第90話 リーフェル村、招待状を差し戻す
王都から届いた封書は、いつもの封書より軽かった。
厚い革包みでもない。
立派な封蝋もない。
ギルド便の袋に入れられた、薄い紙束だった。
それなのに、外部対応広場の机へ置かれた瞬間、誰もすぐには手を伸ばさなかった。
ギルドと騎士団の確認印。
王都高等医療院の添付印。
そして、マリナさんの短い添え書き。
『フローリア・グレヴィール本人の聞き取り記録が届きました。アレン殿本人の移動判断ではなく、症例相談のための資料として共有します』
本人の聞き取り記録。
俺は、その文字から目が離せなかった。
八歳の令嬢。
夜に眠れず、音にも光にも苦しんでいる子。
その本人の言葉が入っている。
読みたい。
早く読みたい。
でも、読みたくない。
読んだらきっと、また胸に残る。
エリオの顔のように。
エナの声のように。
「読む前の確認をします」
シルフィが言った。
声は落ち着いている。
けれど、羽ペンを持つ指に少しだけ力が入っていた。
「一つ。本人の言葉を読んでも、師匠はすぐに返答しません」
「はい」
「二つ。本人が苦しんでいても、師匠本人の王都移動は別問題です」
「はい」
「三つ。『紙で聞いて』という言葉があった場合、紙で聞きます。会いに行く理由にはしません」
俺は一瞬、息を止めた。
「もう内容を知っているんですか」
「マリナさんの添え書きに、要約があります」
「そうですか」
「四つ。師匠が泣きそうになっても、作業小屋へ行きません」
「泣きそうになる前提ですか」
「はい」
「否定がない」
マルタさんが横から水差しを置いた。
「泣きそうになったら飲みな」
「水で止まるものですか」
「止まらなくても、口がふさがる」
「返事を書かせないため?」
「そう」
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
最近、俺の口をふさぐ方法が村中で共有されている気がする。
否定はできない。
ミナは机の端で、小さな板を抱えて待っていた。
「今日も板、いる?」
村長が腕を組む。
「たぶん、いる」
「やっぱり」
ミナは妙に誇らしげだった。
門番老人が、外部対応広場の板を見渡してぼそりと言う。
「もう板が村の人口を超えるぞ」
「さすがにそれはまだ」
俺が言うと、マルタさんが首を傾げた。
「数えたのかい?」
「数えてません」
「じゃあ、分からないね」
そんな会話のおかげで、少しだけ空気がほぐれた。
でも、封書の薄さは変わらない。
軽い紙ほど、時々重い。
◇
シルフィが封を切った。
まず王都ギルドからの共有文。
グレヴィール伯爵家が、アレン本人の招聘については現時点で回答を急がないとしたこと。
王都医療院経由で、フローリア本人の聞き取り記録を含む症例資料を送ること。
可能であれば、文書による初期見解を求めること。
銀葉商会は、今回の資料送付から外されていること。
その一文で、村長が小さく頷いた。
「少し下がったな」
「はい」
シルフィも頷く。
「ただし、招聘を撤回したわけではありません。『現時点では回答を急がない』です」
「まだ四角」
「はい」
ぷる太が四角へ寄った。
「ぷる」
次に、王都高等医療院の添付文。
フローリアの症状は、夜間の魔力過敏、音刺激への強い反応、光への反応、断続的な発熱、睡眠困難。
落ち着き布の症例と一部似ているが、同一とは言い切れない。
直接的な催眠や強制鎮静ではなく、刺激軽減の可能性について意見を求めたい。
俺は、その文を聞いて少しだけ前のめりになった。
「落ち着き布と同じではないんですね」
「はい」
シルフィが文書を確認する。
「医療院側も、同一使用ではなく、初期見解を求めています」
「なら、布をそのまま送る話ではない」
「そうです」
「そこは丸?」
ぷる太が丸と四角の間で揺れた。
「ぷる……」
シルフィが訳すように言った。
「相談の姿勢は丸寄り。ただし、症状確認は四角」
「なるほど」
俺は、少しだけ安心した。
何でも落ち着き布で解決しようという話ではない。
医療院は、違いを見ている。
これは大事だ。
だが、その安心は長く続かなかった。
シルフィが、最後の紙を手に取ったからだ。
「フローリア・グレヴィール本人聞き取り記録」
広場が静かになった。
鍛冶場の方で金槌の音が一度鳴ったが、すぐに止まった。
誰かがこちらを気にしたのかもしれない。
シルフィは、ゆっくり読み上げた。
「眠りたい」
それだけで、胸が痛んだ。
たった四文字。
なのに、夜が全部詰まっている。
「でも、誰かが帰れなくなるのは嫌」
俺は膝の上の手を握った。
帰れなくなるのは嫌。
俺が一番言われるべき言葉だった。
「来なくていいなら、紙で聞いて」
シルフィの声が、最後だけほんの少し揺れた。
読み終えた後、誰もすぐに話さなかった。
ミナが、板を抱えたままぽつりと言う。
「いい子だね」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
いい子。
本当にそうだ。
自分が苦しいのに、誰かが帰れなくなることを心配している。
眠りたいのに、誰かに無理をしてほしくないと思っている。
俺は、息を吐いたつもりだった。
でも、うまく吐けなかった。
「師匠」
シルフィが呼ぶ。
「はい」
「今、何を考えていますか」
逃げられない。
逃げてはいけない。
「この子に、何かしてあげたいと思いました」
「はい」
「でも、この子は俺を呼んでいない」
シルフィは、そこで少し目を細めた。
俺は続けた。
「来なくていいなら、紙で聞いて、と言っている。だから、俺が行きたいと思うのは……俺の気持ちです」
マルタさんが静かに頷いた。
「よく言えたね」
「言えてますか」
「うん。今のは丸だと思うよ」
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
シルフィも頷く。
「師匠が、本人の言葉と自分の助けたい気持ちを分けました。記録します」
俺は少し俯いた。
「でも、しんどいです」
「はい」
「眠りたいって言ってる子がいて、俺は紙で聞くしかできない」
「紙で聞くことを、本人が望んでいます」
その言葉で、胸の痛みが少し形を変えた。
何もできないわけではない。
紙で聞ける。
それは、フローリア本人が示してくれた道だ。
会いに行く道ではない。
でも、閉じた道でもない。
◇
村長は、聞き取り記録をもう一度読んだ。
目を細め、何度も同じ行を追う。
「この言葉を返答の柱にする」
シルフィがすぐに羽ペンを構えた。
「はい」
「伯爵家へは、まず本人の言葉を尊重すると書く」
「はい」
「症例相談は受け取る。だが、本人移動は不可」
「はい」
「招待状は差し戻す」
俺は顔を上げた。
「差し戻す」
「そうだ」
「完全拒絶ではなく?」
「症例相談は残す。招待だけを差し戻す」
村長は、机の上に二枚の札を置いた。
『症例相談』
『招待』
そして、招待の札を少し離す。
「混ぜるな」
何度も見たやり方だ。
でも、今日はいつも以上に効いた。
招待を断ることは、フローリアを断ることではない。
アレンを王都へ呼ぶ道を閉じることは、フローリアの症例を見る道を閉じることではない。
「師匠」
シルフィが言った。
「今、その二枚を見てください」
「見ています」
「症例相談は?」
「四角。でも、開いている」
「招待は?」
「バツ」
ぷる太が強く丸へ寄った。
「ぷる!」
ミナが嬉しそうに板を掲げた。
「じゃあ、これ?」
そこには、もう書かれていた。
『病気の話は聞きます。アレンは行きません』
広場に、小さな沈黙が落ちた。
マルタさんが、ゆっくり手を叩いた。
「いいねぇ」
村長も頷く。
「採用」
「早い」
俺は思わず言った。
でも、否定はできなかった。
分かりやすい。
これ以上ないくらい。
病気の話は聞く。
俺は行かない。
その二つを同じ板に置いてくれるだけで、息がしやすくなる。
シルフィが正式文として書き直す。
『フローリア・グレヴィール氏の症例相談は受領し、文書による検討を行います。ただし、アレン本人の王都移動、貴族家滞在、直接面会、署名付き参加については応じません』
ミナが下に書き足す。
『礼はいりません。紙をください』
マルタさんが吹き出した。
「強いね、それ」
「だって、馬車とかご飯とかお部屋とか、いらないんでしょ?」
「そうだね」
ミナはさらに書く。
『本人を呼ばずに、本人の症状を見る』
シルフィが目を丸くした。
「ミナさん、それは非常に良いです」
「ほんと?」
「はい。正式文にも使えます」
ミナは得意そうにぷる太を見た。
ぷる太は丸へ飛びついた。
「ぷるっ!」
ミナ案、完全勝利である。
◇
返答書の作成は、昼食を挟んで続いた。
今回は慎重だった。
伯爵家へ送る文書は、銀葉商会への差し戻しとは違う。
強く書きすぎれば、病気の子供を盾に怒らせることになる。
柔らかすぎれば、招待を残す余地が生まれる。
村長が言う。
「最初に、フローリア嬢本人の言葉への敬意を書く」
シルフィが頷く。
「はい」
文面はこう始まった。
『フローリア・グレヴィール氏本人の聞き取り記録を拝受しました。「眠りたい」「誰かが帰れなくなるのは嫌」「来なくていいなら、紙で聞いて」というご本人の言葉を、リーフェル村は重く受け止めます』
俺は、その文章を聞いて目を伏せた。
いい。
まず本人の言葉が前にある。
伯爵の願いよりも。
俺の助けたい気持ちよりも。
フローリア本人の言葉が前にある。
シルフィは続ける。
『したがって、当村はまず文書による症例相談を行います。アレン本人の王都移動、貴族家滞在、直接面会、署名付き参加確認、王都医療院または伯爵家での面談については、現時点で応じません』
俺は手元の四角を握った。
王都医療院での面談。
まだ伯爵家はそこまでは言っていない。
でも、次に来るかもしれない。
先に四角を置く。
「少し先回りしすぎでは?」
俺が聞くと、シルフィは答えた。
「今後、屋敷ではなく医療院ならどうか、という提案が来る可能性があります。場所が変わっても、師匠本人が移動することは変わりません」
村長も頷く。
「先に書く」
「はい」
マルタさんが鍋を混ぜながら言う。
「相手が皿を変えても、中身が同じなら食べないってことだね」
「それも板になります?」
「しなくていいよ。台所だけで通じれば十分」
ミナは少し残念そうだった。
板にしたかったらしい。
返答書はさらに続く。
『フローリア氏に関する追加資料、日々の症状記録、音・光・温度・魔力刺激への反応、現在使用中の医療具、過去に使用した補助具、効果の有無、本人が苦手とする刺激、本人が望む環境について、王都医療院および冒険者ギルド、王国騎士団経由で文書提出をお願いします』
「かなり細かいですね」
俺が言うと、シルフィは頷いた。
「会わないためには、紙を細かくする必要があります」
「紙で聞いて、ですか」
「はい」
フローリア本人が言った道。
紙で聞く。
だから、紙を細かくする。
俺は少しだけ、胸の奥が温かくなった。
何もしないわけじゃない。
きちんと聞く。
本人が望んだ形で。
『落ち着き布の使用、既存布の貸与、新規作成、別補助具の試作については、当該資料確認後、村内協議を経て、必要に応じて文書で初期見解を返します』
ここも大事だ。
今すぐ作るとは言わない。
でも、可能性は閉じない。
マルタさんが言う。
「いいね。焦げない返事だ」
「焦げない返事?」
「急いで火を強くしないってこと」
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
台所判定は今日も強い。
◇
問題は、礼遇と礼金の扱いだった。
招待状には、往復の馬車、護衛、宿泊、食事、素材、作業設備、すべて伯爵家負担とあった。
俺を動かす条件としては、丁寧すぎるほど整っていた。
それをどう返すか。
村長は最初、短く言った。
「不要」
シルフィが正式文へ変える。
『当村は、アレン本人の移動を前提とする馬車、護衛、宿泊、食事、作業設備、素材提供、礼金等を受け取りません』
ミナが、すぐ板に書いた。
『礼はいりません。紙をください』
何度見ても強い。
俺は少し苦笑した。
「伯爵家に失礼では?」
マルタさんが言う。
「じゃあ、礼を受け取る?」
「受け取りません」
「なら、失礼なく断る文はシルフィが書く。分かりやすく止める板はミナが書く。それでいいんだよ」
「役割分担」
「そう」
シルフィも頷く。
「正式文と村側要約は、役割が違います」
なるほど。
伯爵家へ送る紙は丁寧に。
村の中で自分たちを止める板は分かりやすく。
どちらも必要なのだ。
俺のように揺れやすい人間には、特に。
◇
返答書を作る間、俺は何度か手を止めた。
フローリアの言葉が、頭から離れなかった。
眠りたい。
でも、誰かが帰れなくなるのは嫌。
来なくていいなら、紙で聞いて。
「師匠」
シルフィが俺を見る。
「はい」
「また考えていますね」
「はい」
「内容は?」
「フローリアさんは、自分が苦しいのに、誰かが帰れなくなるのを心配している。俺は、その子の言葉に甘えて行かないだけじゃないかと」
言った瞬間、マルタさんが鍋の蓋を強めに置いた。
カン、と音が鳴る。
ぷる太がびくっと揺れた。
「ごめん、ぷる太」
マルタさんはそう言ってから、俺を見た。
「アレン。それは違うよ」
「でも」
「あの子が『紙で聞いて』って言ってるんだろ」
「はい」
「なら、紙で聞くのは甘えじゃない。本人の希望を聞くことだよ」
「でも、子供が遠慮しているだけかもしれません」
シルフィが言う。
「その可能性はあります」
「なら」
「だからこそ、追加の本人聞き取りが必要です。『本当に紙でよいのか』『会わないことで不利益を感じるか』『何を聞いてほしいか』を医療者に確認してもらうべきです」
村長が頷く。
「アレンが行く理由にはならん」
マルタさんが続ける。
「子供が遠慮してるかもしれないから、大人が押しかける。これも変だろ」
確かに。
フローリアが遠慮しているのかもしれない。
なら、もう一度、安心できる場所で聞けばいい。
本人が本当に望むことを。
俺が勝手に「遠慮だ」と決めて会いに行くのは、別の押しつけになる。
「……俺、助けたい気持ちで本人の言葉を上書きしそうになりました」
「はい」
シルフィがすぐ記録した。
『師匠、本人発言を遠慮と解釈し、直接訪問理由に変換しかける。即時四角』
「書き方が厳しい」
「重要です」
「はい」
ミナが少し考え、新しい小さな札に書いた。
『いい子の言葉を、勝手に遠慮にしない』
俺は、その板を見た瞬間、胸が痛くなった。
いい子の言葉を、勝手に遠慮にしない。
強い。
そして、刺さる。
フローリアを「いい子だから本音を隠している」と決めつければ、俺は自分の助けたい気持ちを優先できてしまう。
それは危険だ。
「採用ですね」
俺が言うと、ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
シルフィも頷いた。
「採用です」
◇
返答書の最後には、追加質問の一覧を付けることになった。
シルフィが項目を読み上げる。
「一つ。フローリアさん本人が、文書相談を望む理由」
「はい」
「二つ。アレン本人との面会を望むか、望まないか。望まない場合、その理由」
「はい」
「三つ。音、光、触覚、温度、魔力刺激のうち、最も苦しいもの」
「はい」
「四つ。現在の部屋環境。使用中の結界具、布、魔道具」
「はい」
「五つ。過去に効果があったもの、なかったもの。悪化したもの」
「はい」
「六つ。発作時に触れられることを望むか、望まないか」
俺はそこで顔を上げた。
「触れられること?」
「はい。前回の聞き取りでは、触れる刺激も負担になる可能性がありました」
「そうか……」
父親が手を握ることすら、刺激になるかもしれない。
想像すると苦しかった。
でも、これも大事な情報だ。
助けたいなら、苦しい想像から逃げない。
「七つ。本人が『これだけは嫌』と感じること」
シルフィは最後にそう読んだ。
マルタさんが静かに頷く。
「いいね」
「嫌なことを先に聞くの、大事ですか」
ミナが尋ねる。
シルフィが答える。
「とても大事です。助ける話では、してほしいことばかり聞きがちです。でも、してほしくないことを聞かないと、助けるつもりで傷つけます」
ミナは真剣な顔で頷いた。
「じゃあ板」
書いた。
『してほしいより、してほしくないも聞く』
ぷる太が丸へ寄る。
また板が増えた。
門番老人が遠くで見て、もう諦めたような顔をしていた。
◇
夕方、返答書が完成した。
村長が読み上げを求める。
シルフィが、最初から最後まで声に出した。
本人の言葉を重く受け止めること。
症例相談は受けること。
ただし、招待は差し戻すこと。
アレン本人は王都へ行かないこと。
貴族家滞在、直接面会、署名付き参加、医療院での面談も現時点では不可。
追加資料を求めること。
礼金や馬車、護衛、設備提供は不要。
返答は、王都医療院、ギルド、騎士団経由で行うこと。
銀葉商会を介さないこと。
フローリア本人が望む相談形式を、医療者立会いで再確認すること。
読み終えると、広場には静かな疲れが残った。
マルタさんが大きく息を吐く。
「これ、文章だけで一仕事だね」
「はい」
シルフィも少し肩を回した。
「かなり神経を使いました」
「シルフィ、目がしょぼしょぼしてる」
ミナが言う。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない時も、大丈夫って言う人いるよ?」
その場の全員が、なぜか俺を見た。
「俺を見ないでください」
マルタさんが笑う。
「見本がいるからね」
シルフィは少しだけ笑い、それから素直に言った。
「では、少し休みます」
「丸」
ミナが即答する。
ぷる太も丸へ寄った。
「ぷる」
シルフィが休むと自分から言うのは、確かに丸だ。
彼女もまた、少しずつ変わっている。
◇
封書を閉じる前に、村長が俺へ目を向けた。
「アレン」
「はい」
「お前さんの名で、一文入れるか」
俺は驚いた。
「俺の名で?」
「招待は断る。だが、症例相談は読む。その意思を、お前さん自身の言葉で一文だけ入れることはできる」
シルフィが少し警戒した顔になる。
「師匠本人の返答になります。危険では」
「だから一文だけだ」
村長は俺を見る。
「どうする」
俺は迷った。
返事を書きたい。
フローリアへ何か言いたい。
その気持ちはある。
でも、長く書けば危ない。
謝りすぎる。
約束しすぎる。
助けたいと言いすぎる。
だから、一文だけ。
俺は、しばらく考えた。
「……フローリアさんへ直接ではなく、返答書の中に添える形なら」
「よい」
シルフィが羽ペンを構える。
「文面をどうぞ」
俺は息を整えた。
「アレン本人は、フローリア氏の『紙で聞いて』という言葉を尊重し、王都へ赴かず、文書で症例を確認します」
シルフィはそのまま書いた。
書き終えてから、俺を見る。
「良いと思います」
「余計な約束、入ってませんか」
「入っていません」
「助けます、とも書いてない」
「はい」
「冷たくないですか」
マルタさんが言う。
「冷たくないよ。相手の言葉を聞いてる」
ミナも頷く。
「紙で聞いてって言ったから、紙で聞くんでしょ?」
「うん」
「じゃあ丸」
ぷる太が丸へ寄る。
「ぷる」
俺は、少しだけ安心した。
自分の言葉を入れた。
でも、自分を差し出す言葉ではない。
それができたことは、俺にとって小さくない。
◇
封書は、王都便へ渡された。
夕焼けの中、ギルドの配達人が馬に乗る。
門番老人が、封書を渡しながら短く言った。
「夜は布の話をしません」
配達人は少し笑った。
「承知しています。王都でも有名です」
「有名なのか」
「はい。ギルドの受付にも貼られています」
門番老人は、何とも言えない顔をした。
「そうか」
戻ってきた彼は、外部対応広場の板を見てぼそりと言った。
「うちの板が王都へ出稼ぎしている」
ミナが目を輝かせる。
「すごい!」
「すごいのか、これは」
俺は少し笑った。
重い一日だった。
でも、最後に少し笑えた。
◇
夜、俺は作業小屋ではなく、外部対応広場にいた。
新しい板が並んでいる。
『病気の話は聞きます。アレンは行きません』
『礼はいりません。紙をください』
『本人を呼ばずに、本人の症状を見る』
『いい子の言葉を、勝手に遠慮にしない』
『してほしいより、してほしくないも聞く』
どれも、今日必要だった言葉だ。
俺は、その前で立ち止まる。
「フローリアさん、怒らないかな」
隣にいたシルフィが、少し考えた。
「怒るかもしれません」
「え」
「人間ですから」
予想外の答えだった。
「『紙で聞いて』と言ったけれど、本当は来てほしい気持ちもあるかもしれません。お父様のためにそう言ったかもしれません。後から寂しくなるかもしれません」
「それなら」
「だから、追加で聞きます」
シルフィは、板を見た。
「一度の言葉で全部決めません。本人の言葉も変わることがあります。だから文書で確認を続けます」
「本人の言葉も、固定しすぎない」
「はい」
それも人間らしい。
フローリアは「紙で聞いて」と言った。
でも、それだけで永遠に会いたくないと決めつけてもいけない。
ただ、今はその言葉を尊重する。
もし変わるなら、また聞く。
俺が勝手に遠慮だと決めるのでもなく、伯爵が勝手に会わせるのでもなく。
本人に、何度でも。
「面倒ですね」
俺が言うと、シルフィは頷いた。
「はい。人は面倒です」
「でも、大事?」
「はい」
ぷる太が、足元で丸へ寄った。
「ぷる」
俺は笑った。
「ぷる太も、人は面倒だと思う?」
「ぷる」
「即答」
シルフィも少し笑う。
夜風が板を揺らした。
カタ、と小さな音が鳴る。
今日は、その音が少し安心できた。
板が多すぎる村。
返答に時間がかかる村。
すぐ助けない村。
でも、ちゃんと聞く村。
フローリアの小さな言葉を、伯爵の招待状より前に置く村。
俺は、その村に立っている。
行かない。
でも、聞く。
会わない。
でも、見る。
紙で。
本人の言葉で。
それが、今のリーフェル村の返事だった。




