第88話 王都、伯爵家の評判を調べる
グレヴィール伯爵家の評判を調べる、と言っても、最初から悪事の証拠を探すつもりで動けば、たぶん何も見えない。
グラウス副団長は、会議室の机に王都の地図を広げながら、最初にそう言った。
「先に結論を決めるな」
カイルは椅子に座ったまま、腕を組んでいる。
「伯爵家が銀葉商会を使って、アレンを王都へ呼ぼうとしている。それは事実でしょう」
「事実だ」
「なら、危険な相手だ」
「危険であることと、悪人であることは別だ」
グラウスの声は淡々としていた。
カイルは少し眉を寄せる。
「言葉遊びに聞こえます」
「剣を抜く相手を決める時に、言葉を雑にするな」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、カイルは口を閉じた。
ミラが横で肩をすくめる。
「副団長の言いたいことは分かるわ。悪徳貴族なら話は簡単よ。弱い子供を利用して、怪しい商会に金を流して、希少な付与術師を囲い込もうとしてる。はい、分かりやすい悪人。みんなで止めましょう、で終わる」
「実際、囲い込もうとしている可能性はある」
カイルが言う。
「可能性はね」
ミラは地図の上に指を置いた。
「でも、病気の娘を助けたい父親でもある。そこを無視して悪人にしちゃうと、私たちはまた自分の正しさに酔うことになる」
その言葉に、カイルの顔がわずかに硬くなった。
自分の正しさに酔う。
かつての勇者パーティーは、それでアレンを追い出した。
世界を救うため。
足手まといを外すため。
急ぐため。
正しい目的を並べて、アレン本人の言葉を聞かなかった。
ガレスが机の地図を見ながら言った。
「調べる項目を分けた方がいい」
グラウスが頷く。
「そのために呼んだ」
彼は地図の三か所を指した。
「リーナは王都西区高等医療院。フローリア嬢の治療に関わる者へ、開示可能な範囲で話を聞け。診療内容そのものを盗み見るな。医療者が伯爵家から圧力を受けていないか、治療方針を伯爵が歪めていないかを確認する」
「分かりました」
リーナが真剣な顔で頷いた。
「患者本人の情報は、本人と保護者の許可がない限り聞きません」
「それでいい」
次に、グラウスは王都東側の商業区を指した。
「ガレスは魔道具商組合と倉庫管理組合。グレヴィール伯爵家が過去に購入した医療具、魔道具、希少素材の流れを調べろ。違法取引が目的ではない。囲い込みの傾向があるかを見る」
「分かった」
「カイルとミラは、西区の住民、伯爵領から来た商人、伯爵家が寄付している孤児院と施療所を回れ。評判を拾え」
カイルが顔を上げる。
「俺とミラが聞き込みですか」
「不満か」
「俺は、あまり聞き込み向きでは」
「自覚があるのね」
ミラがすぐに言った。
「お前も失礼だな」
「事実よ。あなた、質問が尋問になるのよ」
「なら、なぜ俺を」
グラウスは、わずかに口元を動かした。
「お前が『評判の良い貴族』をどう見るか、確認するためだ」
「俺の訓練ですか」
「半分はな」
「残り半分は」
「顔が売れている。庶民が話しやすい」
カイルは微妙な顔になった。
「便利に使われている気がする」
ミラが笑う。
「元勇者様、人気者でよかったじゃない」
「今は、その呼び方をされるのが少し重い」
「なら、ちょうどいいでしょ。重い名前をどう使うか考える練習」
カイルは反論せず、地図を畳んだ。
◇
王都西区にある聖リューネ施療所は、貧しい者でも診察を受けられることで知られていた。
建物は古い。
壁の漆喰には何度も補修した跡があり、待合室の長椅子も角が丸くなるほど使われている。
それでも床は清潔で、薬草の匂いがした。
玄関横の石板には、寄付者の名前が刻まれている。
上の方に、グレヴィール伯爵家の名があった。
「毎年、かなりの金額をいただいております」
施療所の管理をしている老修道女は、ミラが尋ねると穏やかに答えた。
「冬の燃料費、子供用の解熱薬、寝台の修繕。伯爵家の寄付がなければ、この施療所は何度も閉じていたでしょう」
「寄付の代わりに、何か求められたことは?」
カイルが聞いた。
老修道女は彼の顔を見て、少し困ったように笑う。
「勇者様は、まるで取り調べのようにお尋ねになるのですね」
「……すみません」
ミラが肘でカイルの脇を軽く突いた。
「ほら」
「分かっている」
カイルは咳払いをした。
「失礼しました。寄付の条件があったのか、確認したかっただけです」
「条件はありませんでした」
老修道女は答えた。
「伯爵家の名を掲げることすら、最初は断られました。こちらが感謝を形にしたくて刻んだのです」
ミラが少し驚く。
「名声目当てではなかった?」
「少なくとも、この施療所への寄付については」
老修道女は少し考え、続けた。
「アルベルト伯爵は、以前から医療への関心が深い方です。ご令嬢がお生まれになる前から、領内の施療所へ薬代を出しておられました」
「では、娘の病気をきっかけに急に始めたわけではない」
「ええ」
カイルは黙った。
悪事の痕跡はない。
むしろ、立派な行いだ。
ミラが質問する。
「伯爵本人が、ここへ来ることはありますか」
「年に一度ほど。大勢の護衛は連れず、医師や薬師の話を聞かれます」
「患者へ直接声をかけたり?」
「子供にはよく」
老修道女は少し笑った。
「ですが、話すのは得意ではないようです。怖がられて、少し落ち込んでおられました」
「落ち込むんだ」
ミラが思わず呟く。
「人ですから」
老修道女の言葉は当たり前だった。
だが、その当たり前が二人には少し刺さった。
貴族。
依頼主。
アレンを呼ぼうとする者。
そう分類すると、人間であることを忘れやすい。
カイルは石板の名前を見上げた。
「施療所の薬や器具を、伯爵家の都合で優先させたことは」
「ございません」
老修道女はきっぱり答えた。
「むしろ、ご令嬢が苦しまれている時にも、こちらへの寄付を減らしませんでした。そのことで家令と揉めたという話は聞きましたが」
「家令と?」
「伯爵家の財政にも限りはありますから。娘の治療費を優先すべきでは、と家令が進言したそうです」
「伯爵は?」
「『娘の病気を理由に、他人の子供の薬を減らすな』と」
ミラは黙った。
カイルも黙った。
老修道女は二人の顔を見比べる。
「伯爵様をお疑いですか」
カイルは少し迷った。
適当な嘘をつくことはできた。
だが、老修道女は真っ直ぐこちらを見ている。
「危険な方法を選ぶ可能性があると考えています」
カイルは答えた。
「病気の娘を救うために、ある付与術師を王都へ呼ぼうとしている。その方には、過去に人の期待を断れず、自分を壊しかけた事情があります」
「なるほど」
老修道女は目を伏せた。
「伯爵様なら、悪意なく押すでしょうね」
意外な答えだった。
「分かるんですか」
「ええ」
老修道女は小さくため息をついた。
「善いことをする方です。責任感も強い。だから、自分が正しいと思った時は頑固です」
ミラが苦笑する。
「すごく面倒な人ですね」
「人間というものは、善いところと面倒なところが同じ根から生えることがあります」
老修道女は穏やかに言った。
「伯爵様は、守ると決めたものを手元に置きたがる。施療所への寄付も、その一つです。困る者を放っておけない。一度、守る側に入れたものは、最後まで自分の責任だと思う」
「それが、人にも向く」
カイルが言う。
「おそらく」
「アレンを守るべき人材と認識したら、伯爵家へ置こうとするかもしれない」
「ご本人は、保護だと思うでしょう」
老修道女の言葉に、カイルの腹の底が冷えた。
保護。
善意。
安全。
それで人を囲う。
悪人が鎖をかけるなら、鎖だと分かる。
だが、善人が毛布をかけながら扉を閉めた時、閉じ込められた側も感謝してしまうかもしれない。
ミラは、施療所を出た後、しばらく黙って歩いた。
やがて口を開く。
「悪人じゃないわね」
「ああ」
「評判も作られたものじゃなさそう」
「ああ」
「嫌ね」
カイルは横を見る。
「嫌なのか」
「悪人なら、思い切り嫌えるじゃない」
ミラは石畳を蹴るように歩いた。
「娘を助けたい。貧しい人にも寄付する。他人の子供の薬を減らすなって言う。そんな人に『あなたのやり方は危険です』って言うの、すごく嫌」
「だが言う必要がある」
「分かってる。分かってるから嫌なのよ」
彼女は少し怒ったような顔で続ける。
「正しい人に、そこだけ間違ってますって言うと、こっちが細かい難癖をつけてるみたいになるでしょ」
「実際、伯爵はそう思うかもしれない」
「だから面倒なの」
カイルは、革袋の中の木片へ触れた。
行かない。
急ぐな。
待。
「悪人なら斬りやすいのに」
思わず呟いた。
ミラがすぐにこちらを見る。
「今、かなり危ないこと言ったわよ」
「比喩だ」
「あなたが言うと比喩に聞こえない」
「斬るつもりはない」
「分かってる。でも、気持ちは分かる」
ミラは苦く笑った。
「悪人にしてしまえば楽なのよ。私たちが正義になれるから」
カイルは返事をしなかった。
昔は、それをやった。
アレンを役立たずにした。
そうすれば、自分たちが正しくなれた。
◇
ガレスは、王都魔道具商組合の資料室で、分厚い購入記録と格闘していた。
魔道具の取引は、剣や盾の売買より面倒だ。
製造者。
素材産地。
使用目的。
魔力登録。
再販売制限。
所有者変更。
一つの品に何枚も書類がつく。
ガレスは細かい字を読むのが嫌いではなかった。
ただ、読む速度は遅い。
隣にいる組合書記が、時々気まずそうに様子をうかがっていた。
「お手伝いしましょうか」
「いや」
「目的の品名を言っていただければ」
「一覧を見る必要がある」
「そうですか」
書記は諦めたように茶を飲んだ。
グレヴィール伯爵家の購入歴は長い。
光を抑える遮光魔石。
魔力振動を和らげる銀鈴。
低刺激の保温布。
睡眠補助香炉。
音響遮断の結界具。
魔力過敏者用の食器。
どれも、病弱な令嬢のために購入したものだろう。
そして、購入数が多い。
同じ品を一つではなく、複数。
改良型が出れば買い直す。
国外の希少品もある。
ガレスは、ある記録で指を止めた。
「この静音結界具。販売数は三つか」
書記が覗き込む。
「はい。北方の魔道具師が作った品です。現在は製造中止になっています」
「三つとも伯爵家が買った」
「ええ」
「他の買い手は」
「王都劇場と、王立治療院が希望していたと記録されています」
「なぜ伯爵家が全部買えた」
書記は少し顔をしかめた。
「競売でしたので。最も高値をつけた者が」
「王立治療院より高い値を」
「はい」
ガレスの声が低くなる。
「治療院へ一つ譲る話はなかったのか」
「商組合から打診した記録があります」
「答えは」
書記は別紙を探した。
「『令嬢の症状に対し、複数室での設置比較が必要』との理由で断っています」
複数室での比較。
娘の寝室。
療養室。
移動先。
必要だったのかもしれない。
だが、結果として王立治療院には一つも渡らなかった。
「伯爵家が購入した後、使わなくなった魔道具はどうなる」
「多くは保管庫です」
「売却は」
「ほとんどありません」
「貸し出しは」
「申請記録は……」
書記は帳簿をめくる。
「二件。どちらも断られています」
「理由は」
「破損と、魔力残響の混入を避けるため」
ガレスは黙った。
理由は理解できる。
病気の娘へ使う道具だ。
他人に貸して壊れたり、別の魔力が残ったりすることを恐れる。
親なら、そう考えるかもしれない。
だが、希少な医療具が伯爵家の倉庫へ集まり、使われなくなっても外へ出ない。
「集める。手元に置く。余っても出さない」
ガレスが呟く。
書記は慎重に答えた。
「違法ではありません」
「分かっている」
「代金も正当に支払われています」
「分かっている」
「伯爵家は、複数の魔道具師へ開発資金も出しています」
「それも分かっている」
ガレスは帳簿を閉じた。
「だから厄介なんだ」
書記は、返事に困った。
ガレスはその後、倉庫管理組合へも向かった。
グレヴィール伯爵家の保管庫は、貴族街の地下に三つ。
医療具専用区画がある。
使用停止になった品も、ほとんど廃棄されず残されている。
中には、一般の医療院なら今でも使える品がある。
倉庫番は言った。
「伯爵様は、娘に一度でも効果があったものを手放されません」
「使わなくなっても?」
「はい」
「なぜ」
「また必要になるかもしれないから、と」
ガレスは少し考えた。
「人も同じか」
倉庫番は意味が分からず首を傾げた。
「何の話でしょう」
「いや」
アレンが一度でも娘に効果を示したら。
伯爵は手放せるのか。
客人として招く。
安全を保証する。
必要な物をすべて用意する。
また必要になるかもしれない。
だから、王都にいてほしい。
そうなる未来が、妙にはっきり見えた。
◇
リーナが王都西区高等医療院で話を聞けたのは、フローリアの担当医本人ではなかった。
患者情報を守るため、担当医は外部との面会を断った。
代わりに応じたのは、医療院長補佐の女性治癒師だった。
名はメレナ。
五十代ほどで、厳しい顔をしている。
「最初に申し上げます」
メレナは席につくなり言った。
「フローリア様の診断内容、治療記録、本人発言については、ご家族と本人の許可なしにお話しできません」
「承知しています」
リーナは深く頭を下げる。
「私が確認したいのは、グレヴィール伯爵家が医療判断へ不当に介入していないか。治療者へ圧力をかけ、危険な処置を求めたことがないかです」
「不当に、という言葉の定義によります」
メレナは腕を組んだ。
「伯爵は、よく質問します。非常によく。薬の量、結界の強さ、睡眠時間、発作時の対応、食事、室温。こちらが答えても、別の医師へ同じ質問をすることがあります」
「医療者を信用していない?」
「娘を失うことを恐れているのです」
メレナは少し疲れたように息を吐いた。
「疑っているのではなく、見落としがないか確認せずにはいられない。そういう方です」
「危険な治療を強制したことは」
「ありません」
「珍しい魔道具を使うよう求めたことは」
「あります」
「医師が反対した場合は?」
「最終的には従いました」
「最終的には?」
リーナが聞き返す。
メレナは唇を少し歪めた。
「その最終までが長いのです」
リーナは、思わず小さく笑いそうになった。
だが、メレナは冗談を言ったわけではない。
「伯爵は、なぜ駄目なのかを納得するまで帰りません。医師が疲れます。説明担当が交代することもあります。それでも納得しなければ、別の専門家を呼びます」
「金と権力で、医療者を押す」
「押します」
メレナは認めた。
「ただし、結論を変えろと命じるわけではない。納得するまで説明を求め続ける。本人は、それを父親として当然の責任だと思っています」
「断る側が疲れて折れる可能性は」
「あります」
メレナは即答した。
「実際、若い治癒師が『短時間だけなら』と伯爵の希望する魔道具試験を許可したことがあります」
リーナの顔が強張る。
「結果は」
「大きな事故にはなりませんでした。ただ、効果もありませんでした」
「若い治癒師は?」
「自分の判断に自信を失い、担当を外れました」
リーナは目を伏せた。
命令ではない。
脅迫でもない。
説明を求める。
娘を助けたいと言う。
できない理由を一つずつ聞く。
では、こうすれば。
短時間なら。
医師が立ち会えば。
騎士団がいれば。
気づけば、断る方が悪いように感じてしまう。
「アレンさんには、危険です」
リーナが呟いた。
メレナが目を細める。
「付与術師の方ですね」
「はい」
「その方は、断るのが苦手なのですか」
「苦手、というより……」
リーナは言葉を探した。
「苦しんでいる人を見た時、自分にできることを残して帰れない人です」
「なら、伯爵とは非常に相性が悪い」
メレナは苦い顔をした。
「伯爵は、可能性がある限り諦めません。その付与術師は、可能性がある限り自分を使おうとする。二人を同じ部屋に入れれば、周囲が止めても話が進むでしょう」
リーナの背筋が冷えた。
「伯爵は、アレンさんを閉じ込めると思いますか」
「文字通りには、しないでしょう」
「文字通りには」
「最高の部屋、最高の食事、最高の設備、最大限の敬意。いつでも帰れると伝える。それでも、娘の具合が悪い日は『もう一日だけ』と頼むかもしれません」
メレナは机の上の指を組んだ。
「そして、その付与術師が自分から残ると言えば、伯爵は強制していないと言える」
リーナの胸が痛んだ。
あまりにも想像できる。
アレンなら残る。
フローリアの発作が落ち着かないなら、帰れない。
明日まで。
あと一回だけ。
もう少し調整すれば。
「伯爵様は、娘を愛しているのですね」
「深く」
「だから危険」
「愛情は、必ずしも相手以外の人間を尊重させるものではありません」
メレナの言葉は冷たく聞こえた。
だが、その顔には同情もあった。
「フローリア様にとっては、良い父親です。少なくとも、娘を捨てたり、病気を恥じたりする方ではない。発作で屋敷の行事が中止になっても、娘を責めない。社交界へ無理に出すこともしない」
「では、フローリアさん本人は父親を」
「そこから先は、患者情報です」
メレナはきっぱり止めた。
リーナは頭を下げた。
「失礼しました」
「ただ、一つだけ一般論として言います」
メレナは窓の外へ視線を向けた。
「病気の子供は、親が自分のために何かを犠牲にしていると感じると、非常に敏感になります。感謝だけではありません。罪悪感も持ちます」
リーナは静かに聞いた。
「親が誰かを連れてきた時、その子は喜ぶとは限りません」
「自分のために誰かが無理をしていると思う?」
「ええ」
リーナは、胸の奥にその言葉を残した。
◇
夕方、四人はギルドの奥の会議室へ戻った。
机の上には、マリナが用意した簡素な夕食があった。
黒パン。
干し肉。
豆のスープ。
調査結果を空腹で話すと、余計に感情的になる。
リーフェル村の影響が、王都ギルドにもかなり広がっていた。
「食べてからにする?」
マリナが尋ねる。
カイルはすぐ答えた。
「話しながら食べます」
ミラが横から言う。
「それ、食べるの忘れる人の言い方」
「忘れない」
「昨日もパンを持ったまま話して、最後まで一口も食べなかったでしょ」
「今日は食べる」
ガレスがカイルの前へスープを押した。
「飲め」
「お前まで村の人間みたいになってきたな」
「合理的だ」
リーナは小さく笑った。
笑った後、すぐ真面目な顔へ戻る。
最初に報告したのはガレスだった。
「伯爵家は、希少な医療魔道具を大量に買っている」
「違法取引?」
カイルが聞く。
「ない。代金も正当。競売で買っている」
「問題は?」
「必要以上に手元へ置く」
ガレスは購入記録の写しを机に置いた。
「静音結界具三つ。王立治療院も希望していたが、伯爵家が全て買った。娘の複数室で使うため。使わなくなった物も売らない。貸さない。また必要になるかもしれないから」
ミラが顔をしかめる。
「収集癖?」
「収集ではない。本人は備えだと思っている」
「余計に厄介ね」
「アレンも同じ扱いになる可能性がある」
ガレスは続けた。
「一度効果があれば、また必要になるかもしれない。王都にいた方が安全。設備もある。生活も保障する。そう言うだろう」
カイルの拳が固くなる。
「物と同じか」
「伯爵本人は、物扱いのつもりはない。守るべき人材として扱う」
ガレスの説明に、カイルの表情はさらに険しくなった。
「守るために囲う」
「そうだ」
次にリーナが報告した。
伯爵が医療者へ命令したことはない。
危険な治療を強制したこともない。
だが、納得するまで質問し続ける。
若い治癒師が疲れ、短時間試験を許可した事例がある。
アレンと伯爵は、互いの性質が噛み合いすぎる。
可能性がある限り諦めない父親。
可能性がある限り自分を使う付与術師。
「同じ部屋に入れたら危険だと言われました」
リーナが言う。
マリナはため息をついた。
「正直ですね、その治癒師」
「かなり疲れていました」
「伯爵への説明で?」
「おそらく」
ミラが苦い顔で言う。
「伯爵、悪い人じゃないのに、周りをすごく疲れさせる人なのね」
「人間臭いですね」
リーナが言った。
「娘のことになると、相手が納得していなくても、まだ説明が足りないだけだと思う。自分が押しているとは考えない」
カイルが低く言う。
「俺と同じだ」
部屋が静かになった。
カイルはスープの表面を見ていた。
「アレンを追放する時も、俺は話せば分かると思っていた。世界のためだ。足手まといを外す必要がある。今は急がないといけない。そう説明すれば、アレンも納得するはずだと」
ミラが視線を落とす。
「納得しなかったら?」
「説明が足りないと思った」
「拒否されたとは思わなかった」
「ああ」
カイルは自嘲するように笑った。
「伯爵を責める資格があるのか、分からなくなる」
グラウスが壁際から言った。
「資格の話をするな」
「ですが」
「過去に同じことをした者だから、気づけることもある」
「それは、都合のいい言い方です」
「そうだ」
グラウスは否定しなかった。
「人間は、自分に都合のいい理由も使って正しいことをする。完全に清い動機でなければ動けないなどと言っていたら、何もできん」
カイルは黙る。
ミラが、カイルの前の黒パンを指した。
「それ、まだ食べてない」
「今その話か」
「こういう時だからよ」
カイルは少し苛立ったようにパンを取った。
一口かじる。
固い。
噛むのに時間がかかる。
その時間で、少しだけ感情が落ち着いた。
「施療所では?」
マリナがミラへ聞く。
ミラは老修道女から聞いた話を報告した。
寄付に条件はない。
娘が生まれる前から医療支援を続けている。
娘の治療費を理由に、他人の子供の薬を減らすなと言った。
一方で、守ると決めたものを手元に置きたがる。
「善い人です」
ミラは言った。
「たぶん、かなり」
「でも、面倒」
ガレスが言う。
「ものすごく」
ミラは頷いた。
「自分が責任を持つことが正しいと思ってる。お金もある。権力もある。実際、助けられた人も多い。だから、止められると『なぜだ』ってなる」
「娘のために最善を尽くしているだけだ、と」
リーナが言う。
「そう」
ミラはスープを一口飲んだ。
「悪人なら斬りやすいのに、ってカイルが言った」
マリナがカイルを見る。
グラウスも見る。
カイルは嫌そうな顔をした。
「比喩です」
「あなたの場合は、毎回確認が必要ですね」
マリナが真顔で答える。
「斬りません」
「知っています」
「なら」
「でも、言葉にした気持ちは大事です」
マリナは記録板へ書いた。
「悪人なら簡単に拒絶できる。しかし、善意と実績のある相手には、拒絶側が罪悪感を持ちやすい」
ミラが覗き込む。
「王都ギルドも板を作るの?」
「最近、役に立つので」
「リーフェル村、影響力すごいわね」
◇
調査結果をまとめると、グレヴィール伯爵家について見えてきたものは、単純な悪評ではなかった。
領地の税は重すぎない。
飢饉時には備蓄を放出している。
医療院、孤児院、施療所への寄付も継続している。
使用人への賃金遅配もない。
娘の病気を隠して別の子供を跡継ぎにしようともしていない。
病弱な娘を、人前に出せない恥として扱ってもいない。
父親としては、むしろ愛情深い。
だが、希少な医療具を買い集める。
使わなくなっても手放さない。
娘に有効かもしれない人材や技術を、自分の管理下に置こうとする。
拒否されても、理由を聞き、条件を変え、再提案する。
相手が疲れて折れるまで。
本人は、それを圧力とは思っていない。
責任を果たしていると思っている。
「結論は?」
グラウスが尋ねた。
カイルたちは、互いの顔を見た。
最初に答えたのはリーナだった。
「フローリアさんの症例相談は、続けるべきだと思います」
カイルの眉が動く。
リーナは続ける。
「本人は本当に苦しんでいる可能性が高い。伯爵家の評判が良いからではありません。患者本人と、父親のやり方を分けるためです」
「アレン本人の招待は?」
「反対です」
今度は迷わなかった。
「伯爵家が悪いからではなく、アレンさんと伯爵の組み合わせが危険だからです」
ガレスが頷く。
「アレンは、伯爵家へ行けば自分から残る」
「伯爵は、強制していないと言う」
ミラが続ける。
「アレンが自分から残るよう、必要なものを全部揃える。悪気なく」
「だから会わせない」
カイルが言った。
その声には苦さがあった。
「少なくとも、今は」
グラウスが確認する。
「悪人ではないから、会わせてもよいとはならない」
「はい」
「評判が良いから、安全ともならない」
「はい」
「娘を愛しているから、手段も正しいとはならない」
「はい」
カイルは一つずつ答えた。
マリナが新しい紙へまとめる。
『グレヴィール伯爵家について、違法行為および悪意ある患者利用の明確な証拠なし』
『医療・慈善実績あり』
『一方、希少医療具の集中保有、貸与拒否、使用停止後の長期保管傾向あり』
『伯爵は医療判断へ直接命令しないが、納得まで説明を求め続け、実質的な心理圧力を生じさせる傾向あり』
『付与術師アレン殿との直接面会は、双方の性格上、継続滞在および無制限協力へ発展する危険が高い』
ミラが最後の行を見て言う。
「双方の性格上、って、なんか人間関係の相性診断みたい」
「実際、相性が悪いのでしょう」
マリナは真面目だった。
「伯爵は諦めない。アレンさんは断れない」
「最悪の噛み合い方ね」
「はい」
◇
報告書をリーフェル村へ送る前に、カイルは一つだけ文面の修正を求めた。
「伯爵は危険人物、とだけ書かないでください」
マリナが顔を上げる。
「理由は?」
「アレンは、危険人物と書かれたら、その伯爵にも事情があると考える」
ミラが苦笑する。
「考えるでしょうね」
「そして、自分が話せば分かり合えるかもしれないと思う」
リーナも頷く。
「ありますね」
「だから、正確に書くべきです。娘を愛している。医療支援もしている。だが、人や道具を自分の管理下に置く癖がある。悪意ではなく、善意と責任感で押す」
マリナは少し考えた。
「良い点も含めて送る方が、アレンさんは警戒できると?」
「はい。悪人だと決めつければ、アレンは庇います」
「アレンさんらしいですね」
「それに」
カイルは少し言いにくそうに続けた。
「伯爵を単純な悪人にしたら、俺たちと同じことをすることになる」
マリナは静かに頷いた。
「分かりました。人柄と危険性を分けて書きます」
カイルは息を吐いた。
少しだけ肩の力が抜ける。
伯爵を守りたいわけではない。
アレンを守るためだ。
だが、それだけでもない。
誰かを簡単な悪役にして、自分たちが正義の側へ立つ。
そのやり方を、もう繰り返したくなかった。
◇
その夜、カイルたちはギルドを出た。
王都の大通りには灯りが並んでいる。
貴族街へ向かう馬車が何台も通る。
そのうちの一台に、グレヴィール伯爵家の銀鷹紋があった。
窓は閉じられている。
中に誰が乗っているかは分からない。
カイルは馬車を目で追った。
「娘を助けたい父親か」
ミラが隣に立つ。
「うん」
「悪人ではない」
「たぶんね」
「だが、アレンを行かせるわけにはいかない」
「そうね」
カイルは、少し苛立ったように言った。
「何か一つくらい、分かりやすい悪事があれば楽だった」
「まだ言ってる」
「分かっている。よくない考えだ」
「よくないけど、人間らしい考えではあるわね」
ミラは腕を組み、馬車の消えた方角を見る。
「私だって、伯爵が最低な人なら気持ちよく嫌えたのにって思うもの」
「気持ちよく嫌う、か」
「人を嫌うのって、案外快感なのよ。自分が正しい気になれるから」
ガレスが後ろから言う。
「腹が減っている時は、さらに怒りやすい」
ミラが振り返る。
「何の話?」
「夕食が足りなかった」
「今、それを言う?」
「人間らしさの話だ」
リーナが小さく笑った。
カイルも、少しだけ笑う。
重い調査の後で、くだらない会話がありがたかった。
「何か食べて帰りましょうか」
リーナが提案する。
「賛成」
ミラが即答する。
ガレスも頷いた。
カイルは少し迷った後、言った。
「俺は報告書を」
「明日の朝」
ミラが遮る。
「今書くと、伯爵への苛立ちが文章に混ざるわよ」
「混ぜない」
「あなた、顔に全部出てる」
ガレスが言う。
「食べてから書け」
「王都までリーフェル村式になったな」
「良いものは使う」
結局、四人は大通りの端にある小さな食堂へ入った。
安い肉煮込みと、固くないパンを頼む。
ミラは一口食べて言った。
「今日はこれ、丸」
リーナが笑う。
「ぷる太さんがいなくても判定するんですね」
「便利だから」
カイルは煮込みを食べながら、改めて考えた。
伯爵は悪人ではない。
娘は本当に苦しんでいる。
招待状も、露骨な罠ではない。
だから、アレンは揺れる。
そして、アレンが揺れる理由は間違っていない。
苦しむ子供を助けたい。
その気持ちは正しい。
だが、正しい気持ちが正しい方法を選ぶとは限らない。
それは、カイル自身が一番よく知っている。
◇
深夜。
グレヴィール伯爵家の屋敷では、フローリアの発作が起きていた。
厚い扉の向こうから、押し殺したような声が漏れる。
「明かり……消して……」
侍女が慌てて魔導灯を落とす。
だが、廊下の足音にも少女は肩を震わせた。
寝台の脇で、アルベルト伯爵が娘の手を握っている。
医師が低い声で告げる。
「今夜は、音への反応が強すぎます。伯爵様も、少し離れてください」
「なぜだ。私は何もしていない」
「手袋の金具が鳴っています」
伯爵は、自分の手元を見る。
小さな留め金。
わずかな音。
彼はすぐに手袋を外した。
娘の手を握り直そうとして、医師に止められる。
「触れる刺激も、今は強い可能性があります」
伯爵の手が宙で止まった。
娘を助けたい。
だが、触れることすら負担になる。
何もせず見ていることしかできない。
アルベルトは、唇を噛んだ。
「例の付与術師から返答は」
部屋の隅にいた家令が、小声で答える。
「招待への署名は拒否されました。ただし、症例相談は継続するとのことです」
伯爵の顔が歪む。
「なぜ来ない」
「本人移動は、症例相談とは別問題であると」
「医師もいる。騎士団の立会いも認めた。何が不満だ」
「伯爵様」
医師が静かに呼ぶ。
「今は、フローリア様のおそばで議論なさらないでください」
伯爵は口を閉じた。
寝台の少女が、薄く目を開ける。
「お父さま……」
「ここにいる」
伯爵は身を乗り出しかけ、途中で止まる。
音を立てないように。
触れないように。
「その人……来るの?」
か細い声だった。
伯爵は、すぐに答えられなかった。
来ない。
だが、相談は続く。
そう伝えるだけのことが、なぜか難しい。
フローリアは、苦しそうに息をしながら、もう一度聞いた。
「来たら……帰れる?」
伯爵の表情が固まった。
部屋の誰も、答えなかった。
少女の問いだけが、暗い病室に残った。




