険者たちは「神の奇跡だ!」と歓喜に沸き立っている。「奇跡などではない。ただの需給の健全化だ」クラースはポケットの中で、金色の万年筆のキャップをカチリと静かに閉め、ルナに向き直った。



 「さて、ルナ。これで市場の歪みを一つ修正した。だが、中央魔導銀行の本店は、この規模の暴落を致命的なバグとして追跡してくるはずだ」クラースの紅蓮の瞳が、さらに深い知性の光を宿す。「次の標的:トレードを決めるぞ。世界を支配するこのお粗末なシステムを、根底から引き摺り下ろすために」大歓声に包まれる取引所の中心で、両手をポケットに突っ込んだ青年の影が、長く、不気味に伸びていた。


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