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無能だと追放された底辺付与術師、実は世界で唯一の【全自動・神級バフ】持ちでした 〜辺境でスローライフを送るはずが、俺が抜けて壊滅寸前の勇者パーティーが泣きついてきてももう遅い。  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第8話 追放した側が、なぜか追い詰められていく

 リーフェル村にやってきた行商人は、見るからに腰の低い男だった。


 年の頃は四十前後。日に焼けた顔に、よく笑う目。荷馬車には塩、布、油、鉄釘、鍋、針、干し果物、薬草酒の小瓶まで積まれている。辺境の村を回る行商人としては、ごく普通に見えた。


 ただし、シルフィだけは最初から警戒を解かなかった。


「師匠」


「うん」


「荷台の裏に魔力隠しの護符があります」


「やっぱり?」


「はい。悪意のあるものかは、まだ分かりません」


 俺は村長の横に立ち、門のところで行商人を迎えた。


 ぷる太は俺の肩の上で、ただの水色スライムに見えるよう光を抑えている。子供たちは少し離れた場所から、ぷる太を見せびらかしたくてうずうずしていた。


 頼むから今日は我慢してくれ。


 世界樹と霊豆と守護獣スライムの説明を行商人にする勇気は、俺にはまだない。


「やあやあ、村長さん。ご無沙汰しております」


 行商人は帽子を取り、にこやかに頭を下げた。


「バルドか。来るのは来月ではなかったか」


「そのつもりだったんですがね、王都の方で少々きな臭い話がありまして。早めに村々を回っておこうかと」


「きな臭い話?」


「ええ。魔物の動きが妙に荒いんです。それに、勇者様の一行が少し……いや、これは噂ですが」


 勇者。


 その言葉に、俺の胸が小さく跳ねた。


 シルフィがちらりと俺を見る。


 村長も俺の顔色を確認するように目を細めた。


「噂とは何だ」


「王都近くの農村で、ゴブリンの巣穴掃討に手間取ったとか。いや、勇者様がそんなはずはないんですがね。冒険者連中の酒場話では、泥だらけで戻っただの、見張りに回っただの、ずいぶん尾ひれがついておりまして」


 俺は思わず口を開きかけた。


 ゴブリンの巣穴。


 カイルたちが?


 いや、ありえない。


 カイルは強い。


 ミラの魔法は派手で正確だった。ガレスはゴブリンの群れ程度なら盾で弾き飛ばせる。リーナの治癒があれば、多少の傷も問題ない。


 俺がいなくなったからといって、そこまで変わるはずがない。


「師匠」


 シルフィが低い声で言った。


「また、ご自身の影響を過小評価しています」


「顔に出てた?」


「かなり」


「そんなにか」


「はい」


 行商人バルドは俺とシルフィを交互に見た。


「おや、見ない顔ですね。旅の方ですか?」


「アレンです。しばらくこの村でお世話になることになりました」


「ほう、若い術師さんですか。こちらのエルフのお嬢さんは?」


「シルフィです。アレン師匠の弟子です」


「師匠ではなく」


「弟子です」


「そこは押し切るのか」


 俺が小声で言うと、バルドは楽しそうに笑った。


「なるほど、にぎやかになりましたな。リーフェル村に若い術師とエルフのお嬢さんとは珍しい。いや、良いことです。村に若い声があるのは」


 その言い方に悪意はなかった。


 けれど、シルフィはまだ警戒している。


「バルドさん」


 シルフィが静かに尋ねた。


「荷台の護符は、何を隠しているものですか」


 バルドの笑みが、一瞬だけ止まった。


 村長の目が細くなる。


 俺も自然と半歩前に出た。


 バルドは困ったように帽子をかいた。


「いやはや、エルフのお嬢さんには隠せませんか。別に怪しいものではありませんよ。ただの薬草酒です」


「薬草酒に魔力隠しを?」


「王都の税吏がうるさくてね。薬効が高いと高級品扱いされる。辺境の村に安く売るには、少しばかり目立たないようにする必要があるんです」


 村長が鼻を鳴らした。


「またやっておるのか」


「人聞きが悪い。村長さんには毎回安くお売りしてるでしょう?」


「だから黙って見逃しておる」


「ありがたいことです」


 どうやら、バルドは以前からこういう商売をしているらしい。


 シルフィはなおも荷台を見つめていたが、やがて少しだけ肩の力を抜いた。


「悪意ある魔力は感じません」


「なら、いいのかな」


「今のところは」


 ぷる太が俺の肩で、ぷる、と小さく震えた。


 警戒ではない。


 たぶん、薬草酒の匂いに反応している。


「ぷる太、飲めないぞ」


「ぷる?」


「未成年とか以前に、スライムだからな」


「ぷるる」


「不満そうにするな」


 バルドが目を丸くした。


「そのスライム、ずいぶん賢そうですね」


「ええと、気のせいです」


「師匠。気のせいで済ませるには無理があります」


「シルフィ、今だけは合わせてくれ」


「努力します」


 努力された。


 たぶん駄目だ。


 村長が咳払いして話を戻した。


「バルド。王都の噂、もっと詳しく話せ」


「ええ。どうも勇者様の一行、ここ数日で依頼の失敗が続いているらしいんです」


 バルドの声が少し低くなる。


「ゴブリンで手間取り、次に受けたオーク討伐でも戻りが遅いとか。さらに王都の鍛冶屋では、勇者様方の装備が急に傷み始めたと騒ぎになっているそうで」


「装備が?」


 俺は反射的に聞き返した。


「ええ。聖剣はともかく、鎧や杖の補修が追いつかないとか。まあ、噂ですがね」


 ガレスの鎧。


 ミラの杖。


 最後に確認しようとして、断られた箇所が頭に浮かぶ。


 俺は胸の奥にざわつきを覚えた。


 シルフィは俺の表情を見て、少しだけ厳しい声を出す。


「師匠。心配ですか」


「それは……まあ」


「あなたを無能と呼び、追放した方々ですよ」


「そうなんだけど、怪我をしてほしいわけじゃない」


 シルフィは何か言いかけて、黙った。


 代わりに、静かに息を吐く。


「それが師匠なのですね」


「悪い?」


「いいえ。危ういとは思います。でも……嫌いではありません」


「それは、ありがとう」


 バルドは俺たちのやり取りを興味深そうに眺めていたが、すぐに商人の顔に戻った。


「とにかく、王都周辺は少し荒れそうです。村長さん、塩と油は多めに買っておいた方がいい。あと鉄釘も。魔物が動くなら柵の補修が必要でしょうから」


 村長は北柵をちらりと見た。


 昨日から妙に頑丈になった柵だ。


 下手な砦より強くなっている気もする。


「鉄釘は買う。だが柵は、まあ、今のところ足りておる」


「そうですか? 前に来た時はずいぶん傷んでいましたが」


「直った」


「直った?」


「直ったのだ」


 村長はそれ以上説明しなかった。


 バルドは不思議そうな顔をしたが、深くは聞かなかった。


 商人として、聞かない方がいいことを嗅ぎ分ける嗅覚があるのかもしれない。


 俺は王都の方角を見た。


 遠い空の下で、カイルたちは何をしているのだろう。


 自分には関係ない。


 そう思いたい。


 けれど、胸のざわつきは消えなかった。


     ◇


 カイルは、泥だらけのブーツを蹴るように脱いだ。


「くそっ!」


 農村の納屋に、彼の怒声が響く。


 借りている小屋は粗末だった。


 いや、村人たちにしてみれば、できる限りの厚意だったのだろう。藁は新しく、毛布も干してあり、水も食料も用意されていた。


 だが、カイルにとっては不快でしかない。


 なぜ自分が、こんな辺鄙な村の小屋で夜を明かさなければならないのか。


 なぜゴブリンの巣穴一つを、半日で潰せなかったのか。


 なぜ、仲間たちは自分を見る目に疑いを混ぜ始めているのか。


「おい、鎧を外すのを手伝え」


 カイルが言う。


 だが、返事が遅れた。


 ガレスは自分の肩の包帯を押さえている。


 ミラは杖の魔石を外して点検している。


 リーナは村人の怪我を診た後で、疲れ切った顔をしていた。


「聞こえなかったのか!」


 カイルが怒鳴る。


 リーナがびくりと肩を震わせた。


「す、すみません。今――」


「アレンなら、言われる前にやっていた」


 ガレスがぽつりと言った。


 小屋の空気が止まった。


 ミラがガレスを見る。


 リーナも顔を上げる。


 カイルの表情が凍った。


「何だと?」


「いや」


 ガレスは疲れたように頭をかいた。


「事実を言っただけだ。あいつはいつも、戦闘後に鎧を外す手順まで見てた。どこが歪んだとか、どこの留め具が危ないとか、俺が言う前に気づいてた」


「だから何だ。雑用だろう」


「その雑用がないと、俺は今、自分の鎧すらまともに外せねぇ」


 ガレスは低く言った。


 怒っているのではない。


 疲れている。


 痛みと苛立ちと、認めたくない現実が混ざった声だった。


 カイルは顔を赤くした。


「お前まで、あいつを持ち上げるのか」


「持ち上げてねぇ。重い鎧を下ろしたいだけだ」


 ミラが小さく笑った。


 笑いというより、乾いた息だった。


「私の杖も同じ。魔石の固定具が完全にずれてる。昨日アレンが言ってたの、これだったのね」


「ミラ」


「分かってる。言いたいことは分かってるわよ。アレンは無能、雑用、役立たず。そう言えば満足?」


 カイルの目が鋭くなる。


「お前、自分が誰に口を利いているのか分かっているのか」


「勇者様でしょ」


 ミラは顔を上げた。


 その目には、今までとは違う苛立ちがあった。


「でもその勇者様、今日オークの棍棒をまともに避けられなかったわよね」


「ミラ!」


 リーナが止めようとしたが、遅かった。


 カイルは椅子を蹴り飛ばした。


「黙れ!」


 木の椅子が壁に当たり、乾いた音を立てる。


 小屋の外で、村人の気配がざわついた。


 リーナは青ざめる。


「カイル、村の方々が不安になります」


「知るか!」


「知るか、ではありません。私たちはこの村の依頼を受けているのです」


「俺に説教するな!」


 カイルはリーナを睨みつけた。


 リーナは言葉を飲み込む。


 だが、完全には俯かなかった。


 そのわずかな変化が、カイルをさらに苛立たせた。


「お前たちは何を勘違いしている。俺たちは勇者パーティーだ。たかがゴブリン、たかがオークに手間取った程度で、何を狼狽えている」


「手間取った程度ではないわ」


 ミラが言った。


 声は小さい。


 けれど、はっきりしていた。


「今日、私たちは死にかけた」


 沈黙。


 ガレスも、リーナも、その言葉を否定しなかった。


     ◇


 その日のオーク討伐は、最悪だった。


 ゴブリンの巣穴を掃討しきれなかった勇者パーティーは、汚名返上のために近くの森で目撃されたオークの小集団を討つことになった。


 本来なら、それほど危険な相手ではない。


 オークはゴブリンより力が強く、群れれば厄介だが、動きは単純だ。勇者パーティーなら、正面から押し切れる相手だった。


 少なくとも、アレンがいた頃なら。


「ガレス、前に出ろ!」


「出てる!」


「押し返せ!」


「押し返せねぇんだよ!」


 ガレスの盾に、オークの棍棒が叩きつけられる。


 重い。


 こんなに重かったか。


 ガレスは歯を食いしばった。


 腕がしびれる。


 肩の傷が開きそうになる。


 足元の踏ん張りも利かない。


 以前なら、盾を斜めに構えれば衝撃が自然に流れた。体のどこに力を入れればいいか、感覚で分かった。まるで、誰かが背中を支えてくれているようだった。


 今は違う。


 棍棒の衝撃が、全部自分の体に来る。


「くそっ、重ぇ!」


 ガレスが押し込まれる。


 その横を、別のオークが抜けようとした。


「ミラ!」


「今やってる!」


 ミラは杖を掲げる。


「《炎槍》!」


 炎が飛ぶ。


 だが、狙いがわずかに外れた。


 オークの肩を焼いただけで、止まらない。


「何でよ!」


 ミラの額に汗が浮かぶ。


 魔力はある。


 だが、まとまらない。


 術式に流し込む瞬間、細かな部分がばらける。今までは意識しなくても補正されていた軌道や出力が、全部むき出しで自分に返ってくる。


 自分はこんなに不安定だったのか。


 認めたくない考えが、頭をよぎる。


「リーナ、補助を!」


 カイルが叫ぶ。


 リーナは祈りを唱えようとした。


 だが、喉が渇いて声が震える。


 昨日からほとんど眠れていない。治癒の消耗も大きい。食事をしても体が回復しない。


 アレンが作っていた食事は、ただの食事ではなかったのかもしれない。


 そんな考えが浮かぶたび、胸が痛む。


「《守護の光よ、彼らに――》」


 光が広がる。


 弱い。


 以前なら、仲間たちの体を柔らかく包み、動きを軽くした。今は薄い布を一枚かける程度だ。


「リーナ! 補助が薄い!」


「分かっています!」


 リーナは叫び返した。


 自分でも驚いた。


 カイルも一瞬、目を見開く。


 その隙をオークは見逃さなかった。


 大きな棍棒が横から振るわれる。


「カイル!」


 リーナが叫ぶ。


 カイルは聖剣で受けようとした。


 だが、手首が遅れた。


 衝撃。


 カイルの体が横に飛ぶ。


 地面を転がり、泥を浴びる。


「ぐっ……!」


 勇者の白銀の鎧が泥にまみれた。


 それを見て、ミラの顔が引きつった。


「撤退!」


 彼女が叫んだ。


「今すぐ!」


「誰が撤退など――」


「死にたいの!?」


 ミラの声が森に響いた。


 その声には、恐怖があった。


 カイルは反論しようとしたが、起き上がるだけで息が詰まった。


 オークはまだ三体いる。


 ガレスは限界。


 リーナの補助も薄い。


 ミラの魔法も乱れている。


 このまま続ければ、誰かが死ぬ。


「……一度下がる」


 ガレスが低く言った。


「カイル、文句は後で聞く。今は下がるぞ」


「命令するな……!」


「命令じゃねぇ。生き残るための判断だ!」


 ガレスは盾を構えたまま、後退した。


 勇者パーティーは、オーク三体を相手に撤退した。


 それが現実だった。


     ◇


 小屋の中に戻った今も、その現実は彼らの間に重く残っていた。


 カイルは机に両手をつき、荒い息を吐いている。


 ミラは杖の魔石を握りしめたまま、唇を噛んでいた。


 ガレスは鎧の留め具をようやく外し、肩の傷を確認する。


 リーナは治癒をかけようとしたが、魔力が思うように出ず、悔しそうに目を伏せた。


「すみません……」


「謝るな」


 ガレスが言った。


 珍しく、優しい声だった。


「お前のせいじゃねぇ」


「でも、私の治癒がもっと早ければ」


「違うだろ」


 ミラがぽつりと言った。


「誰か一人のせいじゃない。全部おかしいのよ」


 カイルが歯を鳴らす。


「またアレンか」


「名前を出したのはあなたよ」


 ミラは疲れた目でカイルを見た。


「ねえ、カイル。いい加減に現実を見たら?」


「現実?」


「私たちは弱くなった。アレンが抜けた後から」


 カイルの拳が震える。


「違う」


「じゃあ何?」


「疲労だ」


「休んでも回復しない」


「装備不良だ」


「アレンが直そうとしていたわ」


「敵が強かった」


「ゴブリンとオークよ」


 ミラの声も震えていた。


 怒りではない。


 恐怖と屈辱。


 そして、自分が今まで見ていなかったものに対する焦りだった。


「私、認めたくないわよ。あいつに助けられてたなんて。だって私、ずっと馬鹿にしてたもの。地味だとか、荷物番だとか、料理係だとか。でも……」


 ミラは杖を見下ろした。


「この杖、何回もアレンが直してた。私が魔石の癖を説明しなくても、勝手に最適な角度にしてくれてた。戦闘前には、詠唱が通りやすいようにって、何かしてた。私はそれを気休めだと思ってた」


 リーナが静かに続ける。


「私もです。アレンさんはいつも、治癒の前に魔力の流れを整えてくれていました。私は、それがどれほど大きな補助だったのか、今になって分かりました」


 ガレスが苦い顔で笑う。


「俺の鎧もだな。軽く感じてたのは、俺が強ぇからだと思ってた。違ったのかもしれねぇ」


「違う!」


 カイルが叫んだ。


「全部、違う! お前たちが弱気になっているだけだ! あいつは無能だ。俺が見限ったんだ。俺の判断が間違っているはずがない!」


 その言葉に、三人は黙った。


 カイルは「アレンが無能だ」と言いたいのではない。


 自分が正しいと証明したいのだ。


 リーナはそれに気づいてしまった。


 そして、気づいた瞬間、胸の奥が冷えた。


 この人は、仲間を見ていない。


 アレンを見ていなかったように。


 今も、私たちを見ていない。


 ただ、自分が間違っていないことだけを見ている。


「カイル」


 リーナは静かに言った。


「明日は休みましょう」


「休むだと?」


「はい。村には、私から説明します。王都へ応援を要請してもいい。今の状態で戦えば、本当に死人が出ます」


「勇者パーティーが応援を呼ぶ?」


「必要なら」


「恥を晒せと言うのか!」


「命より大切な恥などありません!」


 リーナの声が小屋に響いた。


 カイルが目を見開く。


 ミラもガレスも驚いた顔でリーナを見る。


 リーナ自身も、心臓が激しく鳴っていた。


 それでも引かなかった。


「私は、もう見たくありません。誰かが傷つくのを。自分の弱さを認められないせいで、取り返しのつかないことになるのを」


「……俺が弱いと言うのか」


「今の私たちは弱いです」


 リーナははっきり言った。


「少なくとも、アレンさんがいた頃の私たちではありません」


 その名が出た瞬間、カイルの表情が消えた。


「リーナ」


「はい」


「お前も、あいつのところへ行きたいのか」


「え?」


「そんなにあいつが大事なら、追いかければいい。勇者パーティーには必要ない」


 リーナの顔が白くなる。


 ミラが立ち上がった。


「ちょっと、それは言いすぎでしょ」


「黙れ、ミラ」


「黙らない。今のは最低よ」


 ガレスも重い息を吐いた。


「カイル。リーナは正しいことを言ってるだけだ」


「お前たち……」


 カイルは三人を見た。


 信じられないという顔だった。


 自分が中心であるはずのパーティーが、自分に逆らう。


 それが彼には耐えられなかった。


「分かった」


 カイルは低く言った。


「なら、明日は俺一人でも行く」


「馬鹿を言わないで!」


 ミラが叫ぶ。


「オーク三体であれだったのよ。巣穴にはまだゴブリンリーダーもいる。今のあなた一人で行ったら死ぬわ」


「俺は勇者だ」


「勇者でも死ぬ時は死ぬ!」


 ミラの言葉に、カイルは一瞬息を詰まらせた。


 死ぬ。


 その可能性を、彼は初めて正面から聞いたのかもしれない。


 これまでの彼にとって、死は敵に与えるものだった。


 自分に迫るものではなかった。


 なぜなら、いつも体は軽く、剣は鋭く、傷はすぐ治り、夜眠れば朝には力が戻っていたからだ。


 その全部が、自分の才能だと思っていた。


 今は違う。


 体は重い。


 剣は鈍い。


 傷は痛む。


 眠っても疲れは抜けない。


 そして仲間の目は、自分ではなく、ここにいない付与術師を見始めている。


 カイルは拳を握りしめた。


「……明日は休む」


 絞り出すような声だった。


 リーナがほっと息を吐く。


 だが、カイルは続けた。


「ただし、王都へ応援は呼ばない。恥を広める必要はない。装備を整え、態勢を立て直す。それだけだ」


「分かりました」


 リーナは頷いた。


 今はそれで十分だった。


 カイルが休むと言った。


 それだけでも、昨日までなら考えられない譲歩だ。


 ミラは椅子に座り直し、杖を抱えた。


「装備を整えるって言っても、誰が直すのよ」


 小屋の中がまた静かになる。


 全員が同じ人物を思い浮かべた。


 アレン。


 ガレスが苦笑した。


「……俺たち、あいつがいなくなってから、同じことばっかり考えてるな」


 誰も否定できなかった。


     ◇


 翌朝、勇者パーティーは休養を取ることになった。


 だが、それは休養とは呼びがたい一日だった。


 カイルは早朝から聖剣の素振りを始めた。


 しかし、百回も振らないうちに息が切れた。


 彼はそれを誰にも見られまいと、村外れの森の近くへ移動した。だが、村の子供に見られていた。


「勇者様、疲れてるの?」


 無邪気な声。


 カイルは顔を引きつらせた。


「鍛錬だ」


「ふーん。前に来た冒険者のおじさんは、もっと振ってたよ」


 子供は何気なく言っただけだった。


 けれど、カイルには刃のように刺さった。


「……向こうへ行け」


「はーい」


 子供が走り去る。


 カイルは聖剣を握りしめた。


 手のひらが痛い。


 聖剣が重い。


 どうしてこんなに重い。


「くそっ……」


 一方、ガレスは鎧の補修に苦戦していた。


 留め具を取り替えようとしても、うまく合わない。革紐の長さも微妙に違う。アレンなら、予備の部品をどこからか出してきて、黙々と直していただろう。


「アレン、あいつ、どこに何を入れてたんだ……」


 荷袋をひっくり返しても、必要なものが見つからない。


 というより、整理されていない。


 アレンがいた頃、ガレスは自分の装備袋の中身を把握していなかった。必要な時に必要なものが出てきたからだ。


 今になって、その異常さに気づく。


「俺、子供かよ……」


 ガレスは自嘲するように呟いた。


 ミラは杖の魔石を直そうとしていた。


 だが、固定具が微妙に歪んでいて、魔力がうまく通らない。


 何度も角度を変える。


 何度も試す。


 結果は同じ。


「何で、こんな簡単なことができないのよ……」


 彼女は杖を抱え、悔しさに唇を噛んだ。


 アレンはいつも、ミラが文句を言う前に直していた。


 その手つきは地味で、目立たず、彼女はまともに見たこともなかった。


 見ておけばよかった。


 そう思ってしまった自分に、ミラはまた苛立つ。


 リーナは、村人の怪我を診ていた。


 軽い切り傷。


 腰痛。


 子供の擦り傷。


 どれも本来なら簡単な治癒で済む。


 だが、魔力の消耗が重い。


 一人治すたび、息が切れる。


 村の老婆が心配そうに言った。


「僧侶様、大丈夫ですかい」


「はい。少し疲れているだけです」


「無理しなさんな。昨日から顔色が悪いよ」


「ありがとうございます」


 リーナは微笑もうとした。


 その時、ふと思い出した。


 アレンがいた頃、自分は治癒でここまで消耗したことがあっただろうか。


 戦闘後に何人も手当てしても、彼が横で薬草茶を渡してくれた。飲むと体が温まり、魔力が戻った。


 あれは、ただの薬草茶ではなかったのかもしれない。


「……私は、本当に何も見ていなかった」


 リーナの呟きは、誰にも聞こえなかった。


     ◇


 夕方。


 勇者パーティーの四人は、小屋に集まっていた。


 全員、休養したはずなのに疲れている。


 カイルは椅子に座り、腕を組んだまま黙っていた。


 ガレスは鎧の補修を途中で諦めている。


 ミラは杖を抱えたまま、壁に寄りかかっている。


 リーナは薬草をすり潰し、包帯を整えていた。


 食事は村人が用意してくれた麦粥と焼き野菜だった。


 ありがたい食事だ。


 だが、以前の旅の食事と比べると、どうしても体に染み込まない。


 いや、比べること自体が失礼なのかもしれない。


 アレンが作っていた食事は、味が派手ではなかった。


 けれど、食べると体が楽になった。


 翌朝、動けた。


 今は食べても、疲れが底に残る。


 ガレスが匙を置いた。


「なあ」


 誰も返事をしない。


 それでもガレスは続けた。


「アレンを探すか」


 小屋の空気が固まった。


 ミラが顔を上げる。


 リーナも手を止める。


 カイルだけが、ゆっくりとガレスを睨んだ。


「何だと」


「探すかって言った。連れ戻すとかじゃねぇ。まず話を聞く。俺たちに何が起きてるのか、あいつなら分かるかもしれん」


「お前は、勇者である俺があいつに頭を下げろと言うのか」


「必要ならな」


 ガレスの声は重かった。


 カイルの顔が怒りで歪む。


 ミラが静かに言う。


「私は、話を聞きたい」


「ミラ!」


「だって、このままじゃ本当に戦えない。杖も直らない。魔力も戻らない。あなたの聖剣だって、昨日から輝きが弱い」


「俺の聖剣を侮辱するな!」


「侮辱じゃない。事実よ」


 リーナも小さく頷いた。


「私も、アレンさんに謝るべきだと思います」


 謝る。


 その言葉に、カイルは顔を強張らせた。


「謝る? 誰が、誰に」


「私たちが、アレンさんにです」


「馬鹿な」


「私たちは、彼を正しく見ていませんでした。少なくとも私は、そうです。カイル、あなたも――」


「俺は間違っていない!」


 カイルが立ち上がる。


「俺は勇者だ! 勇者である俺が不要と判断したから、アレンは不要だった! それだけだ!」


「なら、なぜ私たちはここまで追い詰められているのですか」


 リーナの声は静かだった。


 怒鳴ってはいない。


 だからこそ、カイルの胸に深く刺さった。


「なぜ、食事で回復しないのですか。なぜ、装備が壊れるのですか。なぜ、魔法が乱れるのですか。なぜ、私の治癒は届かないのですか。なぜ、あなたの聖剣は重いのですか」


「……黙れ」


「全部、アレンさんが支えてくれていたのだとしたら?」


「黙れ!」


 カイルは机を殴った。


 器が跳ね、麦粥がこぼれる。


 沈黙。


 そのこぼれた粥を、誰もすぐには拭かなかった。


 以前なら、アレンが真っ先に布を出していただろう。


 その事実に、四人は同時に気づいてしまった。


 ミラが苦く笑った。


「……本当に、いないのね」


 その一言が、小屋の中に重く落ちた。


 アレンはいない。


 怒鳴っても、呼んでも、雑用を押しつけても、もう出てこない。


 こぼれた粥を拭く手も。


 壊れた留め具を直す指も。


 火加減を見てくれる目も。


 魔力を整える見えない付与も。


 もう、ここにはない。


 カイルは荒い息を吐きながら、椅子に座り込んだ。


 その顔には、怒りだけではないものが浮かんでいた。


 認めたくない不安。


 崩れていく自信。


 そして、わずかな恐怖。


「……アレンは、どこへ行った」


 カイルが低く呟いた。


 リーナが顔を上げる。


「探すのですか」


「違う」


 カイルは即座に否定した。


「俺は、あいつを連れ戻すだけだ。謝るためではない。俺たちの戦力を戻すためだ」


 ミラの目が冷える。


「まだそんな言い方をするの」


「あいつは勇者パーティーの一員だった。俺が戻れと言えば、戻る」


「戻らなかったら?」


 ガレスが尋ねた。


 カイルは答えなかった。


 答えられなかった。


 アレンが戻らない。


 その可能性を、彼は初めて考えたのかもしれない。


     ◇


 同じ夕方。


 リーフェル村では、夕食の支度が始まっていた。


 畑で採れたばかりの霊豆は、まだ外へ出すわけにはいかないので、村人たちで少しだけ試食することになった。


 大鍋で煮込んだ豆のスープ。


 畑の野菜。


 バルドから買った塩と油。


 そして、ぷる太が浄化した井戸水。


 ただそれだけの食事なのに、香りが信じられないほど豊かだった。


「師匠、味見を」


 シルフィが木匙を差し出す。


「俺が?」


「師匠が育てた豆です」


「育てたのはミナと畑だよ」


「師匠が付与しました」


「少しだけな」


「少しだけで世界樹も生えました」


「それを言われると弱い」


 俺はスープを一口飲んだ。


 体が温かくなる。


 豆の甘みが深く、野菜の旨味もある。派手な味ではない。けれど、疲れた体にゆっくり広がっていくような優しい味だった。


「うまい」


 素直に言った。


 シルフィが嬉しそうに微笑む。


「はい。とても」


 村人たちも次々にスープを口にする。


「何だこれ、体が軽いぞ」


「腰が温まる!」


「畑仕事の疲れが抜けるみたいだ」


「ぷる太も食べるか?」


「ぷる!」


「おい、スライムに豆をやっていいのか?」


「ぷる太なら大丈夫だろ」


 村は笑い声に包まれていた。


 昨日まで痩せた畑に不安を抱えていた人々が、今日は温かい鍋を囲んでいる。


 俺はその光景を見ながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


 このスープを、カイルたちにも食べさせたら元気になるだろうか。


 ふと、そんな考えが浮かんだ。


 でもすぐに消す。


 俺はもう、あのパーティーにはいない。


 今はこの村にいる。


 この村で、俺を必要としてくれる人たちと、明日の畑の話をしている。


「師匠」


 シルフィが小さく声をかけた。


「また、勇者パーティーのことを考えていましたか」


「……分かる?」


「はい」


「少しだけな」


「心配するなとは言いません」


 シルフィは意外なことを言った。


「ただ、忘れないでください。師匠はもう、道具ではありません」


 俺はシルフィを見た。


 彼女の青い瞳は、夕暮れの光を受けて静かに澄んでいる。


「誰かを助けたいと思う優しさと、誰かに使い潰されることは違います」


 その言葉に、俺は何も言えなくなった。


 村の笑い声。


 鍋の湯気。


 ぷる太の揺れる音。


 世界樹の葉が風に鳴る澄んだ音。


 その全部が、今の俺の居場所を教えてくれている気がした。


「そうだな」


 俺はゆっくり頷いた。


「ありがとう、シルフィ」


「弟子ですので」


「弟子って便利な言葉だな」


「はい。今後も使います」


「そこは否定しないんだ」


 シルフィは少し笑った。


 その横で、ぷる太が鍋に近づきすぎて、ミナに「熱いからだめ!」と叱られていた。


 平和だった。


 少なくとも、この瞬間だけは。


 遠く離れた場所で、追放した側が自分たちの足元が崩れていく音を聞いていることなど、今の俺には知る由もなかった。

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