第86話 グレヴィール伯爵家、正式な招待状を送る
外部対応広場の板が、とうとう二列では収まらなくなった。
「村長。三列目、いきますか」
朝一番、板を抱えた畑仕事の若者が尋ねると、村長は腕を組んだまま渋い顔をした。
「三列にすると、奥の板が読めん」
「じゃあ、屋根から吊るす?」
ミナが提案する。
「風が吹くたびに、決まりが頭へ当たるぞ」
門番老人がぼそりと言った。
「それはちょっと嫌」
「ちょっとなのかい」
マルタさんが笑う。
外部対応広場には、これまで作られた板が並んでいる。
『助ける道は閉じない。ただし、誰かの欲で広げない』
『夜は布の話をしません』
『急いでる時ほど布じゃない』
『お金は後ろ。医者と本人が前』
『丁寧でも、駄目は駄目』
『後ろにいる人も名前を書いて』
『客人でも、連れていかれたらバツ』
『お客さんでも、アレンお兄ちゃんは貸しません』
最後の板を見るたびに、俺は何とも言えない気持ちになる。
大事なことではある。
とても大事だ。
でも、村の入口で俺が貸し出し禁止品として扱われているようにも見える。
「これ、もう少し言い方を変えませんか」
俺が板を指すと、ミナは頬を膨らませた。
「分かりやすいよ?」
「分かりやすいけど」
「アレンお兄ちゃん、貸していいの?」
「駄目です」
「じゃあ、そのままでいいじゃん」
反論できなかった。
ぷる太が丸の木片へ寄る。
「ぷる」
「ぷる太まで」
「多数決だね」
マルタさんが言った。
「決め方が雑じゃありませんか」
「でも、アレン本人も駄目って言っただろ」
「言いましたけど」
シルフィは、少し離れた机で板の一覧を記録している。
「師匠。貸し出し禁止という表現が気になるのであれば、正式表現を併記します」
「お願いします」
シルフィは新しい小さな札に書いた。
『作成者本人の移動、滞在、貸与、出向は認めません』
「貸与って入るんだ」
「師匠本人を物のように扱う表現への注意喚起です」
「注意喚起なのに、物扱いが強くなってない?」
「正式文ですので」
正式という言葉は、時々とても不思議だ。
ミナは新しい札と自分の板を見比べ、首を傾げた。
「私の方が分かりやすいね」
「そうだな」
村長まで頷いた。
結局、両方残ることになった。
俺は、また板の数が増えたことに気づいたが、言わないことにした。
◇
伯爵家の使者が現れたのは、板の整理が一段落した頃だった。
銀葉商会の時のような、夜の馬車ではない。
昼前。
王都冒険者ギルドの職員が同行し、王国騎士団の確認札も持っている。
馬車は村からかなり離れた街道の待機場所に置き、使者本人と従者一人だけが徒歩で来た。
その時点で、銀葉商会とは違っていた。
手順を調べている。
村が何を嫌うか、知っている。
そして、知られた上で来ている。
門番老人は、門を開けなかった。
「用件を紙で」
いつもの一言。
使者は不快そうな顔をすることもなく、深く頭を下げた。
「承知しております。グレヴィール伯爵家家令補佐、オルガン・メイスと申します。伯爵閣下より、リーフェル村村長殿、ならびに付与術師アレン殿へ、正式な相談状と招待状をお預かりしております」
俺の名前が呼ばれた。
それだけで、背中が少し硬くなる。
シルフィが記録板へ書く。
『使者、村長およびアレン師匠を宛先として明示』
使者オルガンは、門のそばに並ぶ板へ視線を向けた。
特に、
『お客さんでも、アレンお兄ちゃんは貸しません』
の前で、ほんの一瞬だけ目を止める。
だが、何も言わなかった。
よく訓練されている。
「直接の面会を希望しますか」
門番老人が尋ねる。
「いいえ。村側のご判断に従います。本日は文書をお渡しするのみです」
「返答は後日」
「承知しております」
「村には入れん」
「それも承知しております」
「アレンには会わせん」
俺は少し離れた外部対応広場にいるので、実際には見えているのだが、門番老人は一応そう言った。
オルガンは迷わず答える。
「承知しております」
何を言っても、承知しております。
穏やかだ。
礼儀正しい。
そして、少しも崩れない。
マルタさんが小声で言った。
「夜に押しかけてくるより、やりづらいね」
「はい」
俺も小声で返した。
明らかな無礼がない。
押しつけもない。
こちらの手順を守っている。
だからこそ、文書を読まない理由がない。
門番老人が封書を受け取る。
分厚い。
上質な革の包み。
中央には、翼を広げた銀鷹の紋章が押されていた。
「受領だけ確認します」
シルフィが門の内側から言う。
「封蝋はグレヴィール伯爵家。王都冒険者ギルド確認印あり。王国騎士団通過確認あり。差出人名、グレヴィール伯爵アルベルト・グレヴィール。宛先、リーフェル村村長殿、付与術師アレン殿」
俺の名が、上質な封書に書かれている。
それを見ただけで、胸がざわつく。
今まで、名指しの手紙にはあまり良い思い出がない。
勇者パーティーにいた頃も、俺個人宛ての文書は、たいてい何かを頼むものだった。
武器への付与。
祝福の調整。
遠征前の補助。
負傷者への緊急強化。
断るという選択肢が書かれていることは、ほとんどなかった。
今回の文書は違うのだろうか。
「師匠」
シルフィが俺を見る。
「まだ読みません」
「分かっています」
「今、読みたいと思いましたね」
「思いました」
「記録します」
「はい」
隠さない。
それが今の俺の仕事でもある。
◇
使者オルガンは、受領確認が終わると、もう一度丁寧に頭を下げた。
「伯爵閣下より、言葉を一つお預かりしております。文書外の口上となりますので、不要であれば申し上げません」
村長が少し眉を寄せる。
「文書外の言葉か」
「はい」
「記録するぞ」
「もちろんです」
村長はシルフィを見る。
シルフィが羽ペンを構える。
「どうぞ」
オルガンは、まっすぐこちらを見た。
視線の先には村長がいる。
だが、言葉は明らかに俺にも向けられていた。
「我が主アルベルト・グレヴィールは、娘フローリアを救うために、あらゆる正当な手段を尽くす所存です。ただし、リーフェル村の平穏を乱し、アレン殿の意思を無視してまで協力を強いるつもりはございません」
俺の胸が少し緩みかける。
意思を無視しない。
強いない。
その言葉は、優しい。
オルガンは続けた。
「ただ、父親として、娘が苦しむ姿を前に何もしないこともできない。どうか、文書だけでもお読みいただきたい。それが伯爵閣下からのお願いです」
何もしないこともできない。
その気持ちは分かる。
あまりにも分かってしまう。
エリオの咳を聞いた夜、俺も同じだった。
見たのに、何もしないのか。
助けられるかもしれないのに、手を出さないのか。
父親なら、なおさらだろう。
俺は、四角の木片を強く握った。
オルガンの視線が、一瞬だけ俺の手元へ落ちる。
丸でも、バツでもない木片。
それが何を意味するか、彼は知っているのかもしれない。
「口上、記録しました」
シルフィが言う。
「返答は、文書確認と村内協議後です。本日はありません」
「承知しております」
オルガンはそれ以上、何も言わなかった。
子供の名前を繰り返さない。
病状を口頭で訴えない。
俺へ直接呼びかけない。
頭を下げ、ギルド職員とともに引き返していく。
最後まで手順通り。
それが、かえって怖かった。
◇
封書を読むのは、昼食後になった。
これはもう、村の決まりに近い。
重要な書類は空腹で読まない。
俺が急いで開けようとしないためでもある。
「今日はよく噛んでるね」
マルタさんが向かいから言う。
「封書を早く読みたいので、急いで食べているように見えないようにしています」
「それ、結局急いでるんじゃないかい」
「ゆっくり急いでます」
「変なことを覚えたね」
ミナがパンを持ったまま笑う。
「アレンお兄ちゃん、顔だけ先に手紙のところへ行ってる」
「顔だけ?」
「目がずっと封書見てる」
言われて、俺は慌てて煮込みへ視線を戻した。
ぷる太が四角へ寄る。
「ぷる」
「食事中に手紙を見るのは四角?」
「ぷる」
マルタさんが鍋から追加をよそう。
「はい、おかわり」
「まだ残ってます」
「手紙のことを考える余裕を埋める」
「お腹で?」
「そう」
そんな理由で二杯目を食べることになった。
でも、実際、食べ終える頃には少しだけ気持ちが落ち着いていた。
◇
外部対応広場の机に、封書が置かれた。
参加者は、いつもの五者。
村長。
俺。
シルフィ。
マルタさん。
ぷる太。
それに今回は門番老人とミナもいる。
ミナは、村側の言葉へ直す係だと自称している。
実際、かなり役に立っているから誰も追い出せない。
読む前の確認が始まる。
シルフィが言う。
「一つ。丁寧な文面でも、受諾とは別です」
「はい」
「二つ。フローリアさんの症状を読んでも、師匠は作業小屋へ行きません」
「はい」
「三つ。『見るだけ』『話すだけ』『一度だけ』という文言があっても、即時に丸へしません」
「はい」
「四つ。王都移動、貴族家滞在、直接面会、本人署名は、症例相談とは別問題です」
「はい」
本人署名。
俺は少し引っかかった。
「署名の話、ありました?」
「可能性として先に置きます」
「先に四角?」
「はい」
リュシアさんの手紙にあった言葉だ。
先に四角を置いてください。
シルフィは、もう実践している。
「五つ。師匠が『自分が行けば村の負担が減る』と考えた場合、必ず口に出します」
「はい」
マルタさんが付け足す。
「六つ。返事を書きたくなったら、まず水」
俺の前には、すでに水差しがある。
「準備万端ですね」
「師匠対策です」
シルフィが真顔で答えた。
「俺が一番の危険要因になってる」
「はい」
少しくらい否定してほしかった。
ぷる太は丸に寄った。
否定する気はないらしい。
◇
封書の中には、三種類の書類が入っていた。
一つ目。
グレヴィール伯爵からの正式な相談状。
二つ目。
令嬢フローリアの症例資料。
三つ目。
アレン個人宛ての招待状。
最初に相談状から読む。
シルフィが、落ち着いた声で読み上げた。
「グレヴィール伯爵家令嬢フローリアは、幼少より魔力循環不全を患い、現在、夜間発作、魔力過敏、睡眠困難、発熱を伴う症状に苦しんでおります」
八歳。
エナより一つ年下。
エリオより一つ年下。
また、子供だ。
胸の奥が痛む。
シルフィは読み続ける。
「王都西区高等医療院にて治療を継続しておりますが、十分な改善が見られず、落ち着き布と呼ばれる補助具について、適用可能性の検討をお願い申し上げます」
王都高等医療院の診断書。
担当医療者の署名。
保護者同意。
費用負担者、グレヴィール伯爵家。
銀葉商会は薬材および搬送支援のみ。
記録共有先も明記されている。
銀葉商会の文書で赤線を引いた箇所が、ほとんど修正されていた。
「かなり整っています」
俺が言うと、シルフィが頷く。
「はい。銀葉商会文書への差し戻し条件を把握しています」
「早すぎる」
村長が低く言う。
「こちらの返答が届く前から準備していたか、銀葉商会と一緒に作っていたかだ」
「後ろにいた人が、前へ出てきた」
ミナが言った。
シルフィはその言葉を記録する。
「正確です」
相談状の最後には、症例資料のみを用いた文書検討も受け入れる、と書かれていた。
ここまでは、村の条件と大きくぶつからない。
問題は、次の招待状だった。
◇
招待状は、俺個人へ向けられていた。
『付与術師アレン殿』
自分の名前を他人が読み上げるだけで、妙に居心地が悪い。
シルフィは顔色を変えずに読む。
「貴殿の高い技量と、苦しむ者へ手を差し伸べる誠実なお人柄について、王都医療関係者ならびに銀葉商会より伺っております」
最初から危ない。
技量を褒める。
人柄を褒める。
断りづらくする。
俺はそう思った。
以前なら、素直に受け取っていたかもしれない。
今も、全く嬉しくないと言えば嘘になる。
「師匠」
「少し嬉しかったです」
「記録します」
「早い」
「顔に出ました」
マルタさんが笑う。
「褒められるのに弱いねぇ」
「今まであまり褒められなかったので」
言ってから、場が少し静かになった。
シルフィが羽ペンを止める。
俺は慌てた。
「別に、暗い話をするつもりじゃ」
「師匠」
「はい」
「褒められて嬉しいことは、悪くありません」
「はい」
「でも、褒めた後に何を求めているか見ます」
「いい言葉の後ろも見る」
ミナが板を指した。
「そうです」
シルフィは続きを読む。
「貴殿を当家の客人として王都へお迎えし、十分な礼遇と、安全かつ静穏な滞在環境を提供いたします」
客人。
礼遇。
安全。
静穏。
丁寧な言葉が並ぶ。
「滞在中は王国認定医療者および王国騎士団員の立会いを受け入れ、貴殿の自由な判断を最大限尊重いたします」
自由な判断。
尊重。
「リーフェル村へ患者を移送する負担を避け、また村の平穏を損なわぬため、貴殿に一度、王都へお越しいただくことが最も負担の少ない方法と考えております」
俺が行けば、村の負担が減る。
予想していた通りの言葉だった。
それでも、実際に書かれていると揺れる。
患者を運ばなくていい。
夜の馬車も来ない。
村人が対応に追われない。
外部対応広場の板を増やさずに済む。
俺一人が行けば。
「師匠」
シルフィの声が聞こえる。
「はい」
「今、何を考えましたか」
「俺一人が行けば、村の負担が減るかもしれない、と」
「記録します」
シルフィは羽ペンを動かした。
「師匠。村の負担に、師匠も含まれます」
「分かっています」
「師匠を外へ出すことは、負担を村から切り離すことではありません。村の負担を増やします」
「はい」
頭では分かる。
でも、文書は上手い。
俺一人なら。
そう思わせる。
招待状には、さらにこう書かれていた。
「症例確認のみでも構いません。落ち着き布または新たな補助具の作成を、その場で求めるものではありません」
見るだけ。
症例確認だけ。
その場では作らなくていい。
俺は、また揺れた。
「見るだけなら」
口から出た。
出してから、自分で危ないと分かった。
マルタさんがすぐに言う。
「見るだけで終わると思うかい?」
「伯爵家は、作成をその場で求めないと」
「その場で、だろ」
マルタさんは招待状を指した。
「見たあとで帰って、苦しむ子の顔を忘れられる?」
俺は黙った。
「その場で作らなくても、帰りの馬車でずっと考える。村へ戻ったら作業小屋へ行く。夜中にもっと良くできないか考える。違うかい?」
「違いません」
「見るだけってのは、アレンには見るだけじゃない」
シルフィも言った。
「症例を直接見ることは、師匠の感情へ直接触れることです。文書で見るのとは違います」
村長が新しい板を取った。
「書け」
シルフィは太い文字で書く。
『見るだけ、は見るだけで終わらない』
ミナが下に書き足す。
『会ったら、心に連れて帰る』
俺は、その言葉を見つめた。
会ったら、心に連れて帰る。
まさにそうだ。
エリオを見た後、何日も顔が残った。
フローリアを見れば、きっと同じになる。
いや、それ以上かもしれない。
「これは……強いですね」
俺が言うと、マルタさんが頷いた。
「アレン向けの板だね」
ぷる太も丸へ寄った。
「ぷる」
◇
招待状はまだ続いていた。
「往復の馬車、護衛、宿泊、食事、作業設備、必要素材はすべて伯爵家が負担いたします。滞在は一泊以内、希望される場合は日帰りも可能です」
日帰り。
一泊以内。
期間を短く見せている。
「アレン殿が望まれぬ限り、令嬢以外の患者への面会、診察、補助具作成を求めることはありません」
望まれぬ限り。
俺が望んだら、広がる。
そして俺は、他にも苦しんでいる人がいると知れば、望んでしまうかもしれない。
「危険語」
シルフィが赤線を引いた。
「『望まれぬ限り』。師匠側の善意による拡大を可能にする文言です」
村長が頷く。
「本人が言い出した形にできる」
俺は背筋が冷えた。
相手が求めたのではない。
アレン殿が望んだから。
そういう形にできる。
「俺、自分から言いそうです」
「はい」
シルフィは迷わず答えた。
「師匠は、廊下で苦しむ患者を見たら、こちらも見ましょうかと言います」
「言うね」
マルタさんも頷く。
「たぶん言います」
俺も認めた。
招待状は、俺の性格をかなり正確に読んでいる。
誰から聞いたのだろう。
銀葉商会か。
王都の噂か。
それとも、元勇者パーティー時代の記録か。
どれにしても気分は良くなかった。
「礼遇でも、移動は移動」
ミナがぽつりと言った。
全員が彼女を見る。
「だって、いいご飯とか、いい部屋とか、馬車とか書いてあるけど、アレンお兄ちゃんを連れていく話でしょ?」
「そうです」
シルフィが頷いた。
新しい板が作られる。
『礼遇でも、移動は移動』
その下へ、正式文。
『待遇の良さは、本人移動の危険を減らす理由にはなりません』
ぷる太は丸とバツの間で迷い、最後にバツへ寄った。
移動そのものがバツ、ということらしい。
◇
招待状の最後まで来た時、シルフィの手が止まった。
視線が、一枚の別紙に向けられている。
「どうした?」
村長が聞く。
シルフィは少しだけ眉を寄せた。
「参加確認書が添付されています」
「参加確認?」
俺が聞くと、彼女は紙を机の中央へ置いた。
上には、こう書かれていた。
『自由意思による招待受諾および参加確認書』
内容は簡潔だ。
招待内容を理解した。
強制ではない。
本人の自由意思で参加する。
いつでも辞退できる。
作成、施術、署名、契約を強制されない。
王国騎士団立会いを希望できる。
一見、とても安全に見えた。
そして一番下に、空欄がある。
日付。
氏名。
本人署名。
「署名欄……」
俺が呟く。
シルフィは、紙に触れずに見ていた。
「先に四角を置いて正解でした」
村長が低く言う。
「本人の自由意思を確認する形か」
「はい」
「悪いことではないように見えます」
俺が言うと、マルタさんがこちらを見た。
「アレンなら、署名できると思った?」
「自分で納得したなら」
「今、少し書こうと思った?」
俺は答えられなかった。
ほんの一瞬だ。
本当に、ほんの一瞬。
署名だけなら。
まだ行くとは決めていない。
自由意思の確認なら。
その場で辞退もできる。
そう思った。
ぷる太が、机の端から勢いよく滑ってきた。
バツの木片へ全身で乗る。
「ぷるっ!」
強いバツ。
銀葉商会の馬車を見た時と同じくらい強い。
「ぷる太……」
「ぷるるっ」
ミナが署名欄を見た。
「ここにアレンお兄ちゃんが名前を書くの?」
「はい」
シルフィが答える。
「書いたら行くの?」
「招待を受け入れたことになります」
「じゃあ、バツ」
ミナも即答した。
俺は苦笑しようとした。
でも、上手く笑えなかった。
「自由意思って書いてあるのに」
「自由意思だからこそ危険です」
シルフィは、はっきり言った。
「師匠が自分で選んだ形にできます」
「実際、自分で選ぶんじゃ」
「誰の言葉を読んだ後ですか」
俺は黙った。
「苦しむ八歳の令嬢。娘を救いたい父親。村の負担を減らす。安全な滞在。見るだけでもいい。すべてを読んだ後での署名です」
シルフィの声は静かだった。
でも、一語ずつ強かった。
「師匠は、何もない場所で自由に選ぶのではありません。断りにくい言葉を積まれた最後に、自由意思の署名を求められています」
村長が紙を見下ろす。
「同意があるから安全とは限らん」
マルタさんも言う。
「署名しない自信を持つより、署名する紙を手元に置かない方が強いね」
俺の胸が、どくりと鳴った。
署名しない自信。
俺にはあると思っていた。
でも、今、少し書こうと思った。
自分で見て、自分で断ればいい。
そう考えた。
その時点で、もう危ない。
「この紙は」
シルフィが言う。
「師匠には渡しません」
「俺宛てですが」
「村内協議文書として保管します。師匠が一人で触れない場所に置きます」
「そこまで?」
「そこまでです」
ぷる太が強く丸へ寄った。
ミナも頷く。
「アレンお兄ちゃん、名前書くの好き?」
「好きではないけど」
「でも書きそう?」
「……書くかもしれない」
「じゃあ、シルフィお姉ちゃんが持ってて」
「はい」
俺個人宛ての書類だ。
なのに、俺の手元には来ない。
少し悔しい気持ちはある。
信用されていないような気もする。
でも、その悔しさを口に出す。
「少し、信用されてないみたいで苦しいです」
シルフィは俺を見る。
「師匠を信用していないのではありません」
「では?」
「師匠が、苦しむ人を前にした時、助けたいと思うことを信用しています」
意外な言葉だった。
「助けたいと思う師匠だから、署名する可能性がある。そこを信用しています。だから、紙を離します」
俺はしばらく何も言えなかった。
信用されているから、止められる。
何だか、不思議な話だ。
でも、少し分かる。
「……分かりました」
俺は、署名欄から目を逸らした。
「その紙は、シルフィが持っていてください」
「はい」
シルフィは参加確認書を別の封筒へ入れた。
表に赤い文字で書く。
『本人へ単独で渡さない』
ぷる太が丸へ寄った。
◇
会議の最後に、三枚の新しい板が作られた。
『見るだけ、は見るだけで終わらない』
『礼遇でも、移動は移動』
『本人を呼ぶ話は、全部別枠』
そして、仮の注意札。
『署名欄は、先に四角』
正式な板にするかは、次の会議で決める。
俺は並んだ文字を見ながら、招待状をもう一度思い返した。
伯爵は、娘を本当に助けたいのだろう。
フローリアも、本当に苦しんでいるのだろう。
文書にも、露骨な嘘はほとんどない。
だからこそ揺れる。
悪人から逃げるのは、まだ分かりやすい。
怒鳴る相手を拒むのも分かりやすい。
だが、礼を尽くし、自由意思を尊重し、安全を保証し、苦しむ子供を助けてほしいと頼む相手を拒むのは、とても難しい。
拒みたいわけではない。
症例相談は受けたい。
助ける道も探したい。
でも、俺は行かない。
その二つを同時に持つ。
今は、それが必要だった。
◇
夕暮れ時、俺は外部対応広場に残った。
招待状は村長の家の保管箱へ。
参加確認書はシルフィの記録庫へ。
俺の手元には何もない。
それでいい。
たぶん。
シルフィが板の紐を締め直している。
俺は声をかけた。
「シルフィ」
「はい」
「もし、署名欄がなかったら、俺はもっと行きたいと思ったかな」
彼女は少し考えた。
「思ったと思います」
「署名欄があったから、危険が見えた?」
「それもあります。でも、署名欄自体が悪いわけではありません」
「本人同意は大事だから?」
「はい。問題は、どのような言葉と状況の中で署名を求められるかです」
シルフィは、夕日の中で板を見た。
「師匠が安全な村の中で、十分に時間をかけ、誰にも急かされず、断っても誰も苦しむ顔を見せない状態で考えるなら、まだ違います」
「でも、招待状にはフローリアさんの症状がある」
「はい」
「父親の願いも」
「はい」
「村の負担を減らすという言葉も」
「はい」
「その後に署名欄」
「だから四角です」
俺は頷いた。
ぷる太が、いつの間にか俺の足元にいる。
四角の木片を押してきた。
「ぷる」
「分かってる」
俺は木片を拾った。
「見るだけなら、と思った」
「はい」
「安全なら、と思った」
「はい」
「署名だけなら、と思った」
「はい」
「全部、危ない?」
「全部、すぐ丸にしてはいけない言葉です」
「バツではなく?」
「今は四角です。症例相談は閉じませんから」
その答えに、少し救われた。
全部を拒むわけではない。
ただ、俺を呼ぶ道は別。
助ける道と、連れていかれる道を分ける。
「本人を呼ぶ話は、全部別枠」
俺が板を読むと、シルフィが頷いた。
「はい」
「俺、行かなくても何かできるかな」
「そのために、症例資料があります」
「紙で見る」
「はい」
「会わずに考える」
「はい」
「署名せずに助ける」
「はい」
シルフィは、少しだけ笑った。
「その道を探します」
俺も、ようやく少し笑えた。
日が沈み始める。
外部対応広場の板が、長い影を落とす。
グレヴィール伯爵家の招待状は、とても丁寧だった。
だからこそ、村はさらに丁寧に止まることにした。
見るだけ。
一度だけ。
安全な客人。
自由意思。
そのどれも、今夜は丸にならない。
机の上で、ぷる太が四角の木片にぴたりとくっついた。
俺もその隣へ、自分の四角を置いた。
署名欄は空白のまま。
今は、それが一番はっきりした返事だった。




