第83話 カイル、銀葉商会の護衛依頼を断る
その依頼書が冒険者ギルドの受付に出された時、マリナは一度だけ目を閉じた。
朝の受付は混雑していた。
魔獣討伐の報告に来た若い冒険者が、血のついた牙を袋から出そうとして受付嬢に叱られている。
薬草採取帰りの老人が、依頼票の文字が小さいと文句を言っている。
酒場の奥では、昨日から飲んでいたらしい男が椅子に横たわって、仲間に足で小突かれていた。
いつものギルドだ。
騒がしくて、雑多で、面倒で、けれど生きている場所。
その中で、銀葉商会の使いは、あまりにも整った姿で立っていた。
灰色の外套。
磨かれた靴。
派手すぎない銀の留め具。
手には、上質な羊皮紙の依頼書。
受付の前に立った男は、丁寧に一礼した。
「銀葉商会より、護衛依頼をお願いいたします」
マリナは依頼書を受け取った。
その瞬間、嫌な予感がした。
予感というより、もう答えが見えていた。
銀葉商会。
護衛依頼。
この時期。
この組み合わせで、何も起こらないはずがない。
「内容を確認します」
マリナは表情を崩さず、依頼書に目を落とした。
目的地。
リーフェル村方面。
目的。
正式相談文書および患者関連資料の搬送。
護衛対象。
銀葉商会担当者二名、王都医療院関係者一名予定。
備考。
危険地帯通過の可能性あり。
可能であれば、元勇者パーティー所属者、もしくは同等の実績を持つ冒険者の同行を希望。
報酬。
相場の三倍。
別紙。
困難な症例を抱える患者家族のため、迅速かつ安全な相談実現を望む。
マリナは、そこで読み止めた。
相場の三倍。
困難な症例。
患者家族のため。
迅速かつ安全。
どれも、単体では悪い言葉ではない。
だが、並ぶと危ない。
彼女は依頼書を机に置き、銀葉商会の使いを見た。
「ロアンさんではないのですね」
「はい。ロアンは現在、商会内調査への対応で外しております。わたくしは番頭補佐のメルクと申します」
「目的地は、リーフェル村方面とあります」
「はい。リーフェル村へ直接押しかけるものではありません。正式な相談のため、ギルドおよび騎士団の定めた手順に従います」
「それなら、護衛は通常のギルド護衛で足ります。元勇者パーティーを名指しする理由は?」
メルクは、少し困ったように微笑んだ。
「名指しというほど強いものではございません。ただ、先日の件で誤解もありましたので、信頼ある方々の立会いがあれば、リーフェル村側にも安心していただけるかと」
マリナは、心の中でため息をついた。
上手い言い方だった。
元勇者パーティーを連れていけば、村が安心する。
そう言っている。
だが、実際は逆だ。
カイルたちがリーフェル村へ行けば、アレンに強烈な圧力になる。
本人たちが会わないつもりでも、村の外に立つだけで意味を持ってしまう。
「この依頼は、いったん保留にします」
マリナは言った。
メルクの眉がわずかに動く。
「保留ですか」
「はい。リーフェル村関連の依頼は、現在、通常依頼として即時掲示できません。王国騎士団との確認が必要です」
「もちろん、確認は歓迎いたします。ただ、患者家族の不安もあり、できれば早めに」
「急がせる文言も記録します」
マリナは即座に言った。
メルクは口を閉じた。
彼の笑顔が、ほんの少し固まる。
「失礼しました。急かす意図はございません」
「そうでなくても、そう受け取られる可能性があります」
「……承知しました」
マリナは依頼書を写しに回しながら、受付奥の職員へ合図した。
「カイルさんたちを呼んでください。依頼を受けるためではなく、確認のためです」
◇
カイルがギルドへ来た時、彼はすでに何かを察していた。
マリナからの呼び出し。
銀葉商会。
護衛依頼。
その三つを聞いた瞬間、腰の革袋に手が伸びた。
ミラは横からそれを見て、肩をすくめる。
「木片、擦り切れるわよ」
「擦り切れるくらいでちょうどいい」
「なら予備を作らないとね」
ガレスが真顔で言う。
「硬い木を使え」
「そこ、今大事?」
ミラが呆れる。
リーナは苦笑しながらも、カイルの手元を見ていた。
「でも、予備はあった方がいいかもしれません。最近、本当に触る回数が増えています」
カイルは不満そうに眉を寄せた。
「俺はそんなに危ういか」
三人が同時に黙った。
その沈黙で、答えは十分だった。
「……分かった。聞いた俺が悪かった」
ギルドの奥の会議室に入ると、マリナが依頼書を机に置いた。
すでに写しが数枚作られている。
グラウス副団長も来ていた。
彼は椅子に座らず、壁際に立って腕を組んでいる。
機嫌は、良くなさそうだった。
「銀葉商会からの依頼です」
マリナが言う。
「内容は、正式相談文書および患者資料の搬送護衛。目的地はリーフェル村方面。可能であれば、元勇者パーティー、もしくは同等実績者の同行を希望」
カイルは依頼書を受け取った。
読み進めるうちに、眉間の皺が深くなる。
相場の三倍。
患者家族のため。
迅速かつ安全。
信頼ある護衛。
リーフェル村側にも安心。
読み終えた時、カイルは依頼書を机に置いた。
ゆっくりと。
破らなかっただけ、成長したと言えるかもしれない。
「断ります」
声は低かった。
グラウスが言う。
「まだ、お前に受けるかどうか聞いてはいない」
「聞かれなくても断ります」
ミラが椅子に腰を下ろしながら言った。
「珍しく判断が早くて正しい」
「珍しくは余計だ」
「余計じゃないわよ。以前なら『俺が行けば守れる』って言ってたでしょ」
カイルは反論しかけて、止まった。
事実だった。
以前の自分なら、受けていたかもしれない。
いや、かなり高い確率で受けていた。
銀葉商会を監視できる。
村へ向かう危険を途中で止められる。
アレンには会わない。
そう言って、自分を納得させていたはずだ。
そして、結果としてアレンにまた重い影を落とす。
「……そうだな」
カイルは木片に触れた。
「以前なら、受ける理由を探していた」
リーナが静かに頷いた。
「私も、少し揺れました」
ミラが彼女を見る。
「リーナも?」
「はい。患者資料の搬送、王都医療院関係者同行予定、正式相談と書かれていたので。もしかしたら、今度こそ正しい形なのかも、と」
ガレスが低く言う。
「俺も報酬額で少し嫌な気分になった」
「報酬に揺れたの?」
ミラが聞くと、ガレスは首を横に振った。
「逆だ。高すぎる報酬は、何かを黙らせるための重さに見える」
マリナが頷いた。
「私も同意です。相場の三倍は、護衛の危険度以上に『断りにくくする金額』です」
カイルは、依頼書の別紙を指で押さえた。
「それから、この『リーフェル村側にも安心していただける』という文言」
声が少し荒くなりかけた。
カイルは一度息を吐く。
「俺たちが行けば、安心ではなく圧力になる」
自分で言った。
自分の口で。
それは、思った以上に重かった。
ミラは少しだけ表情を和らげる。
「ちゃんと言えたじゃない」
「言いたくはなかった」
「でも言えた」
リーナも微笑む。
「大事です」
グラウスが、ようやく腕をほどいた。
「では確認する。お前たちは、この依頼を受けない。理由は?」
カイルは答えた。
「俺たちがリーフェル村へ向かうこと自体が、アレンへの圧力になるため」
ミラが続ける。
「銀葉商会の護衛として行けば、商会の正当性を補強する形になるため」
ガレスが言う。
「高額報酬と患者家族の文言が、護衛側の判断を鈍らせるため」
リーナが最後に言った。
「医療相談であるなら、護衛の前に医療者とギルド、騎士団の手順が前に出るべきです。元勇者パーティーの名前で安心を作るものではありません」
マリナはすべて記録した。
「ありがとうございます。非常に明確です」
カイルは、少しだけ息を吐いた。
断った。
村へ行く依頼を。
アレンを守ると言い訳できる依頼を。
断った。
胸の中に、まだ行きたい気持ちはある。
だが、それより強く「行かない方が守れる」という言葉が立っていた。
◇
銀葉商会の番頭補佐メルクは、会議室へ通された。
彼は、カイルたちの顔を見ても大きく表情を変えなかった。
さすが商会の人間というべきか、礼儀正しく頭を下げる。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
グラウスが言った。
「依頼内容を確認した。元勇者パーティーへの護衛依頼は不受理とする」
メルクの眉がわずかに動いた。
「不受理、でございますか。受注者側の辞退ではなく?」
「この形の依頼自体を掲示しない」
「理由を伺っても?」
マリナが答える。
「リーフェル村関連の相談について、元勇者パーティーの同行は村側への圧力になり得ます。また、銀葉商会の護衛として彼らが同行することで、商会主導の印象を強めます。よって不受理です」
メルクは、少し困ったように微笑む。
「誤解がございます。我々は商会主導を望んでいるのではなく、むしろ先日のご指摘を受け、正式手順に沿おうとしております。だからこそ、信頼ある護衛を」
カイルが口を開いた。
「俺たちの名前を使うな」
短い言葉だった。
だが、部屋の空気が一瞬で張る。
ミラが横でカイルを見る。
止めるべきかどうか判断する顔。
しかし、カイルは続けた。
声は低いが、怒鳴ってはいない。
「俺たちは、アレンを追放した側だ」
メルクの表情が初めて少し崩れた。
その事実を、ここまで正面から言われるとは思っていなかったのだろう。
「俺たちが銀葉商会の護衛としてリーフェル村へ行けば、アレンはどう感じる。村はどう見る。『元仲間が商会側について来た』ように見えるだろう」
「そのような意図は」
「意図ではなく、見え方の話だ」
カイルは、自分の木片を机の上に置いた。
『待』
黒い文字が、会議室の灯りに照らされる。
「俺は、行きたい。アレンの村へ向かう危険を自分の目で見たい。商会が何をするか監視したい。そういう気持ちはある」
ミラは黙って聞いていた。
ガレスも、リーナも。
「だが、それは俺が安心したいだけでもある。アレンのためだけじゃない。俺が『今度は守った』と思いたい気持ちが混ざっている」
メルクは、返す言葉を失っていた。
カイルは続ける。
「だから行かない。少なくとも、銀葉商会の護衛としては絶対に行かない」
リーナが静かに言った。
「私も同じです。治癒術師として、患者さんを助けたい気持ちはあります。でも、商会の護衛として同行すれば、医療より商会の動きが前に出ます。それは危険です」
ガレスは腕を組む。
「俺も行かん。俺たちの名前を使って村の警戒を下げようとするなら、逆効果だ」
ミラが最後に言った。
「それに、リーフェル村はもう『顔より紙の中身を見る』って決めてるのよ。私たちの顔を添えて紙を通そうとするのは、駄目」
メルクは黙って四人を見た。
やがて、ゆっくりと頭を下げる。
「承知しました。元勇者パーティーへの依頼希望は取り下げます」
「希望だけではない」
マリナが言った。
「今後、リーフェル村関連の相談において、特定人物の名を使って信頼を補強する形の依頼は受け付けません」
「承知しました」
「また、護衛が必要であれば、目的地、同行者、医療主導者、資料、立会い、村側への事前確認を明記した上で、ギルドと騎士団が選定します。商会側の指名はできません」
メルクの表情が、少しだけ厳しくなる。
「それでは、商会として安全確保の責任が」
グラウスが遮った。
「安全確保を理由に主導権を握るな」
メルクは口を閉じた。
「あなた方はすでに一度、夜間に患者を伴って村へ向かった。その時点で、リーフェル村関連の移動に関する信用は大きく損なわれている。今後は、ギルドと騎士団が経路と護衛を確認する」
「……分かりました」
メルクは、深く頭を下げた。
だが、カイルには分かった。
彼は諦めていない。
銀葉商会は、別の方法を探す。
別の冒険者。
別の名目。
別の貴族家。
商人とは、そういうものだ。
◇
メルクが退室した後、ミラが椅子の背にもたれた。
「疲れた」
カイルも同じく椅子に沈んだ。
「俺もだ」
「怒鳴らなかったわね」
「少し怒鳴りかけた」
「八割くらい?」
「五割だ」
「盛ってる」
「盛ってない」
ガレスが真顔で言う。
「六割だな」
「お前まで」
リーナが小さく笑った。
「でも、止まれました」
カイルは机の上の木片を見た。
待。
以前は、この文字を見るたびに胸が焼けるようだった。
今も焼ける。
だが、少しだけ別の感覚もある。
待つことが、何もしないことではないと分かり始めている。
今回もそうだ。
依頼を受けて村へ行くのではなく、依頼を断ることで村へ向かう圧力を減らした。
それは、剣を抜くより地味だ。
だが、たぶん必要だった。
マリナが依頼書に大きく処理印を押した。
『不受理』
その赤い印を見て、ミラが言う。
「いい音」
「気持ちがいいですね」
リーナも少し笑う。
ガレスは頷いた。
「赤い印は強い」
カイルは、ふとリーフェル村の板を思い出した。
きれいな紙でも、赤を探す。
いい言葉の後ろも見る。
お金は後ろ。医者と本人が前。
「こっちにも板が要るな」
カイルが呟くと、ミラがにやりとした。
「何て書く?」
カイルは少し考えた。
「名前を使わせるな」
「硬い」
「じゃあ、お前なら?」
ミラは腕を組んで考えた。
「有名人を添えても丸になりません」
リーナが吹き出した。
「分かりやすいです」
ガレスが真顔で頷く。
「採用だな」
マリナが本当にメモを取った。
カイルは驚く。
「書くのか?」
「掲示文に使えるかもしれません」
「本当に?」
「リーフェル村式は意外と効きます」
グラウスが低く言った。
「ふざけているようで、急所を突く」
結局、その文言はギルド内部の注意書きになった。
『有名人を添えても丸になりません』
カイルは何とも言えない顔をしたが、反対はしなかった。
◇
午後、銀葉商会は改めて護衛依頼を出した。
今度は、元勇者パーティーの名を消している。
ただし、報酬は相場の二倍。
目的地は、王都医療院とギルドが指定する中継地点まで。
リーフェル村への直接移動はなし。
資料搬送のみ。
それでも、マリナはすぐには掲示しなかった。
騎士団と確認し、護衛はギルド側で選ぶことになった。
カイルたちは、その処理を見届けた後、ギルドの食堂で遅い昼食を取っていた。
固いパン。
豆の煮込み。
薄いスープ。
ミラはスープを一口飲んで、眉をひそめた。
「リーフェル村のマルタさんのスープ、飲んだことないけど、たぶんこっちより美味しいわね」
リーナが苦笑する。
「なぜ分かるんですか」
「アレンがあの村に残ってる理由の三割くらいはご飯だと思う」
カイルはパンをちぎりながら言った。
「それはあるかもしれない」
「否定しないんだ」
「アレンは食事を抜く癖があった。リーフェル村では、たぶん抜かせてもらえない」
ガレスが頷く。
「いい村だ」
リーナは少し寂しそうに微笑んだ。
「私たちは、アレンさんがちゃんと食べていたかも見ていませんでしたね」
食堂の空気が少し重くなる。
ミラはスプーンを置いた。
「こういう時、昔の自分を殴りたくなるわ」
「俺は毎日だ」
カイルが低く言う。
「でも、殴っても何も変わらない」
「そうね」
「だから、依頼を断った」
カイルは木片を机に置いた。
「今日の俺は、それでいいことにする」
リーナが頷く。
「はい。今日の丸です」
ガレスが、食堂の端に置かれていた使い古しの木片を手に取った。
「カイル」
「何だ」
「予備を作る」
「今か?」
「今だ」
ガレスは腰の小刀で、木片を削り始めた。
ミラが呆れたように笑う。
「食堂で木工を始める人、初めて見た」
「必要だ」
「何て彫るの?」
ガレスは少し考えた。
「行かない」
カイルは黙った。
ミラも、リーナも黙った。
ガレスは、ゆっくり木片に文字を刻む。
『行かない』
それは、カイルの新しい木片になった。
待つだけではない。
急がないだけでもない。
行かない。
行かないことで守る。
カイルは、その木片を受け取った。
しばらく見つめる。
それから、小さく言った。
「重いな」
ガレスは頷いた。
「軽い木だがな」
「そういう意味じゃない」
「分かっている」
ミラが少し笑った。
「ガレスの冗談、分かりづらい」
「冗談ではない」
「そこがまた分かりづらい」
リーナが笑った。
カイルも、少しだけ笑った。
その笑いは、苦いけれど、前より少し自然だった。
◇
夕方、マリナはリーフェル村へ送る共有文を作成した。
銀葉商会が元勇者パーティーを指名しようとしたこと。
ギルドと騎士団が不受理にしたこと。
今後、リーフェル村関連の移動では商会による護衛指名を認めないこと。
資料搬送が必要な場合は、ギルドと騎士団が経路と護衛を選定すること。
そして、カイルたちが依頼を断ったこと。
そこを書くかどうか、マリナは少し迷った。
アレンへ負担になる可能性がある。
だが、村側には知っておいてほしい。
彼らが来ないようにしたことは、村の安全情報でもある。
結局、文面はこうなった。
『元勇者パーティー四名を名指し、または希望する形の護衛依頼が銀葉商会より提出されましたが、王都冒険者ギルドおよび王国騎士団にて不受理としました。当該四名も、リーフェル村への圧力となる可能性を理由に同行を拒否しています。本件に対する返答は不要です』
最後の一文は、忘れなかった。
返答不要。
アレンに返事を書かせないための線。
マリナは封をして、そっと息を吐いた。
「本当に、線ばかり増えていきますね」
隣の受付嬢が聞いた。
「リーフェル村ですか?」
「王都もです」
マリナは苦笑した。
「でも、線がないと、善意もお金も名声も、全部同じ入口から入ってきてしまいますから」
「難しいですね」
「ええ。とても」
◇
その夜、カイルは宿舎の机に二つの木片を並べた。
『待』
『行かない』
それから、前から持っている木片も並べる。
『急ぐな』
机の上に三つ。
どれも、勇者らしい言葉ではない。
進め。
倒せ。
救え。
そんな言葉ではない。
待。
急ぐな。
行かない。
昔の自分なら、鼻で笑っただろう。
だが、今はその三つが、剣より重い。
ミラが扉の外から声をかけた。
「寝てる?」
「起きてる」
「入っていい?」
「いい」
ミラは遠慮なく入ってきた。
手には小さな布袋。
「何だ、それ」
「木片入れ」
「なぜ」
「机の上に転がしてると失くすでしょ」
「子供扱いか」
「半分くらい」
カイルは眉を寄せたが、布袋は受け取った。
濃い青の布で、小さく紐がついている。
ミラは机の木片を見て、少しだけ表情を柔らかくした。
「増えたわね」
「ああ」
「次は何が増えるのかしら」
「増えない方がいい」
「でも、増えそう」
「否定できない」
ミラは椅子に腰を下ろした。
「今日、断れてよかったわね」
「そうだな」
「でも、また来るわよ。別の形で」
「分かっている」
「その時も行かない?」
カイルは、少し黙った。
答えは簡単ではない。
状況によっては、騎士団やギルドの正式な指示で動く必要があるかもしれない。
リーフェル村に危険が迫れば、剣を持つべき時もあるかもしれない。
だが、少なくとも、商会の護衛としては行かない。
アレンを揺らすための名前としては使わせない。
「行くなら、俺の安心のためではなく、村が望む形で。ギルドと騎士団が必要と判断し、村が受け入れる形で」
ミラは頷いた。
「かなりまとも」
「その言い方はやめろ」
「褒めてるのに」
「雑だ」
ミラは笑った。
それから、少し真面目な顔になる。
「私も、行きたい気持ちはあるよ」
「知っている」
「アレンに会って謝りたいとか、元気か見たいとか、そういうのもある。商会を止めたいって気持ちも本当。でも、それだけじゃないのよね」
「自分が楽になりたい」
「そう」
ミラは苦い笑みを浮かべた。
「嫌になるわね」
「なる」
「でも、嫌になるだけじゃ駄目なのよね」
「ああ」
カイルは木片を布袋に入れた。
待。
急ぐな。
行かない。
「明日も、王都で動く」
「ええ」
「商会が別の冒険者を雇うなら、その記録を見る」
「貴族家の動きもね」
「グレヴィール伯爵家」
「そこが本命かも」
カイルは窓の外を見た。
王都の夜は、明るい。
だが、その明るさの中で、誰かが次の文書を書いている。
丁寧な言葉で。
高価な紙に。
アレンを呼ぶための言葉を。
「行かない」
カイルは小さく呟いた。
それは、逃げる言葉ではなかった。
守るために、今は行かない。
その難しさを、彼は少しずつ覚えていた。




