第9話 エルフの名家の娘、弟子入りを申し込む
リーフェル村で迎える二度目の朝は、妙に騒がしかった。
鶏が鳴く。
家畜小屋で山羊が鳴く。
井戸端では、村の女性たちが昨日の豆スープについて話している。
「昨日の豆、すごかったねぇ。夜、足がつらなかったよ」
「うちの爺さんなんて、朝から薪割りしようとして止めたんだから」
「止めて正解だよ。腰が治ったからって、若返ったわけじゃないんだからね」
畑の方では、村の男たちが早くも鍬を持って集まっていた。
「昨日の続き、どこからやる?」
「水路だな。ぷる太様が通ったところは澄んでるが、奥の詰まりはまだ残ってる」
「様はやめろってアレンさんに言われただろ」
「じゃあ、ぷる太殿」
「余計に重いわ」
その中心を、ぷる太がぷるぷると進んでいる。
普通のスライムに見えるよう、昨日のうちに光を抑える付与をかけたはずなのだが、今朝のぷる太はどこか誇らしげだった。
村人たちに撫でられ、子供たちに名前を呼ばれ、井戸の水を澄ませるたびに拍手される。
たぶん、完全に調子に乗っている。
「ぷる」
俺の足元へ戻ってきたぷる太が、軽く跳ねた。
「おはよう、ぷる太。今日も元気だな」
「ぷるる」
「でも、あまり井戸に入りすぎるなよ。村長さんが『水が良くなりすぎるのも目立つ』って言ってたから」
「ぷる?」
「良くなりすぎるって何だろうな。俺にもよく分からない」
「師匠がそれを言いますか」
背後から、シルフィの声がした。
振り返ると、彼女は両手に木桶を持って立っていた。朝の水汲みを手伝っていたらしい。白銀の髪をひとつに結び、村の女性たちにもらった前掛けをつけている。
エルフの名家の娘、というより、すっかり辺境村の朝に馴染み始めていた。
「おはよう、シルフィ」
「おはようございます、師匠」
「今日も師匠なんだな」
「はい。昨日、正式に弟子入りをお願いしましたので」
「俺、正式に許可したっけ?」
「『俺に教えられることがあるなら、一緒にやってみよう』とおっしゃいました」
「言ったな」
「それはつまり、師弟関係の成立です」
「解釈が強い」
「弟子ですので」
「弟子って便利な盾だな」
シルフィは少しだけ得意げに胸を張った。
その仕草が年相応に見えて、俺は少し笑ってしまった。
「何かおかしいですか?」
「いや。昨日まで森で追われて倒れてたのに、今日は村で水汲みしてるの、すごいなと思って」
「私も驚いています」
シルフィは木桶を置き、井戸の縁に手を添えた。
「体が軽いのです。魔力が乱れていない。朝起きたとき、こんなに自然に呼吸できたのは初めてかもしれません」
「初めて?」
「はい」
その声には、静かな実感があった。
俺は思わず彼女の顔を見る。
シルフィは井戸の水面を見つめていた。澄んだ水に、彼女の青い瞳が映っている。
「私は幼い頃から、魔力の流れが不安定でした。嬉しいと魔力が跳ね、驚くと周囲の草木が枯れ、眠っている間に部屋の燭台が凍りついたこともあります」
「それは……大変だったな」
「はい。家では、私のことを『欠けた器』と呼ぶ者もいました」
欠けた器。
嫌な言葉だった。
俺は勇者パーティーで「無能」と呼ばれたことを思い出した。
使えない。
地味。
いらない。
そういう言葉は、言った側が思っているよりずっと深く残る。
「シルフィは欠けてなんかないだろ」
気づけば、そう言っていた。
シルフィが目を丸くする。
「見たばかりの俺が言うのも変だけどさ。魔力が不安定だったとしても、それは欠けてるんじゃなくて、まだ整え方が分からなかっただけなんじゃないか」
「……整え方」
「うん。大きすぎる荷物を持たされて、持ち方を教えてもらえなかったみたいなものだろ。荷物を落としたら、持てないお前が悪いって怒られる。でも本当は、持ち方を一緒に考えてくれる人が必要だったんじゃないか」
言ってから、自分で少し驚いた。
これは、シルフィに言っているようで、自分にも言っているのかもしれない。
俺もずっと、持ち方を知らない荷物を背負っていた。
自分の付与が何なのか分からないまま、ただ役に立てと言われ、役に立たなければ無能だと切り捨てられた。
シルフィはしばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐く。
「師匠は、ずるいです」
「え?」
「そういうことを、まっすぐ言うので」
「変だったか?」
「いいえ。だから困るのです」
シルフィは視線を逸らした。
尖った耳の先が、少し赤い。
俺は何となく、それ以上聞かない方がいい気がした。
ぷる太が足元で、ぷるぷる揺れている。
たぶん何も分かっていない。
いや、最近のぷる太は分かっている気もする。
「それで、師匠」
シルフィは表情を改めた。
「今日は、改めてお願いがあります」
「お願い?」
「はい。私を、正式に弟子として扱ってください」
「もう弟子って呼んでるのに?」
「呼び方だけではなく、きちんとした形がほしいのです」
「形か」
シルフィは真剣に頷いた。
「エルフの師弟関係では、師に誓い、弟子は学びを得る代わりに師の名誉を守ります。私はリーフェン家を追われた身です。もう名家の娘として守られる立場ではありません。だからこそ、自分で誰に従い、何を学ぶのかを決めたいのです」
重い。
俺が想像していた「弟子」とはだいぶ違った。
俺の中の弟子は、せいぜい「畑仕事を一緒に覚える」とか「薬草の見分け方を教える」とか、そのくらいだった。
でもシルフィの言う弟子入りは、人生の向きを決めるような言葉だった。
「俺は、そんな立派な師匠じゃないぞ」
「立派かどうかは、私が決めます」
「強いな」
「師匠がご自分を低く見すぎるので、弟子が強くなるしかありません」
「責任を感じる」
「感じてください」
シルフィはまっすぐ俺を見つめた。
「私は、あなたのそばで学びたい。あなたが当たり前だと思っている奇跡を、正しく理解したい。そして、あなたがまた誰かに利用されそうになったとき、今度は私が止めたい」
「俺が利用されるって、そんな」
「あり得ます」
即答だった。
「師匠は、頼まれると断れません。困っている人を見ると放っておけません。自分を傷つけた相手でさえ、怪我をしていないか心配します」
「それは……」
「優しさです。でも、悪意ある者から見れば、付け込める隙です」
返す言葉がなかった。
シルフィの言葉はきつく聞こえるけれど、不思議と責められている感じはしない。
むしろ、心配されている。
その心配の仕方が、少し不器用で、かなり真面目なだけだ。
「分かった」
俺は頷いた。
「ただし、俺から教えられるのは、本当に地味なことばかりだぞ。薬草の乾かし方とか、火の起こし方とか、鎧の留め具の見方とか」
「それらも学びます」
「付与術の理論は、俺もよく分かってない」
「なら、一緒に調べます」
「俺が変なことをしたら?」
「記録します」
「止めてくれないのか?」
「止めるべき時は止めます。ただ、歴史的発見なら記録します」
「弟子が学者寄りだ」
シルフィは少し微笑んだ。
「エルフの名家出身ですので」
「そうだった」
そのとき、井戸端の向こうから村長が歩いてきた。
昨日から腰がまっすぐなせいか、足取りがやけに軽い。
「朝から真面目な顔をしておるな」
「村長さん」
「弟子入りの話か」
「聞こえてました?」
「年寄りは耳が遠いふりをして、必要なことはだいたい聞いておる」
「便利ですね」
「便利だ」
村長はシルフィを見た。
「シルフィ。お前さん、本気か」
「はい」
「アレンは見ての通り、自己評価が低く、頼まれると断れず、たまに常識を置き忘れる男だ」
「理解しています」
「理解したうえで弟子になるのか」
「はい」
「苦労するぞ」
「覚悟しています」
「なら、儂からは何も言わん」
村長は俺を見た。
「アレン」
「はい」
「受けてやれ」
「軽いですね」
「軽くない。だが、お前さんには自分の力を横から見てくれる者が必要だ。儂ら村人は助けられてばかりで、何が普通で何が異常か分からん。シルフィなら、それが分かる」
「私も全部は分かりません」
シルフィが言う。
「ですが、少なくとも師匠よりは分かります」
「そこは断言なんだ」
「はい」
村長は声を出して笑った。
「よし。では、井戸端では格好がつかん。世界樹の前でやるか」
「やるって何を?」
「弟子入りだ。形が欲しいと言ったのだろう」
シルフィの目が少し見開かれた。
「よろしいのですか」
「村の者として迎えるなら、こういう節目は大切だ。大げさな儀式ではないがな」
「ありがとうございます」
シルフィは深く頭を下げた。
こうして、俺の知らないところで、弟子入りの場が整えられてしまった。
◇
世界樹の若木は、村の外れで静かに葉を揺らしていた。
昨日生えたばかりなのに、すでに周囲の空気が変わっている。
土は柔らかく、草は青く、小さな花まで咲いていた。若木の周りには簡単な柵が作られていて、村人たちが勝手に近づきすぎないようにしている。
もっとも、村人たちは遠巻きに見ながら拝みたそうにしていた。
村長が「拝むな、目立つ」と言ったので我慢しているらしい。
弟子入りの話を聞きつけた村人たちが、ぞろぞろと集まってきた。
ミナたち子供もいる。
ぷる太はなぜか俺の肩ではなく、世界樹の根元に陣取っていた。完全に立会人の顔をしている。
スライムに顔はないが、そんな雰囲気だった。
「大げさになってないか?」
俺が小声で言うと、シルフィが静かに首を横に振った。
「エルフの師弟誓約としては、かなり簡素です」
「本来はもっと大げさなのか」
「七日間の清め、三人以上の証人、師の系譜確認、誓約歌、魔力紋の交換などがあります」
「聞くだけで疲れるな」
「今回は村長様と村の方々、そして世界樹が証人です。十分すぎます」
世界樹が証人。
さらっと言われたが、かなり大事なことではないだろうか。
村長が木の杖を地面に突いた。
「では、始める」
村人たちが静かになる。
「シルフィ・リーフェン。お前さんは、アレンを師と仰ぐのだな」
「はい」
シルフィは俺の前に立ち、両手を胸の前で重ねた。
その姿は、昨日まで追われていた少女とは違った。
背筋が伸び、瞳は澄み、声に迷いがない。
「私はシルフィ・リーフェン。没落したリーフェン家の名にすがるのではなく、私自身の意志で、アレンさんを師と仰ぎます」
村人たちは黙って聞いている。
風が世界樹の葉を揺らした。
「師の力を利用せず、師の優しさに甘えすぎず、師が自らを損なうときは止め、師が進むときは記録し、学び、支えます」
「記録が入るんだ」
思わず小声が漏れた。
シルフィは真剣な顔のまま続ける。
「そして、師匠を無能と呼ぶ者がいれば」
「シルフィ?」
「必要に応じて、事実を丁寧に説明します」
「今、少し言い換えたな」
「善処しました」
村人たちの間に小さな笑いが起きた。
シルフィの耳が少し赤くなる。
それでも、彼女は誓いを続けた。
「私は、私を欠けた器と呼んだ者たちの言葉ではなく、私を欠けていないと言ってくださった師匠の言葉を信じます」
その言葉で、笑いが消えた。
シルフィの声が、わずかに震えたからだ。
「私は、私の魔力を恐れるだけの生き方をやめます。師匠の弟子として、もう一度、自分の力を学びます」
彼女は深く頭を下げた。
「どうか、私を弟子にしてください」
全員の視線が俺に集まる。
困った。
こういう場で何を言えばいいのか分からない。
勇者パーティーにいた頃、俺が誰かに誓われることなどなかった。むしろ、命令される側だった。
だから立派な返事など出てこない。
俺は少し迷ってから、正直に言った。
「シルフィ」
「はい」
「俺は、たぶん師匠らしいことはあまりできない」
「はい」
「付与の理屈も、自分の力も、よく分かってない。シルフィの方が詳しいことも多いと思う」
「はい」
「でも」
言葉を探す。
世界樹の葉が、さらさらと鳴った。
「一緒に考えることはできると思う。シルフィの魔力のことも、俺の付与のことも、この村のことも。分からないことを、分からないまま放っておかないようにする」
シルフィが顔を上げた。
「それと、俺はシルフィを欠けた器だとは思わない。だから、もしシルフィが自分をそう思いそうになったら、たぶん何度でも違うって言う」
シルフィの瞳が揺れる。
「だから……俺でよければ、弟子として一緒にいてくれ」
言い終えた瞬間、村のどこかで誰かが鼻をすすった。
見ると、ミナが泣いていた。
「ミナ?」
「だって、いい話だったから」
隣の男の子も涙目になっている。
門番老人まで、目元をこすっていた。
「弟よ、お前もか」
村長が呆れたように言う。
「年を取ると涙腺が緩むんだ」
「それは分かる」
「村長さんも泣いてません?」
「これは朝露だ」
「目に?」
「目に朝露が来ることもある」
村人たちが笑う。
その中で、シルフィはゆっくり膝をついた。
エルフ式なのだろうか。
彼女は右手を胸に当て、左手を俺の方へ差し出した。
「師匠。手を」
「こうか?」
俺は彼女の左手に軽く触れた。
その瞬間、世界樹の若木が光った。
「……え」
俺は固まった。
シルフィも目を見開く。
世界樹の葉から、淡い緑の光が降ってくる。光はシルフィの周囲を包み、彼女の胸元へ吸い込まれるように集まった。
シルフィの体内で、乱れていた魔力が整っていくのが分かる。
昨日、応急処置として修復した魔力回路。
そこに、新しい流れが生まれていた。
「シルフィ、大丈夫か?」
「……大丈夫、です」
彼女は自分の手を見つめていた。
指先に小さな緑の光が宿っている。
「これは……古代森術の基礎紋……」
「基礎紋?」
「エルフの古い魔法体系です。リーフェン家でも、発現できる者はほとんどいませんでした」
シルフィの声は震えていた。
「私には、絶対に無理だと言われていました。魔力が不安定すぎるから。器が欠けているから、と」
光が強まる。
地面から小さな若草が芽吹き、世界樹の根元に白い花が咲いた。
村人たちがどよめく。
ぷる太が興奮したように跳ねる。
「ぷる! ぷるる!」
「ぷる太、落ち着け。今は大事な場面っぽい」
「ぷる!」
「分かってるのか分かってないのか」
シルフィはゆっくり立ち上がった。
彼女の周囲に、風が巻く。
強い風ではない。
森の奥を流れるような、柔らかい風。
「師匠」
「はい」
「私、魔法が……怖くありません」
その一言に、胸が締めつけられた。
シルフィは泣いていた。
でも、その涙は昨日のような恐怖の涙ではなかった。
ずっと閉じ込められていた何かが、ようやく外に出られたような涙だった。
「よかった」
俺はそれしか言えなかった。
もっと気の利いたことを言えればよかったのかもしれない。
でも、本当にそう思った。
よかった。
シルフィが自分の力を怖がらなくて済むなら、それだけで十分だ。
シルフィは涙を拭い、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、師匠」
「俺は何もしてないよ」
「しました」
シルフィは顔を上げる。
「あなたは、私が欠けていないと言ってくださいました。それだけで、私は自分の魔力を初めて信じられたのです」
「そんな大げさな」
「大げさではありません」
いつもの言葉。
でも、今度は少し泣き笑いだった。
村長が咳払いした。
「よし。これで弟子入りは成立だな」
「はい」
「村としても、シルフィを受け入れる。追っ手が来ようが、事情を聞かずに差し出すようなことはせん」
村人たちが頷いた。
「もちろんだ」
「シルフィちゃんはもう村の子だ」
「ぷる太の面倒も見てくれるしな」
「それは関係あるのか?」
「あるだろ。ぷる太係は重要だ」
シルフィは驚いたように村人たちを見た。
「私を……受け入れてくださるのですか」
門番老人が鼻を鳴らす。
「昨日から村にいるだろう」
「でも、私は追われる身で」
「うちの村には、追放された付与術師もいる。追われたエルフが一人増えたくらいで今さらだ」
「弟よ、言い方」
「事実だ」
「まあ事実だが」
村人たちがまた笑った。
シルフィはその笑いの中で、何度も瞬きをした。
泣きそうなのをこらえているようだった。
「ありがとうございます」
彼女は小さく言った。
その声を、俺はちゃんと聞いた。
◇
弟子入りが終わると、なぜかそのまま「シルフィの魔法確認会」が始まった。
言い出したのは村長である。
「せっかく魔法が使えるようになったなら、何ができるか見ておいた方がいい」
「確かに、危険な暴走がないか確認する必要はあります」
シルフィも真面目に頷く。
俺としては、いきなり魔法を使わせるのは大丈夫なのかと思ったが、彼女の表情は落ち着いていた。
「無理はするなよ」
「はい、師匠」
「少しでも痛かったら止めること」
「はい」
「あと、村に被害が出そうなら」
「その前に止めます」
「ならいい」
シルフィは世界樹の前に立ち、両手をそっと開いた。
風が集まる。
淡い緑の光が指先に宿る。
「《小さき芽吹きよ》」
短い詠唱。
地面に落ちていた種が、ぽん、と芽を出した。
村人たちが拍手する。
「おお!」
「かわいい魔法だな!」
「畑に便利そうだ!」
シルフィは少し照れたように笑う。
「本来は、発芽を促すだけの初歩術です」
「十分すごいよ」
俺が言うと、彼女は嬉しそうに頷いた。
次に、彼女は井戸水を入れた小鉢に手をかざした。
「《森の息吹よ、濁りを払え》」
水面に緑の光が広がり、水がさらに澄んだ。
ぷる太が対抗するように、小鉢へ飛び込もうとする。
「ぷる太、今はシルフィの練習だから」
「ぷる……」
「そんな残念そうにするな」
シルフィがくすりと笑った。
その笑い方は、昨日よりずっと自然だった。
最後に、村長が古い枝を持ってきた。
「これに魔法をかけられるか」
「やってみます」
シルフィは枝に触れた。
すると、枯れていた枝の先に小さな葉が出た。
村人たちがまたどよめく。
しかし、次の瞬間。
葉が一枚だけ、金色に光った。
「……師匠」
シルフィが俺を見る。
「俺、何もしてないぞ」
「近くにいるだけで補助が入っています」
「そうなのか?」
「はい。私の魔法が、師匠の付与に引っ張られて強化されています」
枯れ枝は、見る間に小さな苗木のようになった。
俺は慌てて一歩下がる。
成長が少し落ち着いた。
「本当に俺のせいだったのか」
「はい」
「近くにいるだけで?」
「はい」
「……それは少し困るな」
「ようやく困ってくださいましたか」
シルフィが真顔で言う。
村長も頷いた。
「アレン、お前さんが近くにいると色々育つのだな」
「雑なまとめ方ですね」
「事実だろう」
反論しづらい。
畑も育った。
豆も育った。
世界樹も育った。
ぷる太も育った。
シルフィの魔法も育った。
そろそろ「育成型付与術師」とでも名乗った方がいいのかもしれない。
「師匠」
シルフィが少し緊張した声で言った。
「もう一つ、試したいことがあります」
「何?」
「私の家に伝わっていた古代森術の断片です。以前は魔力が乱れて詠唱すらできませんでした。でも今なら……」
「危険は?」
「あります」
シルフィは正直に答えた。
「失敗すれば、周囲の魔力が乱れます。ただ、師匠のそばなら制御できるかもしれません」
俺は村長を見る。
村長は少し考えた。
「村に被害が出るか」
「分かりません」
「なら、今はやめておけ」
村長の判断は早かった。
「力を得たばかりで大きな術を試すものではない。畑も村も逃げられんからな」
シルフィははっとした顔になった。
それから、深く頭を下げる。
「申し訳ありません。少し、浮かれていました」
「浮かれるのは悪いことではない。だが順番がある」
「はい」
村長の言葉に、俺も頷いた。
「俺も賛成。できることが増えたなら、ゆっくり覚えればいい。急がなくていいよ」
シルフィは俺を見る。
そして、小さく笑った。
「師匠らしいですね」
「そうか?」
「はい。焦らせず、でも止めすぎない」
「たまたまだよ」
「そこも師匠らしいです」
褒められているのか、また分からなくなった。
◇
その日の午後、シルフィは村の空き家の一角に、小さな机を置いた。
俺が昨日から借りる予定だった空き家だ。
屋根は一部傷み、床板も少し鳴るが、掃除すれば十分住めそうだった。村人たちが手伝ってくれたおかげで、午前中のうちに藁と埃は片づき、窓も開けられるようになった。
そこに、シルフィは羊皮紙と羽ペンを並べた。
「何してるんだ?」
「師匠観察記録です」
「名前が怖い」
「正確には、師匠の付与現象に関する記録です」
「少しだけまともになった」
「第一項目。師匠は無自覚に周囲の生命力、魔力、環境を強化する。本人は『少しだけ』と表現する傾向があるが、実際には国家級、あるいは神域級の効果を持つ」
「待ってくれ。初手から重い」
「事実です」
「せめて、もう少し控えめに」
シルフィは羽ペンを止めた。
「では、『かなり強い』にしますか」
「それくらいで」
「ただし注釈に、師匠本人の希望により表現を弱めた、と書きます」
「注釈が正直すぎる」
「記録ですので」
俺は頭を抱えた。
ぷる太は机の端でぷるぷるしている。
インク瓶に近づこうとしたので、慌てて止めた。
「ぷる太、それは飲み物じゃない」
「ぷる?」
「飲んだら口が黒くなるぞ」
「ぷるる」
「いや、スライムに口はないけど」
シルフィはその様子まで記録しようとしていた。
「それも書くのか?」
「ぷる太の知性向上も重要です」
「ぷる太、昨日までは普通のスライムだったのにな」
「師匠が撫でましたから」
「撫でただけなんだけど」
「だから問題なのです」
すっかり定番になった会話だった。
空き家の窓からは、畑が見える。
村人たちが水路を整え、子供たちがぷる太を呼び、世界樹の若木が遠くで葉を鳴らしている。
その隣で、シルフィが真剣に俺の力を記録している。
不思議な光景だ。
でも、悪くない。
「シルフィ」
「はい」
「弟子になって、後悔してないか?」
何気なく聞いたつもりだった。
でもシルフィは、羽ペンを置き、まっすぐ俺を見た。
「していません」
迷いのない声だった。
「私は昨日、命を救われました。今日は、自分の魔力を信じるきっかけをもらいました。この村の方々にも受け入れていただきました。後悔する理由がありません」
「そっか」
「むしろ、師匠こそ後悔していませんか。追われるエルフを弟子にしたのです。面倒ごとが増えます」
「今さらだな」
「今さら、ですか」
「世界樹も生えたし、ぷる太もいるし、畑も変わったし。面倒ごとが一つ増えたところで、もう誤差だろ」
シルフィは一瞬きょとんとして、それから声を出して笑った。
初めて聞く、彼女の明るい笑い声だった。
「師匠、その考え方は雑です」
「自分でもそう思う」
「でも、ありがとうございます」
シルフィはそう言って、また羽ペンを取った。
その頬は少し赤かった。
俺は窓の外を見ながら、小さく息を吐く。
勇者パーティーを追放されたとき、俺は自分に何も残っていないと思っていた。
でも、今は違う。
住む家がある。
畑がある。
水路を浄化するぷる太がいる。
村人たちがいる。
そして、弟子がいる。
まだ自分の力は分からない。
分からないけれど、一緒に考えてくれる人ができた。
それだけで、ずいぶん心強かった。
◇
同じ頃、王都へ向かう街道では、一羽の黒い鳥が空を切って飛んでいた。
鳥の足には、小さな筒が結ばれている。
その筒の中には、短い報告が入っていた。
『リーフェン家の娘、生存。人間の辺境村に潜伏の可能性あり。付近に異常な魔力反応。調査継続』
黒い鳥は森を越え、山を越え、王都とは別の方角へ向かう。
その先にいる者たちは、まだ知らない。
追っているエルフの少女が、すでに世界樹の若木の前で新しい師を得たことを。
そして、その師が、自分の力をまるで理解していないまま、辺境の小さな村を静かに変え始めていることを。




