序章 所持数一の欺瞞と、隠された万年筆
世界は神の奇跡ではなく、冷徹な金融システムで動いている。そんな「バグだらけの市場」に放り込まれたと理解した時、クラース・アークライトが抱いたのは、恐怖ではなく底知れない退屈だった。「おい、そこの登録簿に載っていないドブネズミ。お前だ、お前」石造りの薄暗い路地裏。湿った空気の中に、金属が擦れ合う不快な音が響いていた。クラースの前に立ちはだかったのは、豪奢な白銀の鎧を身にまとった三人の男たちだ。胸元には、天秤と硬貨を組み合わせた不気味な紋章が刻まれている。この都市いや、この世界を物理的・経済的に支配する、中央魔導銀行の徴税人たちだった。「査定を行う。神聖なる中央銀行のサーバーに同期しろ。逆らえば即座に資産凍結(死罪)だ」
中央の男がニヤニヤと笑いながら、水晶でできた四角いプレートをクラースへと向けた。 「スキル鑑定」。この世界の誰もが逃れられない、銀行システムによる個人の資産評価だ。キィィィン、と電子的な高音が鳴り響き、クラースの頭上に淡い光の文字が浮かび上がる。「個体名:クラース・アークライト」「基本ライセンス:無職(未契約・口座なし)」「戦闘レベル:一」「所持スキル数:一」「詳細スキル:文字を書く」一瞬の静寂。次の瞬間、路地裏に徴税人たちの下卑た爆笑が木霊した。「ハハハハハ! なんだこれは!レベル一の無職だと!?」「しかも所持スキルがたったの一個……詳細が文字を書く?おいおい、ただの文官ですらない、ただの文字書きじゃねえか!」「スキル枠がゴミ以下だな。こんな奴からむしり取るゴールドすらねえ。市場の不良債権め」底辺の冒険者ですら、初期投資で、斬撃や歩法といった戦闘スキルを銀行から買い、最低でも三〜四個のスキルデッキを組んでいる。所持スキル数「一」で、しかも戦闘に一切役に立たない「文字を書く」など、この世界では家畜以下の評価だった。
だが、嘲笑される当の本人、クラースは、眉一つ動かさなかった。灰色のフィールドコートのポケットに両手を深く突き入れたまま、紅蓮の瞳で冷徹に男たちを見つめている。「なるほど。この世界のスキルは、脳に直接インストールするデジタル資産。そして能力の優劣は、銀行のさじ加減ひとつで決まる為替レートというわけか」クラースの脳内では、すでにこの世界の構造が数式として解体されていた。彼は前世、現代地球の金融市場において、ミリ秒単位で数億ドルを動かす高頻度取引(HFT)のシステムを支配した天才相場師だ。彼から見れば、この剣と魔法のファンタジー世界は、あまりにも脆弱で、脆弱性だらけの「お粗末な電子市場」に過ぎなかった。「おい、そこのゴミ。ゴールドがないなら体で払ってもらう。……おい、お前ら、奥に転がっている商品を回収しろ」徴税人のリーダーが顎で路地裏の奥を指す。そこには、ボロ布のようなフードを深く被った小さな人影が倒れていた。引き裂かれた衣服の隙間から、小刻みに震える灰色の猫耳が覗いている。「……ッ、触るな、銀行の犬ども……!」少女の声だった。鋭い鈴のような、だがひどく掠れた声。彼女の手元には、中央銀行の管理コードが付与されていない、鈍く光る野良の双剣が握られていた。「往生際が悪いぞ、野良猫め。お前が隠し持っているその独自の隠蔽スキル、市場で高値で売れるんでね。銀行の管理下にない野良コードはすべて没収、または強制退場処分だ」
徴税人が一歩、少女へ踏み出す。少女ルナは、絶望に瞳を揺らしながらも、なお双剣を構えようとした。だが、すでに激しい戦闘を経て消耗しているのか、その刃は痛々しいほどに震えている。その時、二人の間に、ぬっと灰色の影が割り込んだ。クラースだった。両手をポケットに入れたまま、彼は徴税人の前に無造作に立つ。「おい、雑魚。どけ。死にたいのか」「交渉だ」クラースの声は、静かで、酷く冷たかった。「その少女の身柄と、お前たちの命を取引したい。……今すぐここから立ち去るなら、お前たちの命を紙屑にせずに戻してやる」再び、徴税人たちが信じられないものを見る目でクラースを見た。「ハッ、無職のレベル一が、脳まで腐ったか?おい、教育してやれ」徴税人の一人が、腰の長剣を引き抜いた。 その瞬間、男の全身から、爆発的な赤いオーラが立ち上る。路地裏の壁が、その風圧だけでビリビリと鳴動した。「見せてやるよ、お前の一生の手取りでも買えない、銀行公認の最高級スキルをなぁ!スキル発動、剛力斬ギガ・スラッシュ!」男の持つ剣が、数千ゴールドの価値を示す黄金の光を放つ。圧倒的な物理破壊力。まともに喰らえば、レベル1のクラースなど文字通り塵も残らず消し飛ぶ威容。「逃げて……!!」後ろでルナが叫ぶ。だが、クラースは一歩も引かない。それどころか、退屈そうに目を細めた。術式構成要素を確認。「対象:前方」「術者:剛力付与」「軌道:縦斬」「威力実数:五〇〇〇」
「安っぽいコードだな。バグだらけだ。」
「ルナ」クラースは背後の少女の名前を、初めて呼んだ。「お前のその野良スキル、他者の視線や空間を欺く「隠蔽」だな。……今すぐ、俺の両手と手元を世界から隠せ」「え……? あ、でも……!」「死にたくなければやれ。三分でこの市場を終わらせてやる」その絶対的な自信に満ちた紅蓮の瞳に、ルナは息を呑んだ。本能が告げていた。この男は狂っている。だが、この男に従わなければ、確実に自分たちは死ぬ。「……ッ、知らないからね!!野良コード起動、絶対遮蔽シャドウ・ブラインド!」ルナが残されたすべての魔力を振り絞り、双剣を振るう。一瞬にして、クラースの周囲の空間が不自然な影によって覆われた。外からは、クラースがポケットの中で何をしているのか、物理的にも、魔法的な探知スキルの目をもってしても、絶対に視認できない完璧な死角が完成する。
「魔言:ロゴス」発動条件・視線の制約:全行程において、誰からも触媒を目視されてはならない。条件は満たされた。影の遮蔽の中、クラースはコートの右ポケットの奥で、一本のペンをカチリと握りしめた。それは、彼がこの世界に降り立った時に唯一生成された、「右手の金色の万年筆」。触媒が皮膚に触れた瞬間、クラースの脳内に、世界を構成する膨大なテキストデータ「魔言為替」の市場チャートが、濁流のように流れ込んできた。右手の金色の万年筆。ハック対象は、流通市場スキルデータ。ターゲットは、目の前の男が放った剛力斬の構成要素。クラースは脳内で、恐ろしい速度でコードを構築していく。技そのものを消すのではない。そんなことをすれば、銀行の防衛システムに弾かれる。やるべきことは、全体の術式の中の、決定的な単語だけをピンポイントでコントロール下に置き、その価値を暴落させることだ。
「威力実数:五〇〇〇」の「五〇〇〇」を検知。書き換えを実行。新たな定義は「ゼロ(ただの素振り)」
ポケットの中で、金色の万年筆から見えないインクが迸り、世界の理:ロゴスを直接書き換える。直後。「死ねぇぇぇ!!」徴税人の放った剛力斬が、轟音と共にクラースの脳天へと振り下ろされた。大迫力のエフェクト。紅蓮と黄金の炎が激しく舞い上がり、路地裏が爆風で包まれる。勝利を確信した徴税人たちが、下品な笑みを浮かべた。だが。「……は?」
炎の霧が晴れた中心で、徴税人の男は、間抜けな声を漏らした。クラースは、無傷だった。 髪一筋すら焦げていない。それどころか、振り下ろされた大剣の刃を、灰色のコートの肩口で静かに受け止めているだけだった。「な、なんだ!? なぜ生きている!? 俺の剛力斬は、装甲をも打ち破る一撃のはずだぞ!?」「エフェクトだけは立派なポートフォリオだな」クラースはポケットに手を突っ込んだまま、冷酷に告げた。「だが、中身がスカスカの不良債権だ。全体の内のたった一単語。威力を定義するロゴスを書き換えた。お前が数万ゴールド払ったその大技、今の市場価値は、通常の素振り以下だ」「バ、馬鹿な! そんなスキルがあるわけが」「気づいていないのか?お前たちの信じる中央銀行のシステムは、俺から見れば脆弱性の塊だ」クラースは一歩、前へ踏み出す。その圧倒的なプレッシャーに、白銀の鎧を着た徴税人たちが、恐怖で一歩後ずさった。レベル一の雑魚を前に、世界を支配する側の人間が、完全に気圧されている。
「ひ、引き上げるぞ!こいつは異常値だ!本店の警備兵を」「遅い。すでにこの空間のスキル為替は、俺のコントロール下にある」クラースはポケットの中で、金色の万年筆を静かに握り直した。脳内で、次のコードが超高速で連結していく。「対象:徴税人三名」「所持スキルデッキ:すべて」構成ロゴスの一部を書き換え。新たな定義は「ストップ安:異常値検出」「な、なんだこれ!? 俺のスキル画面が……真っ赤に!?」「警告音が止まらない!? 銀行のサーバーから切断されて」徴税人たちの頭上に浮かぶステータスプレートが、激しく点滅し始める。そこには、赤文字で巨大な警告が刻まれていた。「異常値検出:アノマリー」「所持スキル「剛力斬」「鉄壁」「高速移動」:価値暴落:ストップ安」「現在の市場価値:雑巾の塊:マヨネーズの塊」「あ、あ、熱い!? なんだこれ、鎧が重い、スキルが発動しない!」 「俺の極大魔法の構成要素が……野良コード」にすり替わっている……!?」男たちがパニックに陥り、自分の衣服や武器を見つめる。彼らが何百万ゴールドも注ぎ込んで構築した最強のスキルデッキは、エフェクトの光だけをパチパチと虚しく放ちながら、中身の効果をすべて失い、ただの重い鉄屑へと変わり果てていた。
「言ったはずだ」クラースは、絶望に顔を歪める男たちを、冷徹な紅蓮の瞳で見下ろした。「俺がシステムを逸脱する。俺が紙屑だと決めたものに、一銭の価値もつかない」ガシャガシャと無様に鎧を鳴らしながら、徴税人たちは悲鳴を上げて路地裏の彼方へと逃げ去っていった。富の根幹であるスキルを人為的に暴落させられた彼らは、二度と元のエリートには戻れない。事実上の、市場からの強制退場:破産だった。静寂が戻った路地裏。ルナの「絶対遮蔽:ブラインド」が、ハラハラと光の粒子となって解けていく。クラースは、ポケットの中で万年筆のキャップを静かにカチリと閉め、息を吐いた。「……あんた、一体、何者なの?」後ろでへたり込んだまま、ルナが戦慄に満ちた声で尋ねる。鑑定画面ではレベル一の代筆屋。しかし目の前で行われたのは、世界のルールそのものを踏みにじる、悪魔の所業。クラースはゆっくりと振り返り、フードの隙間から覗く少女の猫耳をまっすぐに見つめた。
「クラース・アークライト。しがない相場師だ」
彼は不敵な笑みを浮かべ、ポケットから手を出すことなく、少女に右足を一歩差し出した。「ルナ。お前の隠蔽コード:ブラインドは、俺の触媒を隠すために必要不可欠だ。俺の投資パートナーになれ。世界を牛耳る中央魔導銀行の富とシステムをこれから二人で、残らず『空売り』してやる」その冷徹で、だが最高に刺激的な提案に、ルナはゴクリと唾を呑み込んだ。世界で二人だけの共犯者。中央魔導銀行という巨大な怪物を相手に、持たざる二人の、世界を騙す果てしないシステム・トレードが、今ここに幕を開けた。




