第89話 フローリア令嬢の病室
グレヴィール伯爵家の病室では、音が敵だった。
廊下を歩く靴音。
薬瓶の触れ合う小さな響き。
侍女が息を呑む気配。
窓の外で枝が擦れる音。
普通なら誰も気にしないようなものが、フローリア・グレヴィールの夜には、針のように降ってくる。
「灯りを、もう少し……」
寝台の上で、少女が細い声を出した。
侍女が魔導灯の覆いをさらに下げる。
部屋は、ほとんど闇に沈んだ。
暗すぎると看護ができない。
明るすぎると、フローリアの目が痛む。
そのぎりぎりのところを、侍女たちは毎夜探っていた。
「これでどうです、フローリア様」
「……うん」
返事は小さい。
言葉一つ出すのにも、体力を使っているようだった。
フローリアは八歳にしては小柄で、銀色に近い淡い髪が枕の上に広がっている。
頬は熱で赤い。
けれど唇は白く、指先は冷えていた。
枕元には、音を和らげる結界具、光を散らす布、魔力振動を測る水晶、発熱記録板が並んでいる。
どれも高価なものだ。
どれも、父が集めたものだ。
そして、どれもフローリアを完全には救えなかった。
「お父さま」
少女が呼ぶ。
寝台から少し離れた椅子に座っていたアルベルト・グレヴィール伯爵は、すぐに身を乗り出しかけた。
しかし、途中で止まる。
近づきすぎれば、衣擦れの音がする。
手を握れば、指輪の冷たさが刺激になる。
声を大きくすれば、耳に響く。
父親が父親らしく振る舞おうとするほど、娘には負担になる。
それが、この病室の残酷な決まりだった。
「ここにいる」
アルベルトは、できるだけ低く、静かに答えた。
「離れない」
「……うん」
「何か欲しいものはあるか。水か。薬か。侍女を」
「ちがう」
フローリアは、目を薄く開けた。
暗がりの中でも、その瞳が熱で潤んでいるのが分かる。
「その人……来るの?」
その人。
部屋の空気が、ほんのわずかに固まった。
侍女たちが目を伏せる。
主治医のダリオは、記録板へ走らせていたペンを止めた。
壁際に控えていた家令オルガンも、顔を上げる。
アルベルトは、すぐに答えられなかった。
「……まだ、分からない」
「来たら……帰れる?」
か細い問いだった。
それなのに、どんな叱責より鋭かった。
アルベルトは娘を見つめる。
「帰れるに決まっている」
そう言えばよかった。
ただ、それだけでいい。
彼は強制しないつもりだった。
招待状にもそう書かせた。
自由意思を尊重する。
いつでも辞退できる。
王国騎士団の立会いも認める。
伯爵家の客人として礼を尽くす。
何一つ、乱暴なことはしない。
だから、帰れる。
そう言うべきだった。
なのに、言葉が喉で止まった。
もし、その付与術師が本当に娘の苦痛を和らげられるなら。
もし、一晩だけでもフローリアが眠れるなら。
もし、その者が帰りたいと言った夜に、フローリアの発作が起きたら。
自分は本当に笑って送り出せるのか。
馬車を用意して、ありがとうございましたと頭を下げ、娘の悲鳴を背にして帰らせることができるのか。
答えは、すぐには出なかった。
フローリアは父の沈黙を見ていた。
子供は、大人が思うよりずっと、大人の詰まった言葉に敏感だ。
「お父さま」
「……何だ」
「帰れないなら、いや」
アルベルトの顔が強張った。
「フローリア」
「私のせいで、だれかが帰れないのは、いや」
「お前のせいではない」
思わず声が強くなった。
フローリアがびくりと肩を震わせる。
主治医がすぐに手を上げた。
「伯爵様、声量を」
アルベルトは口を閉じた。
謝罪の言葉も、大きくなりそうで飲み込むしかない。
何ということだ。
娘を安心させたいだけなのに、自分の声すら娘を刺す。
彼は椅子の肘掛けを握った。
金具が、かすかに鳴る。
フローリアの眉が歪む。
アルベルトは慌てて手を離した。
自分の存在そのものが、うるさい。
そう思った瞬間、胸の奥に怒りが湧いた。
誰に向けてか分からない怒りだ。
病へ。
無力な医療へ。
遠い辺境で条件ばかりつける村へ。
そして、娘に触れることすらうまくできない自分へ。
◇
発作が少し落ち着いた後、フローリアは眠った。
眠ったといっても、浅い眠りだ。
いつまた音や光に反応して目を覚ますか分からない。
主治医のダリオは、病室の外へ出てからようやく普通の声量で言った。
「今夜は、刺激反応が強いです。音、光、触覚、いずれも過敏です」
アルベルトは廊下の壁際に立ったまま、険しい顔をしている。
「薬は」
「これ以上強めれば、呼吸が浅くなります」
「結界具は」
「現在の強度が限界です。強めれば、魔力のこもりが逆に刺激になります」
「では何をすればいい」
「何もしない時間を作ることです」
ダリオの答えに、アルベルトは鋭く彼を見た。
「またそれか」
「はい」
「何もしないことが治療だと言うのか」
「時には」
「娘が苦しんでいる時に?」
「苦しんでいる時だからです」
ダリオは疲れていた。
伯爵を嫌っているわけではない。
むしろ、この父親が娘を深く愛していることは嫌というほど知っている。
夜中に何度呼び出されても、伯爵は必ずそこにいる。
薬の名前も、発作の時間も、魔力値の変動も覚えている。
使用人に責任を押しつけることもしない。
医師への支払いを渋ることもない。
だが、疲れる。
この父親は、娘のためなら何時間でも問い続ける。
なぜ駄目なのか。
どこが危険なのか。
どの条件なら試せるのか。
誰を呼べばよいのか。
金なら出す。
場所なら整える。
責任なら取る。
そう言って、相手の逃げ道を一つずつ塞いでいく。
本人は善意で。
父親として。
最善を尽くしているつもりで。
「伯爵様」
ダリオは声を落とした。
「付与術師アレン殿を招く件ですが、医師として申し上げます。今の状態のフローリア様を直接お見せすることは、慎重に考えるべきです」
「なぜだ」
「アレン殿の人柄について、王都ギルドから補足がありました。苦しむ患者を前にすると、非常に強く責任を感じる方のようです」
「それは、医療者として望ましい態度ではないのか」
「医療者ではありません」
ダリオは即座に言った。
「そして、望ましい態度にも限度があります」
アルベルトは黙った。
ダリオは続ける。
「アレン殿がフローリア様を見て、その場で何かをしたいと言い出した場合、伯爵様は止められますか」
「本人が望むなら」
「そこです」
ダリオの声が少し硬くなった。
「伯爵様は『本人が望むなら』とおっしゃる。しかし、その本人が、フローリア様の苦しみを見て望んだものなら、それは本当に自由な判断でしょうか」
アルベルトの眉が動いた。
「私は強制しない」
「強制だけが圧力ではありません」
「医師までリーフェル村の板のようなことを言うのだな」
「板は存じませんが、内容は正しいようです」
ダリオは引かなかった。
「アレン殿を呼ぶなら、フローリア様の苦しみを見せる前に、文書だけで検討していただく方が安全です」
「文書で娘の何が分かる」
「すべては分かりません」
「なら、直接見るべきだ」
「直接見れば、冷静に戻れない方もいます」
アルベルトは、口を開きかけて止めた。
自分のことを言われているようにも聞こえた。
娘を見ると、彼は冷静ではいられない。
今もそうだ。
自分が正しいと思う手段へ、すぐ手を伸ばしたくなる。
「私は、娘を救いたいだけだ」
その声には、怒りより疲れがあった。
「それが、そんなに悪いことか」
ダリオはしばらく沈黙した。
そして、静かに答えた。
「悪いことではありません」
「なら」
「ただ、救いたい気持ちが強すぎると、別の誰かを道具にしていることに気づけない時があります」
廊下が静まり返った。
家令オルガンが、わずかに顔を伏せる。
言い過ぎだと思ったのかもしれない。
だが、ダリオは謝らなかった。
アルベルトは低く問う。
「私が、その付与術師を道具にしていると言いたいのか」
「そうならないように申し上げています」
「言葉を選べ」
「選んでいます」
ダリオの声も震えていた。
怖くないはずがない。
相手は伯爵だ。
自分の所属する医療院へ、多額の寄付をしている家の当主だ。
それでも言わなければならないことがある。
「フローリア様は先ほど、『帰れないなら嫌』とおっしゃいました。あの方は、もう感じています。自分のために誰かが捕まるのではないかと」
「捕まるなど」
「言葉の問題ではありません」
ダリオは言った。
「客人、滞在、礼遇、安全な環境。言葉はいくらでも整えられます。ですが、フローリア様が『帰れるのか』と聞いた。それがすべてです」
アルベルトは、廊下の灯りを見つめた。
その灯りも、病室の中へ漏れないよう何重にも覆われている。
娘のために作った静かな廊下。
高価な結界具。
選び抜いた医師。
最良の薬。
すべて揃えても、娘は聞いた。
その人は帰れるのか、と。
◇
オルガンは、主治医が去った後も廊下に残っていた。
アルベルトは窓のそばへ移動し、外の暗い庭を見下ろしている。
春の庭には、夜咲きの花がわずかに揺れていた。
音が出ないよう、噴水は止められている。
小鳥を呼ぶ木も剪定されている。
すべてフローリアのためだ。
そのはずだった。
「オルガン」
「はい」
「私は、あの付与術師を閉じ込めようとしているように見えるか」
家令は、すぐには答えなかった。
主人が望む答えは分かる。
そんなことはありません。
伯爵様は礼を尽くしておられます。
強制ではありません。
自由意思を尊重しています。
それを言うことは簡単だ。
だが、先ほど病室で聞いたフローリアの声が、まだ耳に残っている。
帰れるの?
八歳の少女が、最初にそこを心配した。
なら、大人が言葉で飾っても意味がない。
「見え方としては」
オルガンは慎重に言った。
「その危険はございます」
アルベルトは振り返らなかった。
「お前までか」
「伯爵様が実際に閉じ込めようとしている、という意味ではありません」
「では何だ」
「伯爵様は、一度責任を持つと決めたものを手放すことが苦手でいらっしゃいます」
廊下の空気が少し張った。
オルガンは続けた。
「医療具も、保管庫に残っています。使わなくなったものも、また必要になるかもしれないと」
「あれは娘のためだ」
「はい」
「不足して困るより、ある方がいい」
「その通りです」
「なら何が悪い」
「悪いとは申しません」
オルガンは、言葉を一つずつ選んだ。
「ただ、人は医療具ではありません」
アルベルトが、ようやくこちらを見た。
その目は疲れている。
怒りもある。
だが、それ以上に傷ついていた。
「私は、それくらい分かっている」
「存じております」
「では」
「分かっていても、娘を救える可能性がある方を、屋敷に留めておきたいと思うかもしれません」
沈黙。
アルベルトは否定しなかった。
できなかった。
「一晩だけのつもりが、発作が起きればもう一晩。新しい症状が出れば、確認だけ。別の補助具の可能性があれば、数日だけ。そうなれば、伯爵様は強制していないとおっしゃるでしょう」
「本人が望むなら」
「そこです」
オルガンも、主治医と同じ言葉に戻った。
「アレン殿が望んだ形にしてしまえば、伯爵家は責任を負わなくて済みます。ですが、その望みが、フローリア様の苦しみを見た後に生まれたものなら」
「……」
「それは、伯爵家が望ませたとも言えます」
アルベルトは窓枠に手を置いた。
強く握ったせいで、指の関節が白くなる。
「娘を救うなと言うのか」
「いいえ」
「では何をしろと」
「まず、文書での相談を進めるべきです」
「文書では足りない」
「足りないかもしれません。ですが、最初から本人を呼ぶよりは安全です」
「安全、安全、安全……」
アルベルトは低く笑った。
疲れた笑いだった。
「娘は毎晩、安全に苦しんでいる」
オルガンは何も言えなかった。
その言葉は卑怯だ。
だが、父親の本音でもあった。
安全な手順。
慎重な文書。
本人同意。
第三者立会い。
どれも大切だ。
しかし、その間にもフローリアは眠れない。
その夜を見ている父親にとって、慎重さは時に残酷に見える。
「オルガン」
「はい」
「私は、間違っているのか」
主人の声は、先ほどより少し弱かった。
家令は、すぐに答えなかった。
間違っていない、と言ってやりたかった。
しかし、それでは何も進まない。
「フローリア様を救いたいお気持ちは、間違っておりません」
「なら」
「ですが、そのために誰をどこへ呼ぶかは、間違える可能性があります」
アルベルトは目を閉じた。
「面倒な言い方をする」
「セラド法務官ほどではございません」
思わず出た冗談だった。
アルベルトは一瞬だけ目を開き、かすかに眉を上げた。
「誰だ、それは」
「リーフェン家の法務官です。書状で何度か」
「ああ、あの皮肉な文を書く男か」
「はい」
「……あれより面倒でないなら、まだ聞ける」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
オルガンはその隙に言った。
「伯爵様。フローリア様は、あの方が帰れるかを気にされました」
「分かっている」
「ならば、次の書状では、その問いに答えるべきです」
「帰れる、と?」
「言葉で書くだけでは足りません。帰る必要がない形にするのです」
アルベルトは目を細めた。
「どういう意味だ」
「アレン殿を呼ばず、資料だけで相談する形をまず受け入れる。それが、フローリア様の問いへの答えになります」
アルベルトは、明らかに不満そうだった。
だが、怒鳴らなかった。
病室の扉の向こうに娘がいるからだ。
「……考える」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。まだ認めたわけではない」
「はい」
◇
夜半を過ぎ、フローリアは一度目を覚ました。
発作というほどではない。
ただ、眠りが浅く、細い呼吸の中でふと目を開けた。
侍女が気づき、そっと水を差し出す。
フローリアは少しだけ飲んだ。
「お父さまは?」
「廊下にいらっしゃいます」
「怒ってる?」
侍女は一瞬迷った。
嘘をつくのは簡単だ。
しかし、フローリアはそういう嘘に敏感だ。
「少し、困っていらっしゃいます」
「私のせい?」
「違います」
侍女は、そこだけは強く言った。
「フローリア様のせいではありません」
「でも、私が眠れないから」
「眠れないことは、悪いことではありません」
「でも、みんな眠れない」
侍女は唇を結んだ。
否定したかった。
そんなことはありません、と。
しかし、屋敷の夜は実際にフローリアを中心に回っている。
侍女も医師も父も、眠れない。
フローリアは、それを知っている。
「その付与術師さん」
フローリアは、ゆっくり言った。
「アレンさん?」
「はい」
「その人も、眠れなくなる?」
侍女は答えられなかった。
代わりに、枕元の布を少し直す。
「私は、その方にお会いしたことがありませんので」
「お父さまは、来てほしいって言ってた」
「伯爵様は、フローリア様を助けたいのです」
「うん」
フローリアは小さく頷いた。
「知ってる」
そして、少しだけ顔を伏せた。
「でも、お父さまは、助けたい時、ちょっと怖い」
侍女は、息を呑みそうになって必死に堪えた。
音を立ててはいけない。
「怖い、ですか」
「うん」
「伯爵様が?」
「怒ってるみたいになる。私にじゃないけど」
少女の声はかすれている。
「お医者さまにも、家令にも、魔道具にも、夜にも……怒ってる」
侍女は何も言えない。
フローリアは、ゆっくり続けた。
「私、助けてほしい。でも、誰かが怒られるのはいや」
「……はい」
「誰かが帰れなくなるのも、いや」
「はい」
「じゃあ、わがまま?」
侍女は首を横に振った。
「違います」
「本当に?」
「本当です」
「眠りたいって思うのも、誰かに無理してほしくないって思うのも、両方いい?」
侍女は、その問いに胸が詰まった。
八歳の子供が、そんなことを聞かなければならない夜。
それが、この屋敷の現実だった。
「両方、いいです」
侍女は静かに答えた。
「両方、フローリア様のお気持ちです」
「そっか」
フローリアは、少し安心したように目を閉じた。
「じゃあ、紙で聞いて」
「紙で?」
「うん。来なくていいなら、紙で聞いて」
その言葉を、侍女はすぐに記録係へ伝えた。
◇
明け方。
アルベルトは、娘の短い聞き取り記録を読んだ。
『眠りたい』
『でも、誰かが帰れなくなるのは嫌』
『来なくていいなら、紙で聞いて』
紙は薄い。
文字も少ない。
だが、伯爵の手には重かった。
オルガンが横に立っている。
主治医ダリオもいる。
誰も急かさない。
アルベルトは、何度も読み返した。
「……来なくていいなら、紙で聞いて」
低く呟く。
娘の言葉だ。
医師でも、村でも、ギルドでもない。
フローリア本人の言葉。
無視できるはずがない。
「オルガン」
「はい」
「次の書状を作る」
「内容は」
「アレン殿の招聘は……」
そこで、アルベルトは少し詰まった。
やめる、と言うのは難しい。
まだ、心のどこかで呼びたい。
直接見てもらいたい。
娘の苦しみを、ただ紙の数値ではなく、人間として見てもらいたい。
その気持ちは消えない。
だが、娘が言った。
紙で聞いて、と。
「……一度、保留する」
オルガンが静かに頷いた。
「承知しました」
「症例資料を追加する。フローリア本人の聞き取りも添える」
「はい」
「王都医療院経由で送れ。銀葉商会は外す」
ダリオが少しだけ表情を緩めた。
「それがよいでしょう」
アルベルトは、医師を見た。
「勝ち誇るな」
「誇っておりません」
「顔が少し緩んだ」
「医師として、少し安心しました」
「嫌味な医師だ」
「伯爵様ほどではありません」
オルガンが咳払いをした。
この二人は、時々ぎりぎりのところで会話をする。
だが、そのやり取りができるだけ、今はまだ悪くない。
アルベルトは、聞き取り記録をもう一度見た。
眠りたい。
でも、誰かが帰れなくなるのは嫌。
「フローリア」
彼は、まだ明けきらない窓の外へ目を向けた。
「お前は、私より余程よく見ている」
声には、悔しさと、愛情と、少しの恥が混ざっていた。
◇
その日の昼、グレヴィール伯爵家から新しい資料が王都ギルドへ送られた。
招待の撤回ではない。
完全な譲歩でもない。
だが、明らかに文面は変わっていた。
『アレン殿本人の招聘については、現時点では回答を急ぎません』
『まずは、フローリア本人の聞き取り記録を含む症例資料を、王都医療院およびギルド経由にて共有いたします』
『可能であれば、文書による初期見解を賜りたく存じます』
その末尾に、短い本人発言の写しが添えられていた。
マリナはそれを読み、しばらく黙った。
グラウスも、同じ紙を見る。
「伯爵が下がったか」
「完全には下がっていません」
マリナは言った。
「でも、一歩は下がりました」
「娘の言葉でか」
「おそらく」
彼女は、聞き取り記録をそっと机に置いた。
「これは、リーフェル村へすぐ送ります」
「返答不要をつけろ」
「はい」
マリナは羽ペンを取った。
そして、共有文の冒頭にこう書いた。
『フローリア・グレヴィール本人の聞き取り記録が届きました。アレン殿本人の移動判断ではなく、症例相談のための資料として共有します』
アレン本人の移動判断ではなく。
症例相談のため。
その線を、王都側でもはっきり引く。
◇
リーフェル村にその資料が届くのは、まだ少し先のことだ。
だが、王都から森へ向かう便の中で、フローリアの小さな言葉は、紙に守られて運ばれていく。
眠りたい。
でも、誰かが帰れなくなるのは嫌。
来なくていいなら、紙で聞いて。
その言葉は、グレヴィール伯爵家の豪華な招待状よりもずっと細い。
けれど、ずっと強かった。




