第82話 リーフェン家慎重派、商会介入を危険視する
リーフェン家の研究館に、王都からの写しが届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
封書は三通。
一通は王都冒険者ギルドから。
一通は王国騎士団から。
そしてもう一通は、リーフェル村からの共有文書だった。
受け取ったセラドは、封蝋を確認した瞬間、いつもの薄い笑みを消した。
「これは、穏やかではありませんね」
執務机の向こうで、エルドランが顔を上げる。
「またあの村が条件を増やしたのか」
「条件だけなら、まだ穏やかです」
セラドは封書を指で軽く叩いた。
「王都ギルドと騎士団が同時に写しを回してきています。つまり、村だけの話では済まなくなったということです」
エルドランは不機嫌そうに眉を寄せた。
「何があった」
「銀葉商会が、夜間に患者を伴ってリーフェル村へ向かったようです」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
壁際に控えていたセイン文官が、思わず羽ペンを落としかける。
エルドランも、さすがに言葉を失った。
「夜間に? 患者を連れて?」
「はい」
「馬鹿なのか」
「善意と商才が混ざると、だいたい馬鹿なことをします」
セラドは辛辣に言った。
エルドランは舌打ちした。
「商会か。銀葉商会なら王都医療院にも出入りしているだろう。なぜ正式手順を踏まない」
「早く押さえたかったのでしょう」
「何をだ」
「患者の命、と言いたいところですが」
セラドは封書を開きながら、淡々と続けた。
「実際には、落ち着き布への接触権です」
その言葉に、エルドランの目が細くなった。
接触権。
あまりに生々しい言い方だった。
だが、正しい。
セラドは文書を読み進める。
「村側は布を出さず、水、毛布、温石、薄い食事、門外休憩小屋を提供。翌朝、王都ギルドと医療院へ引き渡し。新規板……」
そこでセラドは少しだけ口元を引きつらせた。
「『夜は布の話をしません』『急いでる時ほど布じゃない』『子供を連れてきても、布は出しません』」
エルドランは、しばらく黙った。
そして、低く言った。
「……言葉は幼いが、判断は固い」
「幼い言葉ほど逃げ道がありませんからね」
セラドは文書を机へ置いた。
「しかも、その後、銀葉商会は正式文書を出しています。症例資料、保護者同意、医療者意見を整えた上で」
「なら、少しはまともになったのか」
「形は」
「中身は?」
「危険です」
セラドは、赤線の入った写しを広げた。
リーフェル村でシルフィが引いたものと同じ箇所に、王都ギルド側でも印がつけられている。
商会保管。
商会選定患者。
費用回収。
使用記録の商会共有。
提携医療院への貸与。
今後の症例拡大。
追加作成相談。
エルドランは文面を読み、顔をしかめた。
「……よくもまあ、救済の皮をかぶせたものだ」
「救済の皮は、非常に丈夫です。何でも包めます」
「お前は本当に、嫌な言い方をする」
「便利なので」
セラドは平然としていた。
だが、目は笑っていない。
エルドランは椅子の背にもたれた。
「リュシアとヴィオラを呼べ。ノルドもだ」
「ノルドもですか」
「呼べ。あの若造がこの件で何を考えるか、今のうちに見ておく」
「賢明です」
セラドは短く答え、セインへ視線を送った。
◇
リュシアが研究館の小会議室へ入った時、すでにヴィオラは席についていた。
老森術師は、王都からの写しに目を通している途中だった。
表情は険しい。
怒りというより、深い疲労に近い。
「ヴィオラ先生」
リュシアが声をかけると、ヴィオラは紙から目を上げた。
「来ましたか。読みました?」
「概要だけは。銀葉商会が、患者を連れてリーフェル村へ向かったと」
「ええ。夜に。子供を連れて。布を求めて」
ヴィオラの声は静かだったが、その奥に冷たい怒りがあった。
「医療者として、最もやってはいけない形です」
「商会付きの治癒師は反対していたようですね」
「そこだけが救いです。ですが、反対した医療者より商会判断が前に出た。これは危険です」
リュシアは席につき、写しへ目を落とした。
村側の記録は相変わらず細かい。
アレンが揺れたことまで書かれている。
『患者の咳を聞き、アレン殿が布提供を考える。村側が制止』
『作成者本人への視線誘導を記録』
『子供を連れてきても布は出しません、の板を追加』
リュシアは、その一文で指を止めた。
「……シルフィ」
小さく呟く。
会議場で、彼女は「私は記録されるだけの存在ではありません」と言った。
その言葉が、いまリーフェル村の門で生きている。
アレンを守る記録として。
子供を盾にしないための記録として。
村の線を残す記録として。
リュシアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
誇らしい。
そして、痛い。
自分たちは、かつてシルフィをどう記録していたのか。
失敗例。
不安定個体。
適合不可。
そこに本人の声はなかった。
いま彼女は、誰かの声を消さないために記録している。
その差が、重かった。
扉が開き、ノルドが入ってきた。
少し遅れてエルミアも入る。
ノルドは文書を見て、すでに落ち着かない顔をしていた。
「銀葉商会が正式文書を出したと聞きました」
開口一番、それだった。
ヴィオラの眉が動く。
「夜間訪問の方ではなく、そこですか」
「もちろん、夜間訪問は問題です。ただ、正式文書に切り替えたのなら、検討の余地はあるのではないかと」
ノルドは早口だった。
「商会には資金があります。医療院への繋がりもある。症例数も集められる。リーフェル村だけ、あるいはリーフェン家だけで慎重に一例ずつ進めるより、適切な管理下に置けば――」
「適切な管理下とは、誰の管理ですか」
リュシアが静かに問う。
ノルドは言葉を切った。
「それは、医療者と商会が」
「商会が前に出ています」
リュシアは文書の赤線部分を指した。
「商会保管。商会選定患者。費用回収。記録の商会共有。これは医療管理ではありません。商会管理です」
「ですが、資金がなければ広げられません」
「広げる前提で話している時点で危険です」
リュシアの声が少し硬くなった。
「エナは、まだ一枚なら平気と言っている段階です。いっぱいあるのは怖い、とも言いました」
ノルドの顔が、そこでわずかに変わった。
エナの名は、彼にも刺さる。
「……分かっています」
「本当に?」
リュシアは逃がさなかった。
「銀葉商会の資金で研究が進む、と今考えましたね」
ノルドは唇を噛んだ。
エルミアが横で小さく息を呑む。
ヴィオラは黙って二人を見ている。
ノルドはしばらく沈黙し、それから低い声で言った。
「考えました」
正直な答えだった。
「資金があれば、比較試験もできます。記録体制も整えられる。複数症例の反応も見られる。リーフェル村へ負担をかけず、布の可能性を検証できるかもしれないと」
「その可能性の中に、エナの怖さは入っていますか」
リュシアが問う。
ノルドは目を伏せた。
「……最初は、入っていませんでした」
小会議室が静かになる。
エルミアが、そっと口を開いた。
「ノルドさん。今、自分で止まれましたね」
「止まれたというか、止められたんだ」
「それでも、前よりは止まっています」
ノルドは苦笑した。
「慰めですか」
「観察です」
「君もリーフェル村みたいなことを言う」
「影響されました」
エルミアは真面目に言った。
その言い方が少しおかしくて、リュシアはほんの少し表情を緩めた。
ヴィオラが、そこで文書を机に置いた。
「資金は悪ではありません。商会も、すべて悪ではありません」
部屋の全員が彼女を見る。
「薬も食料も人手も、金がなければ動きません。貧しい患者を救うために、支援金が必要なこともあります。そこを綺麗事で否定してはいけません」
ノルドは少し顔を上げた。
しかし、ヴィオラは続けた。
「ですが、金が前に出た時、患者は後ろへ押しやられます。今回の文書は、それです」
ノルドの表情がまた曇る。
「商会が保管し、商会が選び、商会が費用を回収し、商会が記録を見る。患者も医療者も、文面の上では大切にされています。しかし、実際の権限は商会が握る。これは医療ではありません」
「流通ですね」
セラドが部屋へ入ってきながら言った。
いつの間にか扉が開いていた。
彼は資料を片手に、いつもの皮肉な調子を少し抑えている。
「しかも、善意の流通です。最も断りにくい」
◇
エルドランも遅れて入室した。
全員が立ち上がろうとするが、彼は手で制した。
「座れ。時間が惜しい」
彼は机の上の赤線入り文書を見た。
「銀葉商会が絡むなら、王都貴族も絡む可能性が高い」
セラドが頷く。
「騎士団側の調査で、グレヴィール伯爵家の名が出ているようです」
その名が出た瞬間、リュシアは顔を上げた。
「グレヴィール伯爵家……病弱な令嬢がいる家ですね」
「ええ」
セラドは資料をめくる。
「まだ正式な照会ではありませんが、銀葉商会の急送費用の一部に伯爵家筋の支払いが確認されています」
ノルドが眉を寄せる。
「では、エリオという少年は?」
「本命ではなく、試し矢だった可能性があります」
セラドの言葉に、部屋の空気が冷えた。
エルミアが小さく言う。
「試し矢……子供を?」
ヴィオラの手が、机の上で強く握られる。
「許しがたい言い方ですが、あり得ます」
セラドは淡々としているが、声の底は冷たい。
「銀葉商会がリーフェル村の反応を見た。夜間訪問、患者同伴、即時使用要求。どこまで村が折れるか。結果、折れなかった」
「だから次は正式文書」
リュシアが言う。
「そして、その次は貴族家からの丁寧な相談状」
セラドが頷いた。
「おそらく」
エルドランは腕を組み、低く言った。
「厄介だな。貴族家が出てくれば、ただ断るだけでは済まん」
「はい。礼を欠けば政治問題になります。礼を尽くしすぎれば取り込まれます」
「リーフェル村はどうすると思う」
「板を増やすでしょう」
セラドが真顔で答えた。
エルドランは一瞬、何とも言えない顔をした。
「……冗談か?」
「半分は」
「残り半分は」
「実際、あの村は板で身を守っています」
リュシアは頷いた。
「その板に、先に書くべき言葉を送る必要があります」
エルドランはリュシアを見る。
「お前が?」
「はい」
「シルフィへか」
「シルフィへ、そしてリーフェル村へ」
リュシアは迷わなかった。
「銀葉商会の件、グレヴィール伯爵家の名が出ていること、正式で丁寧な文書ほど警戒すべきこと。リーフェン家からも注意喚起を送るべきです」
ノルドが言った。
「しかし、それはリーフェル村へさらに不安を与えるのでは」
「知らせない方が危険です」
エルミアが静かに答えた。
「知らずに丁寧な招待状を受け取る方が、ずっと危険です」
ヴィオラも頷く。
「それに、記録を共有することは信頼の形です。今までのリーフェン家は、それを軽んじてきました。ここで黙れば、また同じです」
エルドランは、しばらく黙っていた。
彼にとって、リーフェル村へ警告を送ることは、リーフェン家が守る側に回るという意味でもある。
以前の彼なら、利用できる情報として握ったかもしれない。
だが、今は違う。
少なくとも、少しは。
「よい」
エルドランは言った。
「リュシア、ヴィオラ、セラド。三名連名で送れ。リーフェン家として、銀葉商会への記録共有はしない。エナの使用記録も渡さない。その方針も明記しろ」
ノルドが顔を上げた。
「使用記録もですか」
ヴィオラが鋭く見る。
「当然です」
「ですが、エナの記録は貴重です。商会を通じて医療院へ共有すれば、他の患者にも」
「王都医療院へ必要な範囲で共有することと、商会へ渡すことは別です」
ヴィオラの声は厳しい。
「エナの記録は、エナのものです。研究館のものでも、リーフェン家の名誉のものでも、商会の商材でもありません」
ノルドは、はっとしたように黙った。
それから、小さく頷いた。
「……分かりました」
リュシアは彼を見る。
「今、止まれましたね」
ノルドは苦い顔をした。
「今日は何度も止められています」
「止まる回数が多い日は、悪い日ではありません」
エルミアが言った。
ノルドは、少しだけ笑った。
「それもリーフェル村式?」
「たぶん」
その場に、わずかな笑いが落ちた。
重い会議の中で、その笑いは必要だった。
◇
書状の作成は、その日のうちに始まった。
宛先はリーフェル村村長。
別紙で、シルフィ宛て。
リュシアは羽ペンを持ち、何度も文面を直した。
丁寧すぎると、距離ができる。
感情を入れすぎると、シルフィに負担になる。
警告は明確に。
でも、恐怖を煽らないように。
難しかった。
隣でセラドが文面を覗く。
「その『ご懸念ください』は硬すぎます」
「では何と」
「『先に四角を置いてください』」
リュシアは思わず手を止めた。
「それをリーフェン家の公式文書に書けと?」
「公式文書には書きません。別紙ならよいかと」
ヴィオラが横から言う。
「私は賛成です。シルフィさんには、その方が伝わるでしょう」
リュシアは少し迷い、それから別紙に書いた。
『シルフィへ。銀葉商会の件について、こちらでも危険を確認しました。今後、王都貴族家から、丁寧で正式な相談状、または招待状が届く可能性があります。文面が整っていても、保管権、選定権、費用、記録共有先、アレン殿本人の移動を必ず確認してください。先に四角を置いてください』
書いてから、胸の奥が少し痛んだ。
先に四角を置いてください。
かつての自分なら、そんなことを妹に書くとは思わなかった。
シルフィは、いつも誰かに決められる側だった。
いまは、誰かを守るために四角を置く側にいる。
リュシアは、さらに続けた。
『エナの記録は、商会へ渡しません。医療上必要な共有がある場合も、医療者と本人のために限ります。あなたが会議場で言った、同意のない記録を使わないという言葉を、こちらでも守ります』
そこまで書いて、リュシアは一度羽ペンを置いた。
指が少し震えていた。
ヴィオラが静かに言う。
「良い文です」
「謝罪に見えませんか」
「見えます」
リュシアは顔を上げた。
ヴィオラは続けた。
「でも、謝罪だけではありません。行動の共有です。今は、それでよいと思います」
リュシアは小さく頷いた。
◇
ノルドは、会議の後も研究室に残っていた。
机の上には、落ち着き布の三回分の試験記録。
エナの本人申告。
そして、銀葉商会の文書写し。
彼は、赤線の引かれた箇所を何度も見ていた。
商会保管。
商会選定患者。
費用回収。
使用記録の商会共有。
研究者としての自分は、その仕組みの一部に魅力を感じた。
症例が増える。
記録が増える。
比較できる。
研究が進む。
助かる患者も増えるかもしれない。
それは完全な悪ではない。
だからこそ厄介だ。
「まだ読んでいるんですか」
エルミアが入ってきた。
ノルドは苦笑する。
「読めば読むほど、自分が危なかったと分かる」
「今も?」
「今も少し危ない」
正直に言うと、エルミアは少しだけ安心した顔をした。
「なら、大丈夫かもしれません」
「危ないのに?」
「危ないと分かっているので」
ノルドは、エナの申告欄を見た。
『一枚なら、たぶん平気』
『いっぱいあるのは、まだ怖い』
その文字を指でなぞる。
「僕は、いっぱいある方へ走りたがる」
「はい」
「一枚が効いたなら二枚。二枚で足りなければ配置比較。症例が一つなら十。十なら百。そうした方が、多くのことが分かる」
「研究者としては?」
「正しい面もある」
「エナさんにとっては?」
ノルドは目を閉じた。
「怖い」
「はい」
「……僕は、その怖さを後回しにしようとした」
エルミアは責めなかった。
ただ、静かに言った。
「後回しにしたと気づけたなら、次は前に置けます」
ノルドは、疲れたように笑った。
「君も、ずいぶん四角が上手くなった」
「リーフェル村から学びました」
「僕も学ばないといけないな」
ノルドは、新しい紙を取った。
「何を書くんですか」
「研究室内の注意札」
エルミアが覗き込む。
ノルドは少し照れくさそうに書いた。
『症例を増やす前に、本人の怖さを見る』
エルミアは、しばらくそれを見てから頷いた。
「良いと思います」
「リーフェル村っぽい?」
「かなり」
「それは褒め言葉かな」
「最近は、たぶん」
二人は小さく笑った。
◇
夕方、リーフェン家からリーフェル村へ三通の書状が出された。
一通は村長宛ての正式な注意喚起。
一通はシルフィ宛ての別紙。
もう一通は、王都ギルドと騎士団への写し。
その中には、はっきりと書かれている。
銀葉商会へ、エナの使用記録を渡さない。
商会主導の医療利用に協力しない。
リーフェン家としても、落ち着き布を商材や研究資源として扱わない。
必要な医療共有は、本人、保護者、医療者、リーフェル村、王国またはギルド立会いのもとでのみ行う。
エルドランは、その文面に署名した。
彼は最後まで少し渋い顔をしていたが、署名はした。
セラドが書類を受け取りながら言う。
「意外と素直でしたね」
「黙れ」
「失礼しました」
「お前は本当に失礼だと思っているのか」
「半分ほど」
「半分か」
エルドランは疲れたように額を押さえた。
「……リーフェル村へ貸しを作ることになるのか」
「貸しという言葉を使うと、また嫌われますよ」
「では何と言えばいい」
「信頼の前払い、でしょうか」
エルドランは渋い顔をした。
「気持ち悪い言い方だ」
「では、やめましょう」
セラドは平然と封書をまとめた。
エルドランは窓の外を見る。
「銀葉商会の次は、貴族家か」
「おそらく」
「面倒だな」
「はい」
「だが、あの村が潰れると、我々も困る」
「エナも困ります」
セラドの一言に、エルドランは黙った。
そして、短く言った。
「分かっている」
◇
その夜、リュシアは研究館の廊下を歩き、エナの静養室の前で足を止めた。
中では、ヴィオラが記録を整理している。
エナは眠っていた。
落ち着き布は使っていない時間だ。
それでも、以前より少し寝つきが良い日もある。
もちろん、まだ発熱もあるし、夜が怖い日もある。
治ったわけではない。
けれど、少しずつ、怖い夜が短くなっている。
リュシアは静かに部屋へ入った。
ヴィオラが小声で言う。
「書状は出しましたか」
「はい」
「シルフィさんへも?」
「はい」
「なら、今夜はそれでよいでしょう」
リュシアは、眠るエナを見た。
小さな胸が、ゆっくり上下している。
「ヴィオラ先生」
「何です」
「商会が、もし資金も人手も本当に患者のために使うなら、いつか協力できる日も来るのでしょうか」
ヴィオラは少し考えた。
「来るかもしれません」
「完全にバツではない?」
「完全なバツにすると、助かる道も閉じます。ただし、今の形はバツです」
リュシアは頷いた。
「四角ですね」
「ええ。大きな四角です」
その言い方に、リュシアは少し笑った。
「大きな四角」
「小さな四角では足りません。商会と貴族家が相手ですから」
ヴィオラは、眠るエナを見た。
「この子の記録を、誰かの利益の踏み台にしない。それが今夜の丸です」
リュシアは静かに頷いた。
窓の外には、森の夜が広がっている。
リーフェル村は遠い。
だが、あの村の板の言葉は、ここまで届いていた。
助ける道は閉じない。
ただし、誰かの欲で広げない。
リュシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
そして、眠るエナのそばで、小さく呟いた。
「あなたの怖さを、後ろへ追いやらせないわ」
エナは眠ったまま、少しだけ指を動かした。
答えたわけではない。
ただの眠りの揺れだ。
それでもリュシアには、何かを受け取ったように思えた。
銀葉商会の文書は、王都から森へ、森から村へ、いくつもの赤線を連れて動いていく。
次に来るものは、もっと丁寧で、もっと断りづらいかもしれない。
けれど、今夜、リーフェン家にも小さな板が立った。
『症例を増やす前に、本人の怖さを見る』
それは、リーフェル村から届いた四角が、別の場所で形を変えたものだった。




